幸福刑
本作はボカロP「LonePi」様の「幸福刑」のオマージュ作品です。
<本家様>
幸福刑 - LonePi feat.初音ミク
https://www.youtube.com/watch?v=MlTQUSFr-gw
<歌詞>
https://w.atwiki.jp/hmiku/pages/70471.html
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1
カラン、と軽快なドアベルの音が海風と共に店内に響く。
窓の外には、光も差さず、かといって雨が降るわけでもない、すっきりしない鈍色の曇り空が広がっている。
「ありがとうございました。またお越しくださいね」
私はレジカウンター越しに、紙袋に入れたバゲットとクロワッサンを手渡し、口角を綺麗に引き上げた淀みのない笑顔で見送った。
ここは、かつて祖父母が住んでいた潮風のべたつく古い家だった。ここ数年で海岸線の再整備が進み、かつて私たちが眺めた鉛色の海は、県外から人を呼ぶ「映える」観光地へと変貌しつつあった。その波打ち際に取り残されたように建つこの古い家は、町おこしの文脈からすれば絶好の物件だった。「あの立地なら絶対に面白い場所になるから」という友人の強い誘いを受け、彼女が一念発起して店舗部分を改装し、この「アトリエ兼ベーカリー」を開いたというわけだ。友人が早朝からパンを焼き、私が店用に揃えたリネンのエプロンをつけてレジや接客を担当する。店の奥の和室をぶち抜いたスペースは私のアトリエになっており、作業の合間に店に出るというスタイルをとっている。
商業イラストの仕事が軌道に乗り始めた頃から、雑誌やSNSで「海辺のパン屋で働く若手アーティスト」と持ち上げられるようになった。町おこしを目論む役所やメディアにとって、私は都合の良い広告塔だった。休日は県外から訪れる観光客で賑わうようになった。
「燈ちゃん、取材の人、そろそろ来る時間だよね。レジは代わるから、奥に行ってていいよ」
オーブンから新しい天板を取り出しながら、友人が額の汗を拭って言った。
「ごめんね、いつもありがとう。終わったらすぐ戻るから」
私はエプロンを外し、店の奥、かつての生活空間だった居住棟へと足を踏み入れた。パンの香ばしい匂いが途切れ、代わりに古い木材の湿った匂いと、揮発油のツンとした匂いと、亜麻仁油の重く甘い匂いが混ざり合った、アトリエ特有の空気が鼻をつく。
約束の時間ぴったりに現れたのは、東京から来たという美術雑誌の編集者だった。
「へえ、立派な梁ですね。店舗のモダンな雰囲気からは想像もつきませんでしたよ」
ハイブランドのスニーカーを脱ぎ揃えながら、男は感嘆の声を漏らした。そして、「撮影してもよろしいですか?」と丁寧に断りを入れてから、熱心にスマートフォンを向け始めた。
「アトリエは、こちらです」
私が案内したアトリエには、イーゼルに乗った描きかけの風景画と、無造作に散らばった絵の具のチューブが転がっている。男は目を輝かせ、私の最新のポートフォリオやキャンバスを食い入るように見つめた。
「……いいですね。以前の洗練されたタッチも好きでしたが、最近の作品は、なんだろう……画面の奥に泥みたいな執念がこびりついている。ずっと見てると息が詰まりそうになるんですよ」
男は、納得したように深く頷きながらスマートフォンのシャッターを切り続けた。
「お姉様のことがあってから、作品に宿るものが変わりましたね。悲しみをただの喪失で終わらせず、見事に表現へと昇華されている。痛々しいほどの生への執着が、見る側の胸を抉るんですよ」
「……過分な評価をいただいて、恐縮です」
私は適当に相槌を打ちながら、テーブルの下で冷え切った指先を握りしめていた。
痛みの昇華。喪失による作風の重み。
たしかに、姉の死以降、私の描く絵に異様な執念や重さが宿ったことは自覚している。かつては姉の影響で純粋に愛していた絵を描く行為も、今ではただただ息苦しい。だからこそ、彼らがそうやって見事に意味を見出してくれるのは、私にとって都合が良いことだった。しかし、私が本当に欲しかったのは、そんな高尚な評価ではない。スーパーで買った安い惣菜を並べ、他愛もないことを笑い合いながら食べた、あの退屈で当たり前の日常だ。姉がそこにいて、ただ息をしてくれているだけの、何の変哲もない日々。それを永遠に失った対価として得た「作風の重み」など、ただの呪いでしかないというのに。
