過去を喰らう(20260919改稿n1)
本作は「花譜」様の楽曲「過去を喰らう」のオマージュ作品です。
※20260919_改稿
<本家様>
https://www.youtube.com/watch?v=tMKrECxEpq8
<歌詞>
https://www.uta-net.com/song/375678/
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1
春を告げる鳥が鳴いている。
どこかの呑気なウグイスが、今日という日が特別な区切りであるとでも言いたげにさえずっている。私にとって、それは時間が無慈悲に進んでいることを突きつけるだけの、耳障りな雑音でしかなかった。
「楓花、早く着替えないと遅れるわよ。今日は卒業式なんだから」
「わかってる」
母親のやけに弾んだ声に生返事を返しつつ、私は重い体をベッドから引き剥がした。ろくに眠れていない。泥のような惰眠を貪っても、目が覚めればひどい寝不足感と不快な頭痛がつきまとってくる。
洗面所で顔を洗い、制服のブラウスに腕を通してから食卓につく。目の前に出されたトーストに、やけくそみたいにたっぷりとジャムを塗りたくって、口の中に放り込んだ。
「最近、よく食べるようになったわね」
母親がコーヒーを注ぎながら、ほっとしたような、的外れな笑みを浮かべた。
「……別に、普通だよ」
「ずっと塞ぎ込んでたから心配してたのよ。でも、ようやく楓花も元気になったのね」
「うん、そうだね。元気になったよ」
私は空っぽの愛想笑いを返し、味のしないパンを胃袋へと次々に詰め込んでいった。優しい母は勘違いをしている。私が何かを食べているのは、元気になったからではない。
ぽっかりと空いてしまった胸の空洞を、ただ何かを胃に流し込むことで誤魔化したいだけだ。味なんて全くしないなんて言えば、母を悲しませてしまう。だから私は、ただ黙ってパンを咀嚼し続けた。
部屋に戻り、制服に袖を通す。鏡の前に立つと、抜け殻のような自分がこちらを見つめていた。
机の隅には、ずっと放置されたままのノートパソコンがある。
以前の私は、時間さえあればあのキーボードを叩いていた。自分のちっぽけな悲しみや喜び、頭の中に広がる異世界を言葉にして、誰かに読んでもらう。それが楽しかった。何かを書くことが、息をすることと同じくらい当たり前の日常だった。
キーボードを見つめながら、どうしてあんなに言葉を紡ぐことが好きだったのだろうと、ふと思った。
もう何も書けない。言葉を尽くして感情を描写することの虚しさを知ってしまったから。あんなに愛していたはずの、小説を書くという行為そのものの理由を、私はすっかり忘れてしまっている。
「ほら楓花、お父さんも待ってるから!」
「今行く」
カバンを掴み、部屋を出る。
私の頭の中は、あの日からずっと、行き場のない怒りで黒く濁り続けている。
憎んでやろうと思った。たった一人の大切な親友を、理不尽な事故で唐突に奪っていったこの世界そのものを、呪い殺してやりたいとすら思った。けれど、いくら呪詛を吐き出しても、私から奪ったものを世界は決して返してはくれない。怒りの矛先すら用意されていない現実は残酷だ。でも、今日でこの窮屈な制服ともお別れだ。彼女のいない教室に行くことも、もう二度とない。それだけが今の私にとって唯一の救いだ。
玄関のドアを開けると、冷たい春の風が頬を打つ。
私から彼女を奪ったまま、何事もなかったように進行していく、嘘だらけの儀式が始まろうとしている。
2
思い返すのは、決まって一年前の春のことだ。私がまだ、彼女のことを「伊勢谷さん」と名字で呼んでいた頃――。
進学校という息苦しい箱の中で、私は早々に競争から降りた劣等生だった。中学まではそれなりに勉強もできたが、上には上がいるというありふれた現実に打ちのめされた私は、自分から競争を降りたふりをして、教室の隅で周囲と壁を作っていた。
だから、学年トップクラスの成績で、誰にでも愛想のいい伊勢谷衣織のことは、「つまらない優等生」だと見下して防衛線を張っていたのだ。常に光の当たる場所を歩く彼女と、日陰にいる私が交わることなんて絶対にないと思っていた。
だけど、あいつは思いがけないほど軽やかに、私の領域に踏み込んできた。
「テスト一週間前に分厚い文学小説とか、結構ロックだね」
休み時間。私がイヤホンをしてスマホから流れる音楽で耳を塞ぎつつ、机でトーマス・マンの文庫本を開いていた時のことだ。不意に降ってきた声に顔を上げると、伊勢谷衣織が私の手元を覗き込んでいた。
「……テスト前だから、読みたくなるんだよ」
「なるほどね。現実逃避か。わかる気もする」
彼女は嫌な顔一つせず、ふふっと笑って私の前の席に座り込んだ。
当時の私は、ネットの小説投稿サイトに自分の作品を載せることに熱中していた。名前にこだわるのはダサいという謎の見栄から「鈴木」なんていう無個性なペンネームを使って、自分のちっぽけな侘しさや悲しみを、これでもかと青臭い言葉で書き殴っていた。
私が「鈴木」だと衣織にバレたのは、昼休みの図書室がきっかけだった。
誰もいない窓際の席で、私がスマホの下書きページにひたすら文章を打ち込んでいた時のことだ。「何書いてるの?」と背後から不意に声がして、手元からスマホをひょいっと抜き取られた。
「あ、ちょっと、返してよ!」
慌てて手を伸ばしたが、彼女はいたずらっぽく笑って私をひらりと躱し、画面を覗き込んだ。そこには、投稿サイトの管理画面と、私の書いた大量のテキストが表示されていた。
「え、この『鈴木』って、楓花なの?