それでも私は、同業者や大人たちの期待に寸分違わず応える、物分かりの良い悲劇の若手作家として、この社会に順応し、綺麗に笑ってみせる。
男がアトリエの写真を撮っている間、私が乱雑に散らばった絵の具のチューブを片付けていると、男の足音がふいに止まった。
「あっ、すみません。こちらに置かれている絵は……つい、目に入ったもので」
そこは、かつて姉である朔が使っていた六畳間であり、今は私が大切にしている「保管庫」だった。店にはもちろん、どんな画廊にも絶対に並べない、私だけの秘密の部屋。
部屋の中央のイーゼルに、一枚のキャンバスが立てかけられている。そして壁にも、同じような絵が数枚。すべてに、一人の人物が描かれていた。
「でも、あの絵は結城さんのいつもの作品とは画風が違いますね?」
男は目を奪われたように、その部屋の敷居を跨いだ。
「……はい」
「あれは、どなたが描かれたんですか?」
「亡くなった、姉です」
「あれがお姉さんの……! よく見ると、描かれているのは結城さんの笑顔なんですね」
どのキャンバスの中の私も、満面の笑みを浮かべている。白い歯を見せ、目を細め、この世の何の憂いも知らないような、混じりけのない幸福の顔だ。光の捉え方、笑ったときに引き上がる頬の筋肉のわずかな影まで、恐ろしいほどの観察眼で克明に描き出されている。絵そのものはすごく明るいのに、その筆致はなぜか鮮烈で、見る者の感情を激しく揺さぶる。技術的には今の私の方が上のはずなのに、今の私でも絶対に描けない、命を削るような絵だった。
「すごい……ちょっと怖いくらいに惹きつけられる。これ、絶対話題になりますよ」
男は弾んだ声を出してキャンバスの前に屈み込み、様々な角度から写真を撮り始めた。
「結城さん、次回の特集記事で、裏メニュー的にこの部屋のことも紹介させてくれませんか? 画廊に掛け合って特別展示にするのもいい。お姉様が遺された、燈さんへの祈りみたいな絵ですね。これをあなたが持っているだけで終わらせるのはもったいない。悲しみを乗り越えて前を向く燈さんのストーリーとともに紹介すれば、間違いなく多くの人の救いになりますよ。」
「……乗り越えて、前を向く」
私は、自分に向けられたその無自覚な残酷さに、微かに声の震えを漏らした。
「ええ! 亡き姉が遺した、妹への最高のエールだ。読者の心を打つストーリーじゃないですか。記事の見出しもそれに合わせましょう」
男は、疑いようのない善意で、恐ろしいほど単純な顔をして笑った。
私は喉の奥に込み上げる鈍い吐き気を飲み込んだ。
他人の人生の複雑さや、そこにある泥濘のような苦痛など何一つ知ろうとせず、表面的な「美しい自己犠牲の物語」だけをすくい取って、分かった気になっている。世間の人々は、絡まった感情の糸がどこから来ているのかなんて探そうとはしない。ただ分かりやすく単純化して、手軽な感動物語に仕立て上げたいだけなのだ。
朔がどんな思いでこの絵を描き、そして冷たい海へ歩いていったのか。朔が遺したたった一通の遺書は、この部屋の鍵付きの引き出しの奥深く、誰の目にも触れない場所に隠してある。私を永遠に縛り付けるあのひどく純粋で、息が詰まるほどの祈りの言葉を、彼らの薄っぺらいタイムラインの飾りにさせるわけにはいかない。
「……お気持ちは、とても嬉しいです」
私は静かに口角を引き上げた。キャンバスの中の笑顔にも似た、明るい笑みを。
「でも、この絵は公表しません。これは私だけのものにしておきたいんです。姉の愛は、私の中にだけあれば十分ですから。……今日の取材は、とりあえずここまでにしましょうか」
私がきっぱりと、しかしあくまでも柔らかい笑みを崩さずに告げると、男は少し名残惜しそうにしながらも「そうですね、またの機会に」と引き下がった。
編集者の男を送り出した後、玄関の引き戸を閉めると、再びあの湿った静けさがアトリエを満たした。
私はイーゼルに立てられたあの絵の前に立ち尽くした。
『亡くなったお姉様も、燈さんが笑顔で前を向いて生きていることを誇りに思っているはずですよ』
男が残した無邪気な言葉が、粘りつくように耳の奥で反響している。
そうだ。私は誰よりも幸福でなければならない。私が少しでも悲しみや虚無を透かせてしまえば、あの絵に込められた姉の祈りを、私が自らの手で否定することになってしまう。
私は冷え切った指先を強く握りしめ、誰もいない部屋で、もう一度口角を上げた。
姉の祈りを絶対に嘘にしないために。私は今日もこの笑顔を纏い、終わることのない幸福という名の罰を、永遠に生き続ける。
2
私は最近、よく同じ夢を見る。
鉛色の重たい海が私の背後まで迫っていて、私は濡れた砂に足をとられ、ひどく無様な格好で必死に逃げている。波の音に混じって、朔の静かな呼吸音が聞こえる。
私は振り返ることができず、「自分はちゃんと海から遠ざかっているのだ」と必死に言い聞かせて、追ってくるものから目を背けようとする。実際はぐるぐると回り続け、どこにも辿り着けていないというのに。そうやって安堵の息を吐くために、目を覚ますという逃げ道を使って現実へ逃げ込むのだ。目覚めたあとのシーツは、いつも冷や汗でひどく湿っている。
窓の外に広がる綺麗に整備された人工の砂浜を見るたび、私はかつての薄汚れた海岸を思い出す。
あの頃の海は、晴れた日でもどこか濁った暗灰色をしていて、潮の流れが速く、人を底へと引きずり込むような不気味な海だった。波打ち際にはいつも、色褪せたハングル文字のポリタンクや、削れて角の丸くなったシーグラス、誰かが不法投棄したタイヤなどが無惨に打ち上げられていた。ただ殺風景で、寂れているだけの海岸だった。
私たちがまだ幼かった頃、両親はその鉛色の海で死んだ。
祖父母は「夜釣りに行って波に攫われた不幸な事故だ」と私たちに言い聞かせた。しかし、心を病んでいた両親が、揃って夜の海へ出かけて波に攫われるなどという不自然な話を、幼い私でさえ完全に信じることはできなかった。当時まだ三歳だった私は暗い波の音しか記憶にない。けれど、二つ年上の朔の記憶には、あの鉛色の海が、私とは全く違うおぞましい色で残っていたのかもしれない。
遺された私たち姉妹は、祖父母に引き取られ、この潮風で傷んだ古い家で育った。
幼い頃から、この家はいつも湿っていた。山の影が落ちるこの集落は日差しが差し込む時間が短く、庭の土は年中湿り気を帯びていた。私にとっての世界の輪郭は、この古い平屋と、縁側に座る祖父母、そして二つ年上の姉、朔だけで完結していた。
「燈、手元が暗いよ。もっと窓の方へ寄りなさい」
小学生の頃、居間の畳の上に画用紙を広げていた私に、朔が声をかけた。高校生になる前の朔は、髪を腰のあたりまで伸ばしていた。縁側から差し込むかすかな光を浴びて、その黒髪が青っぽく透けていたのを覚えている。
「お姉ちゃん、どうしたらそんな深い色になるの?」
私がクレヨンを一本差し出すと、朔は自分の手元から顔を上げ、小さく目を細めた。
「群青に、バーントアンバーを少しだけ混ぜるの。黒を使うより、ずっと深くて冷たい、海の底みたいな色になるから」
朔の画用紙の上には、いつも私が知らない世界が広がっていた。
私が描くのは丸と線だけでできた太陽や猫の姿だったが、朔が描く風景は、まるで生き物のように呼吸していた。庭の百日紅を描くとき、彼女はただ花を赤く塗るのではなく、花びらに透ける葉脈の影や、そこに群がる羽虫の死骸の儚さまでを、執拗なまでの観察眼でカンバスに定着させていた。朔の描く絵には、妥協というものが一切なかった。
私は当時、絵そのものが好きだったわけではないのだと思う。ただ、朔の隣にいたかった。朔がキャンバスに向かっているとき、その横顔はいつもどこか遠い場所を見つめていて、声をかけても届かないような怖さがあった。だから私は、朔と同じ道具を持ち、同じ色の絵の具を溶いた。いつしか私は、風景よりも、絵を描く朔の横顔ばかりを画用紙に描くようになっていた。そうしていれば、朔が見ている世界に私も混ぜてもらえるような気がしていた。ただ姉の隣にいると、親がいないことの孤独も忘れ、安心することができたのだ。
しかし、私が高校生になる頃に祖父が倒れ、後を追うように祖母も亡くなった。葬儀の控え室で、親類たちは私たち姉妹から目を逸らすようにひそひそと話し合っていた。
「まだ学生の子を二人も引き取る余裕なんて、うちにはないわよ……」
叔母のひきつった声を、朔は深々と必死に頭を下げることで遮った。
「私、働きます。家賃のいらないこの家なら、私のお給料だけでも絶対に燈を養えます。だから、燈とこの家で暮らすことだけは許してください」
必死に頭を下げる朔の背中を、私はただ呆然と見つめていることしかできなかった。
朔はもともと成績も良く、美大への進学を希望していたはずだった。しかし彼女は自分の部屋から画材や参考書をすべて段ボールに詰め、押し入れの奥深くへ封印した。そして、地元の水産加工会社に、現場の作業員として就職したのだ。