これ、全部自分で書いてるの?」
彼女は目を丸くした。馬鹿にされると身構えた私に向けられたのは、予想外の言葉だった。
「すごい。こんなにたくさん。楓花、小説書けるんだ」
彼女はゆっくり画面をスクロールしながら言った。
「私、こういうゼロから何か作れる人、本当に尊敬する」
真っ直ぐな称賛だった。私はひどく狼狽した。成績という物差しで見れば、圧倒的に彼女の方が上だ。それなのに、彼女は私の持っている「異世界」に純粋な憧れの目を向けていた。
翌日、投稿サイトの中で、私の作品に新しい読者がついた。
『荷楓』という、ふざけた名前のアカウントだった。
「ねえ、これ伊勢谷さんでしょ」
「バレた?
永井荷風と、楓花の名前を混ぜてみたの。センスあるでしょ?」
「センスの欠片もないし。ていうか、なんでわざわざアカウントなんて作るの」
「だって、読み専でもアカウントあった方が感想書きやすいじゃん」
彼女は有言実行だった。私の書く鬱屈とした、あるいは無駄に技巧を凝らした鼻持ちならない短編に、彼女は『荷楓』として必ずレビューをつけてきたのだ。
しかも、星はいつも「1」か「2」だ。
『文体が硬すぎて感情移入できない』
『主人公の独白が長すぎる。もっとテンポよく』
いっちょ前に評論家気取りの辛口コメント。なのに、その最後には必ず『でも、この言葉の選び方は好き。次回作も待ってます』という応援の言葉と共に「いいね」が押されていた。
「あのさ、恥ずかしいから本当にやめてくれない?」
「えー、なんでよ。私、鈴木大先生の専属読者なのに」
「星1つける専属がいるか」
「愛の鞭だよ。でも昨日のコメント、良いこと言ってたでしょ?」
深夜のベッドの中、スマホの画面に通知が光る。
『荷楓さんから新しいレビューが届きました』
それを開く瞬間の、あのくすぐったいような、心臓が跳ねるような喜び。私は「鈴木」という仮面を被りながら、本当は自分の書いたものを誰かに見つけてほしかったのだ。
深夜に更新された星の数を、翌日の教室でひそやかに答え合わせをする。いつしかそれは、つまらない学校生活における私たちの密かな儀式になっていた。
「伊勢谷さん」が「衣織」になり、彼女との時間は私の空虚な日常を鮮やかに塗り替えていった。
私とは正反対の、光の当たる道を歩いている完璧な優等生。
どうして彼女が底辺の「鈴木」の小説をわざわざ読み、不器用な星をつけ続けてくれたのか。
学校生活のあちこちに、彼女との記憶がこびりついている。中でも一番鮮明に思い出すのは、あの雨の日のことだ。
「こんなひどい天気なのに、なんだか嬉しそうだね」
私の傾けた傘の端で肩を濡らしながら、衣織が言った。
アスファルトを打ち付ける雨に景色が滲む帰り道。私たちは一つの傘に身を寄せ合って駅へと向かっていた。
「うん。雨の日、けっこう好きなんだよね。世界が少しだけ遮断される気がして……あとは、えっと」
照れ隠しで言葉を濁す私に、衣織は優しく頷いた。
「わかるかも。余計なものが見えなくなるよね」
雨の音に守られるようにして、私たちは教室では決して話さないようなことを語り合った。話題はいつしか、将来のことになった。
衣織の両親は、絵に描いたような教育熱心でスノッブな大人たちだった。彼女は両親の干渉を窮屈だと言いながらも、反発しきるわけでもなく、諦めたような苦笑いを浮かべていた。彼女は真っ当に両親を愛していたのだと思う。
「親の期待に応えるのは、案外嫌いじゃないんだ。でもさ」
水たまりを避けながら、衣織はふと足元に視線を落とした。
「私には、将来の夢がないんだよね」
「嘘でしょ。衣織なら、なんだってなれるじゃん」
「なれないよ。みんな私が完璧だと思ってるけど、全然違う。ただ、成績が落ちるのが怖いだけ。優等生っていう枠から外れたら、私には何にも残らないんじゃないかって、いつも怯えてる」
彼女の横顔は、教室で見せる余裕のある優等生のそれではなく、ただの迷子のようだった。
「私、大人になるのが怖いんだ」
吐き出すような声だった。