朔が水産工場で働き始める初日の朝。居間のローテーブルの脇で、朔は支給された無骨な作業着に袖を通しながら笑った。
「おじいちゃんたちが遺してくれた貯金が少しあるからね。燈は心配しないで、自分の好きなことをしなさい」
「燈が私の代わりに美大に行って、絵を描き続けてくれたら、それが一番嬉しいの。これからは私が大黒柱だからね」
頼もしく背中を叩いてくれたその笑顔には、一点の曇りもないように見えた。
私は高校で朔もOBだった美術部に入り、自分の描く絵が意外なほど周囲に評価されることを知った。姉のような情熱や執念はなくても、要領よく器用に描くことならできた。次第に、美大へ進んでイラストの仕事をしたいと思うようになっていた。
私は姉の優しさにすがり、「ありがとう、お姉ちゃん!」と無邪気に抱きついた。
家から歩いてすぐの海岸に、私たちは夕暮れ時によく足を運んだ。防波堤に並んで座っていた時のことだ。ふと隣を見ると、姉はじっと遠くの鉛色の海を見つめていた。
まるで、重力に逆らえず暗い水底へ引きずり込まれていくような、恐ろしく静かで虚ろな瞳。今にもこの防波堤から身を投げ、両親の待つ海の底へ還っていってしまいそうな危うさが、彼女の全身から立ち上っていた。
私はその横顔を見た瞬間、胸の奥で何かの糸が致命的に絡まり合うような恐ろしさを感じた。姉の心臓の奥底にある、私など到底触れてはいけない真っ暗な深淵。
私はわざと大きな声を出して、「もう遅いし、帰ろ!」と、波の音を掻き消すようにその場から逃げ出した。背後で姉がどんな顔をして海を見つめ続けていたのか、絶対に振り返らなかった。私には、私を甘やかしてくれる『優しい保護者』としての朔だけが必要だった。得体の知れない暗闇になど、絶対に触れたくなかったのだ。
3
私は、実家から海沿いの国道をバイクで一時間ほど走った先にある、市内の美術大学へ進学した。居酒屋のアルバイト代を貯めて買った安い中古のバイクで、軽い排気音を響かせながら海風を切って走る。ヘルメット越しに見える空はいつも高く、私の前には果てしない自由と、無限の可能性が広がっているように思えた。
一方で、朔は毎朝同じ時間に起き、息の詰まるような満員電車に揺られ、冷蔵庫のように冷え切った水産加工工場で、分厚いゴムエプロンと長靴を身につけて一日中立ちっぱなしで働いた。夜、疲れ果てて帰ってくる赤切れした彼女の指先からは、微かに魚の匂いがした。
私がバイクで手に入れた軽やかな自由と、姉が削り取られていく重苦しい日常。その残酷な視覚的対比に、気付かないはずはなかった。それでも私は、「私が美大で頑張って絵を描くことこそが、お姉ちゃんへの恩返しになるんだ」と都合よく甘えて、無邪気にキャンパスライフを謳歌していた。
美大のキャンパスには、同年代の若者たちが放つ、特有の甘く怠惰なモラトリアムの空気が漂っていた。
誰もが自分の才能を信じ、あるいは信じたいと願いながら、夜遅くまでアトリエで芸術論を交わしたり、安い酒を飲んで夢を語り合ったりしていた。私もまた、何の疑いもなくそんな仲間たちと当たり前のように肩を並べ、無邪気に自由な日々を貪っていた。
ただ、私には周囲の学生たちのような、芸術に対する身を焦がすような情熱や、絶対に描きたいという確固たるテーマはなかった。私にあったのは、クライアントやSNSのフォロワーなど、見る側が何を求めているかを瞬時に嗅ぎ分ける、あざとく計算高い要領の良さだけだった。
どういう色彩を使えば「エモい」と評価されるか。どんな構図にすればSNSで目を引くか。私は自分の内面などそっちのけで、世間が消費しやすい綺麗なパッケージを器用に作り上げていった。
その要領の良さが功を奏し、私は在学中からイラストレーターとして雑誌のカットや書籍の装画の仕事をポツポツともらえるようになった。大学二年の時、私は幼い頃にクレヨンで描き殴った『キャンバスに向かう朔の横顔』を、油彩で緻密に再構築した作品で大きな賞を取った。賞状を持って笑う私の写真は、今でも実家のどこかに眠っている。その受賞を皮切りに、大学三年生になる頃には、都内の小さなギャラリーで個展を開くまでに成功し始めていた。
華やかな世界の大人が私をちやほやし、同級生たちは羨望の眼差しを向けた。口座には、学生のアルバイトとは桁の違う報酬が振り込まれるようになった。
ある夜、私が大学の課題を終え、アクリル絵の具の匂いをさせて終電で帰宅すると、居間のローテーブルで朔が夕食の支度を終えたまま、小さく突っ伏して眠っていた。
テーブルの上には、ラップをかけられた私の分の夕食と、光熱費の払込票や、安売りのスーパーのチラシが置かれている。朔の指先にはいくつか小さな絆創膏が貼られ、水仕事による手荒れが少し目立つようになっていた。それでも彼女は、決して仕事の愚痴をこぼさなかった。むしろ、手荒れを隠すようにそっと指先を丸めながら、穏やかに微笑み、いつもと変わらぬ温かいご飯を作って待ってくれていた。
私はそっと上着を脱ぎ、朔の肩に毛布をかけた。
その時、ふと鏡に映った自分の姿が目に入った。流行りの服を着て、綺麗に化粧をし、希望に満ちた顔をしている私。その足元で、手荒れのひどい指先を丸めて、静かに眠る姉。
その瞬間、私だけが幸福を搾取しているのだという、明確な後ろめたさを感じた。
私はこんなにも恵まれ、光の当たる場所を歩いているのに、姉の人生はあんな薄暗い工場と、この古い家の往復だけで終わろうとしている。姉は本当は絵を描きたかったはずなのに、朔に及ぶはずもない私が、要領の良さだけで成功してしまった。
私が眩しい世界へ進めば進むほど、人生を諦めた姉は、心の中では無力な私を軽蔑し、あるいは私の自由を羨んでいるのではないか。文句ひとつ言わず私を庇護する姉の、その穏やかな微笑みの裏に、私への静かな憎悪が隠されているような気がして恐ろしかったのだ。
私は、一般的な「姉妹の比較」や「成功への嫉妬」という分かりやすい感情の枠組みで、姉の心を測った気になっていた。
そして私は、この申し訳なさと罪悪感から逃れるために、姉に対してひどく不器用で、残酷な振る舞いを重ねるようになっていく。
4
私は「姉は私に惨めな思いを抱いている」という思い込みから、彼女の前でわざと道化を演じるようになった。
自分が完璧な成功者になればなるほど、姉をさらに傷つけてしまう。だから私は、家ではあえて「駄目な妹」でいようとしたのだ。
私は、姉の役に立とうと慣れない手つきで夕食を作った。焦げた野菜炒めや、味付けを間違えて塩辛くなった煮物。心のどこかで、「手のかかる駄目な妹」でいれば、姉は『保護者』としての自尊心を満たせるのではないかという、浅ましい計算があった。「ごめん、また失敗しちゃった」と私が頭を掻くと、朔は「そんなに心配しなくていいのに」と少し拍子抜けしたように目を丸くし、それから「燈は昔から大雑把だもんね」と小さく吹き出し、どんなに不味い料理でも、決して残さずに綺麗に平らげてくれた。
自分が傷つきたくないがために、私は駄目な妹を演じるという小芝居で姉に花を持たせ、いびつな均衡を保とうとした。私は姉を正しく気遣い、二人で幸福になろうと歩みを進めているのだと思い込み、満ち足りた気分で焦げた野菜炒めを口に運んだ。
ある休日、私は朔を自分の美大のキャンパスへ案内したことがあった。大学祭の展示で、私のイラストがメインビジュアルに選ばれたからだ。
華やかなキャンパスには、奇抜でおしゃれな服を着た美大生たちが溢れていた。その中で、何年も着古した量販店のカーディガンを羽織り、化粧っ気のない朔の姿は、ひどく浮いて見えた。
「あ、燈! 実行委員の打ち上げ、何時からだっけ?」
すれ違った派手な身なりの友人たちに声をかけられた時。私は一瞬だけ、隣にいる地味な姉の存在を「恥ずかしい」と思ってしまい、直後にひどい自己嫌悪に苛まれた。そして、まるで遠い親戚の客人を扱うように、腫れ物に触れるようなよそよそしい態度で姉を紹介してしまったのだ。
朔は、私の友人たちに向かってただただ愛想よく、綺麗にお辞儀を繰り返していた。その時の私は、姉が「華やかな美大生たちと自分を比べて、ひどい劣等感を感じているに違いない」と確信し、自分勝手な罪悪感に苛まれた。
姉が夜、家に帰ってこない日や、深夜に朝帰りする日が増え始めたのは、私が美大の空気にすっかり馴染んだ頃からだった。
ある日、私はゴミ箱の中に、隣町のビジネスホテルの領収書や、深夜営業のファミリーレストランのレシートが丸めて捨てられているのを見つけた。また別の日には、洗面所の隅に、朔が決して買わないような安っぽくて甘い匂いのする香水の小瓶が置かれていることもあった。
当時の私は、彼女から漂うひどく冷たい危うさから目を背けたくて、「きっと彼氏ができて、外の世界を楽しんでいるんだ」と、事実を自分の都合の良いように捻じ曲げた。得体の知れない小瓶の匂いも、深夜のレシートも、私を安心させるための格好の証拠として消費した。