「親の期待に応えて、立派な大学に入って、誰からも褒められる大人になって。そうやってどんどん強くなることを求められるのが、本当はすごく怖い」
完璧に見えた彼女が抱えていた、切実で等身大の弱さ。
成績なんてとうに諦めていた対極の私は、ここぞとばかりに見栄を張り、無責任にも自分の夢を語ってしまった。
「私は、ずっと小説を書いていたい。プロになれるかなんてわからないけど、誰かの悲しさとか、息苦しさみたいなものを、言葉にして掬い取れるようなものを書きたい」
当時の私の、あまりにも青臭い言葉。
しかし衣織はそれを馬鹿にするどころか、目を丸くして、食い入るように聞いていた。
「すごいよ、楓花は。私、楓花のそういうところ本当に羨ましい。……ねえ、いつか私のことも書いてよ。私のこと一番知ってるのは楓花だけなんだからさ」
雨空の下で彼女が向けた柔らかい笑顔が、私の胸の一番奥に焼き付いている。
自分にはないものを私に見出し、真っ直ぐに羨んでくれたあの眼差しが、当時の私にとってどれほどの救いだったか。
……あの日、私が雨を好きだと言った細かな理由なんて、もう思い出せない。駅までの道で、イヤホンを片方ずつ分け合って聴いた好きな歌の名前すら、記憶の底に沈んでしまった。
それでも、彼女と一緒に歩いたあの雨の帰り道がたまらなく好きだったという感情の残骸だけが、今も私の中にこびりついていた。
***
そんな密やかで鮮やかな日々が、永遠に続くのだと信じて疑わなかった。
半年前の、あるありふれた朝。
ホームルームのチャイムが鳴り終わっても、誰も教壇に立たなかった。数分遅れて教室に入ってきた担任の顔は、ひどく引きつっていて、血の気を失っていた。
「皆さんに、伝えなければならないことがあります」
担任の震える声が、教室の空気を凍らせた。
「昨日の夜……伊勢谷さんが、亡くなりました」
ドクン、と心臓が跳ねた。
冗談だと思った。だって、昨日の帰り際にも彼女は「また明日、新しい小説更新しといてよね」と笑っていたのだ。
「交通事故、でした。ご遺族の意向もあり、詳しいことはまだお話しできませんが……」
担任の言葉はそこで途切れた。それから先は、教室中に広がる波のようなざわめきと、誰かの泣き声にかき消されて聞こえなかった。
彼女がどんな風に死んだのかを知ったのは、昼休みに誰かが見ていた地元ニュースのネット記事だった。
父親の運転する車で助手席に乗っていた衣織は、即死だったという。重傷を負った両親は助かり、居眠り運転をしていた加害者のトラック運転手も死んだと記事には書かれていた。
悪いのは居眠り運転をしていた加害者だ。生きていれば、殺してやりたいほど憎んだだろう。けれど、そいつもあっけなく死んでいる。怒りをぶつける先すら存在しない。私のたったひとつの居場所は、そんなただの「無意味な事故」によって、呆気なくすり潰されてしまったのだ。
「なんで……伊勢谷さんが」
「あんなに、いい子だったのに」
「あんなに頭良くて、天才だったのに……」
教室のあちこちから、すすり泣く声が漏れ始めた。
その日からしばらくの間、私はただ深い泥の底に沈んでいた。
学校に行っても、彼女のいない教室は輪郭を失ったようにぼんやりと霞んでいた。休み時間になっても、前の席に座って笑いかけてくれる人はもういない。夜のベッドの中でスマホを握りしめても、『荷楓』からの通知が光ることは二度となかった。
息をするたびに、胸の奥が軋んで痛かった。衣織がいない世界は、ただ果てしなく空虚で、色褪せていた。
***
そんな窒息しそうな日々の底で、周囲への違和感がじわじわと形を持ち始めたのは、秋の体育祭が近づいた頃だった。
同級生たちは「伊勢谷さんのためにも頑張ろう」とスローガンを掲げ、行事のたびに彼女の話題を出して団結をアピールし始めた。もし衣織が生きていたら、表向きは優等生らしく振る舞いながらも、私にはこっそり舌を出して「何これ、ウケるんだけど」と苦笑してしまうのではないか。