「お姉ちゃん、やっと彼氏ができたんだ! 自分の人生を楽しみ始めたんだな」
そんなふうに、事態を単純化して受け取った。お姉ちゃんも外の世界を楽しんで、息抜きをしているのだと。私は自分の成功に浮かれ、ただ姉の本当の姿を見ていなかっただけだった。
大きな案件のギャランティが振り込まれた日、私はギャランティの振り込み通知が来たスマートフォンの画面を、居間のローテーブルの上に置いた。「お姉ちゃん、これ見て。今度の装画の仕事のギャラ。……あのね、私、イラストの仕事でこれだけもらえるようになったの」
私は満面の笑みで言い放った。最近の姉の疲れた顔を払拭するには、これが一番の解決策だという単純な発想だった。
「だから、これからは私が家計を支えるから。もう、お姉ちゃんが無理して私を養わなくてもいいんだよ」
朔は、画面の数字と私を交互に見つめ、目を丸くして、ゆっくりと瞬きをした。
「え?」
朔は長い時間をかけてその言葉の意味を反芻し、やがて糸が切れたようにふっと息を吐いた。
「そっか。燈はもう、大丈夫なんだね」
朔は、いつもの優しい笑顔を浮かべた。だが、その声はひどく透き通っていて、長年の緊張からようやく解放されたような、深い安堵の響きだけが滲んでいた。
私はその言葉を、姉が喜んでくれたのだと受け取り、誇らしさに胸を張った。姉の肩の荷を、ようやく下ろしてあげられる。
「今まで、本当にありがとう」
私は満足げに、この上なく正しい感謝の言葉を放った。
5
その夜を境に、朔は夜遅くに帰ってくることが減った。
相変わらず朝起きると薄手のブラウスに着替え、いつも通り会社に通っていたが、夜になると自室の引き戸の向こうからは時折、ペインティングナイフがキャンバスを擦る音と、油絵の具独特の重い匂いが漂ってくるようになった。
「久しぶりに絵を描き始めて、気分転換できているんだな」と、私は安易に考えていた。
数日後の夜、朔はいつにも増して穏やかで、少し晴れやかな顔をして台所に立った。
出汁の匂いと、焼き魚の香ばしい匂いが居間に漂った。ここ最近は私が夕食を任されることが多かったが、その日は久しぶりに、姉が台所に立ち、私の大好物ばかりを並べてくれたのだ。私が作っていた不味くて焦げた手料理とは違う、昔から食べ慣れた、本当に美味しくて温かい食卓だった。
ローテーブルの向かいに座った朔は、憑き物が落ちたように晴れやかな顔で笑った。その声は、ひどく穏やかで、不思議なほど透き通っていた。
「……燈、もう立派な大人だね」
ふと、向かいに座る朔が、真っ直ぐに私の目を見て言った。
「え? 急に何?」
「燈がここまで大きくなってくれて、本当に良かった。……今まで、私と一緒にいてくれてありがとうね」
「何が? 私の方こそ、今まで育ててくれて感謝しかないよ」
私は照れくささを誤魔化すように笑い、間抜けた息を吐きながら甘い卵焼きを頬張っていた。
翌朝、私が目を覚ますと、朔はどこにもいなかった。
玄関には朔の靴がなく、開け放たれた窓から、あの鉛色の海からの冷たい潮風が吹き込んでいた。
胸騒ぎを覚えて姉の部屋の戸を開けた私は、そこで初めて異様な光景を目の当たりにした。
部屋の押し入れの襖が開け放たれ、イーゼルと壁に、隠されていた何枚ものキャンバスが引きずり出されるように立てかけられていた。それは、私が普段クライアント向けに描く、要領よくまとめられたフラットなアクリル画とは全く異なっていた。絵の具の層は、何度も執拗に塗り重ねられ、異様なほどの熱と執着を放っていた。キャンバスの中の私は、どれも異常なほど完璧な笑顔を浮かべていたが、近づいて見るとその顔は、海の底のような深い群青と黒の、祈るようなストロークの集積によって形作られていた。私の笑顔を描きながら、朔は泣いていたのか、それとも無だったのか。
警察からの連絡を受け、引き上げられた遺体と対面したのは、隣町の警察署の、漂白剤の匂いが鼻を突く無機質な霊安室だった。
硬いステンレスの台の上に寝かされた朔は、海水を吸い、岩に打たれたその顔は、直視できないほどに損壊し、生前の穏やかな面影などどこにも残っていなかった。決して美しい悲劇のヒロインなどではない、圧倒的で無惨な「ただの肉塊」だった。微笑みなど浮かべてはいなかった。ただ、硬く閉じられた唇の隙間から、ひどく冷たい海の匂いがしただけだった。
私は、変わり果てた姉の肉体を前にして、ただ呆然と立ち尽くした。あの温かかった手を握っても、もうどこにも熱は残っていなかった。
遺書は、自室の机の上に置かれていた。
公共料金の引き落とし口座の変更手順や、家の権利書に関する事務的なメモ書き。その下に、三枚の便箋が、朔の几帳面な文字でびっしりと埋められていた。
『燈へ。
何も言わずにこんな結末を選んでしまって、本当にごめんなさい。何度このペンを置こうとしたか分かりません。あなたを一人残して逝く残酷さを思うと、手が震えました。それでも、私の内側で崩れ落ちていく音が、もうどうにも止まらないのです。だからせめて、最後くらいは嘘をつかずに、私の本当の姿を告白しておこうと思います。
ずっと隠していましたが、あの日、私は両親が暗い波間に沈んでいくのを見ていました。幼いあなたがぐっすりと眠っていた真夜中、私は二人が手を開き、黒い水底へと消えていくのを、冷たい砂浜からただ見つめていました。
それ以来、私の中には両親と同じ弱く逃げ腰な血が流れていることに気づき、ずっと海に呼ばれる音が聞こえていました。
私が子供の頃から何かに憑かれたように絵を描いていたのは、ただその波の音を掻き消すためだったのです。才能があったからでも、芸術を愛していたからでもありません。ただキャンバスを睨みつけ、強い色を塗り重ねることでしか、自分の耳を塞ぐことができなかったのです。
燈を守り、育てること。それだけが、あの波の音から私を遠ざけてくれる唯一の錨でした。工場の仕事は冷え切っていて手荒れもひどかったけれど、それでも満員電車に揺られている時間や、忙しく魚を捌いている時間は、頭の中が空っぽになるから好きでした。「私がいなければこの子は生きていけない」という強迫観念だけが、私を狂気から守る盾だったのです。
私はあなたのために生きていたのではなく、自分が生き延びるために、あなたを利用していただけなのです。燈が私を不憫に思い、わざと不味い料理を作って気遣ってくれていたことも分かっていました。私が「仕方ないね」と笑って焦げた野菜を口に運ぶたび、あなたは私に保護者としての小さな優越感を与え、安心させてくれていたのですね。その不器用な優しい嘘が、私には何よりも嬉しかった。燈はいつも私に頼り切りでごめんねと謝っていたけれど、本当は私のほうが、あなたの存在に深く依存して生きていたのです。あなたがいてくれなければ、私はとうの昔にあの海へ還っていたでしょう。
燈が立派に独り立ちしてくれたあの日から、私は私なりに、自分の幸せを探そうとしました。あなたから手渡された自由の中で、もう一度、普通の人間の輪に戻ろうと足掻いたのです。職場の同僚と食事に行ったり、遅くまで映画を見たりもしました。でも、どこへ行っても、誰と話しても、私の中にはぽっかりと穴が空いたままで、何も見つかりませんでした。世界はひどく鮮やかで騒がしいのに、私だけが色のない分厚いアクリル板の中に閉じ込められているようでした。
そして、役割を終えて静まり返った私の部屋で、再びあの凄まじい海鳴りが聞こえ始めたのです。もう、どんなに絵を描き殴っても、薬を飲んでも、その音は消えませんでした。
もう、生きるための熱がどこにも残っていないのです。これ以上生き長らえれば、私は完全に壊れ、両親のようにあなたを深い絶望へ引きずり込んでしまうかもしれない。それが何よりも恐ろしい。私は、あなたを傷つける自分にだけはなりたくないのです。
私は、燈の描く絵が大好きでした。何の憂いもない、光に満ちたあなたの笑顔を見るのが何よりの救いでした。私には決して描くことのできない、眩しい世界をキャンバスに描き出せるあなたを、私は心の底から誇りに思っています。
私の死に、どうか囚われないでください。私の死は、誰のせいでもありません。私自身の血と、生まれ持った性質の帰結に過ぎないのです。
今まで本当にありがとう。どうか、私の分まで、正しく、幸せに生きてください。』
私への嫉妬や恨み言など、一文字もなかった。
私に対する劣等感や軽蔑など、端から存在していなかったのだ。彼女が抱えていたのは、そんな分かりやすい一般的な感情ではなかった。誰とも分かち合えない、血と気質の恐ろしい孤独だった。
もちろん、その本当の深さはもう死んだ姉にしかわからない。それでも、私は分かった気になって単純化せず、もっと踏み込んで聞くべきだったのだ。彼女が暗闇を打ち明けられるように、もっと不格好に寄り添おうとするべきだった。
なぜ、姉の本当の苦しみに気づけなかったのだろう。私は自分が心地よくいるために、姉を「立派な保護者」の枠に押し込め、ただ甘い汁を吸っていただけだった。
私が絵など描かず、無力なままでいれば、姉は「妹を育てるため」に苦しみながらも生きていてくれたはずだった。私が無邪気に振りかざした「もう無理しなくていい」「今までありがとう」という優しい言葉が、姉をこの世に繋ぎ止めていた最後の足場を奪い去り、あの冷たい海へ背中を押した。
姉は私のために自己犠牲の果てに死んだのではない。私の浅ましい成功と、無邪気な気遣いこそが、姉の息の根を止めたのだ。
遺書を握りしめながら、私は声にならない悲鳴を上げて床に崩れ落ちた。
涙で滲む視界の先では、イーゼルに立てられたキャンバスの中の私が、何の憂いも知らない顔で、私を見下ろして静かに笑い続けていた。
6
カラン、と軽快なドアベルの音が鳴り、賑やかな笑い声が海風と共に店内に滑り込んできた。
窓の外では、他県から来たカップルたちが、白く整備された人工の砂浜でスマートフォンを掲げて笑い合っている。かつてゴミばかりが打ち上げられていた鉛色の海辺は、テトラポッドが撤去され、県外から運ばれた見栄えの良い白い砂が敷き詰められた。朔が最期に見た景色すら、もうこの世界には残っていないのだ。
「あ、燈! 久しぶり! 雑誌の取材受けたんでしょ、おめでとう!」
やってきたのは、美大時代の絵師仲間たちだった。休日のドライブがてら、わざわざ県外からこのパン屋まで足を伸ばしてくれたらしい。
私はレジカウンターの奥から、「いらっしゃい、遠いところありがとう」と、愛想の良い笑みを浮かべて出迎えた。
「最近の燈の絵、マジですごいよね。学生の頃のおしゃれなイラストも好きだったけど、今はなんというか、もっとこう……エモいっていうか、刺さるんだよね」
「わかる。お姉さんのことがあったからかもしれないけど、なんていうか、燈の絵って、ただ綺麗なだけじゃなくて、もっと深いところに触れてくる凄みがあるよね。昔の絵も好きだったけど、今の絵からは目が離せなくなる。」
イートインスペースのテーブルでクロワッサンをかじりながら、彼女たちは悪気のない、純粋な称賛としてその言葉を投げかけてくる。私は「ありがとう、まだまだだけどね」と、一番喉に負担のかからない発声で同調し、微笑みを返した。
彼女たちに悪気など一滴もない。ただ、世間の人々と同じように、他人の人生の複雑さを単純化し、分かりやすい「美しい姉妹愛の物語」として感動の種にしたいだけなのだ。姉が死んだ年齢を越えた今なら、少しだけ理解できる気がする。人間の心は、そんなに単純なものではないのだと。
喪失の昇華。作品の深み。彼らが無邪気に口にするその言葉が、私の心臓を冷たいナイフで削り取っていく。
もし願いが叶うなら、こんな絵の才能など、今すぐ鉛色の海に投げ捨ててしまいたい。ちやほやされることにも、作品につけられた値段にも興味はない。私が欲しかったのは、ただ姉と同じ空気を吸って、他愛もないことで笑い合う時間だけだったのだ。それを永遠に失った対価として得た「作風の重み」など、私にとっては悍ましい呪いでしかない。
夜が来るたび、私は引き出しの奥から朔の遺書を取り出す。
『どうか、私の分まで、正しく、幸せに生きてください』
もし私が悲しみの中で生きることを投げ出せば、姉の最期の祈りまで無意味になってしまう。「あなたの笑顔を見るのが何よりの救いでした」というあの言葉を、悲しいだけの結末へと貶めることだけは絶対に許されない。
本当は、ただお姉ちゃんと一緒に、他愛もない日常を生きたかっただけだった。けれどその思いには永遠に蓋をして、私は絶対に、誰よりも幸福な人間で居続けなければならないのだ。姉の純粋すぎる愛が間違いではなかったと、私の人生を懸けて証明し続けるために。
「じゃあね、燈。また展示会やるときは絶対呼んでね!」
「うん、気をつけて帰ってね。ありがとう」
友人たちを見送った後、私はバックヤードに戻り、姿見の前に立った。
姿見の中の私と目が合う。私は冷え切った指先で自分の頬を軽く叩き、口角を滑らかに引き上げた。キャンバスに描かれた私と寸分違わぬ、一滴の陰りもない幸福な顔。
ああ、ほらね。私はあの日から何一つ変われない。姉が遺した呪いが、ただひとつの正しさとして輝き続けるために。決して晴れることも、雨が降ることもない淀んだ曇り空の下で、クライマックスなど訪れない終わりのない幸福を、これからもずっと演じ続けるのだ。
カラン、と軽快なドアベルが鳴る。私は、淀みない笑顔で明るい光の中へ足を踏み出した。