本当の彼女の姿なんて何一つ知らないくせに、彼らは「悲劇の優等生」という分かりやすい型に彼女を押し込んで、自分たちの心地よい悲しみに酔っているように見えた。
彼らの無自覚な自己陶酔を見せつけられるたび、悲しみに凍りついていたはずの私の心に、どす黒い苛立ちが滲んでいく。
成績が落ちることに怯え、将来の夢がないと雨の中で震えていた彼女の本当の息苦しさを、ここにいる誰一人として知らない。一番仲の良かった私にも「一緒に頑張ろう」と声をかけてくる無神経な者もいたが、酷く冷たくあしらって以来、誰も寄り付かなくなった。彼らが愛しているのは、彼らの頭の中にだけいる綺麗に美化された「可哀想な優等生」だけだ。
気づけば私は、机の下で両手を固く組んでいた。
爪が手のひらに深く食い込み、奥歯をギリリと鳴るほど噛み締める。口の中にじんわりと血の味が広がったけれど、肉体の痛みなんてどうでもよかった。
彼らを冷たく見下し、心の中で毒づいていないと、彼女を喪った悲しみごと、あっという間に日常に飲み込まれて消えてしまいそうだったのだ。
***
彼女の死後、私は一切の小説を書かなくなった。
悲しみや苦しみを描いた文学作品も、心底嫌いになった。本物の理不尽な絶望を前にしては、いかに技巧を凝らした美しい悲劇も、どこかの誰かが頭の中でこしらえた嘘くさいおとぎ話にしか見えなかった。
言葉で全て解決するなら、こんなに涙は出ない。
夜の暗い部屋の中。心に響くのは、彼女が遺した物ばかりだった。
私はベッドに寝転がったまま、スマホの画面を見つめていた。開いているのは、投稿サイトの『荷楓』のマイページ。何度リロードしても、彼女の更新履歴が動くことは永遠にない。
『今回の主人公、ちょっとひねくれすぎ。でも、最後のセリフはすごく刺さった。いいね』
画面の中で、彼女が遺したふざけたレビューの数々を読み返した。
当時の私は、その言葉にただ喜んだり反発したりするだけだった。けれど、二度と更新されない画面を見つめながら、私はようやく理解したのだ。完璧な優等生を演じていた彼女もまた、誰にも言えない孤独を抱え、私の紡ぐ不格好な異世界に救いを求めていたのだと。
私は今更ながら、彼女のことをどこまでも知りたくなってしまった。
暗闇の中でスマホを握る手は、情けないほど震えていた。
私は『荷楓』のお気に入りリストを開き、彼女が残した星の記録を一つ一つ漁っていった。彼女はどんな物語に惹かれ、どんな言葉に孤独を重ね合わせていたのか。
画面の中で彼女が遺した言葉の残骸に触れるたび、どうしてあの時もっと彼女の話をしっかり聞いていなかったのかと、後悔ばかりが押し寄せてきた。
もっと彼女のことが知りたかった。優しい優等生の仮面の裏側で、どんなふうに笑い、どんなふうに泣きたかったのか。深夜の答え合わせで、もっとたくさんふざけ合いたかった。
彼女のことがたまらなく愛おしくて、ただあの頃に戻りたかった。
あの日、衣織の前で熱っぽく語った私の夢。彼女が眩しそうに羨んでくれた私の希望。
――夢や希望は、なんだった? やりたいことは、これだった?
暗闇の中で、私は自嘲するように呟いた。
そんなものは、彼女が死んだあの日、完全に無意味なものになった。他人の悲しみを掬い取る言葉なんて、この残酷な世界には一つも存在しないのだと知ってしまったからだ。
虚構の物語を紡ぐことなんて、もう二度とやりたくない。
もし今そう叫んだら、あの日の衣織はわかってくれただろうか。
文学的な比喩も、気取った言い回しも抜け落ちた、馬鹿みたいに単純な感情だけが残っていた。
私の心は、あの日からずっと、彼女への気持ちだけが終わらないまま、暗闇の中で立ち尽くしていた。
3
「それでは、卒業生代表、答辞」
パイプ椅子が規則正しく並んだ体育館に、マイクを通した生徒会長のくぐもった声が響き渡る。
滞りなく進んでいく卒業式。誰かの用意した台本通りに進むその儀式は、私にとってひどく退屈で、どこまでも空々しいものだ。
「……今日、この良き日を共に迎えるはずだった、大切な友人がいます」
不意に、マイクの声が少しだけ震えを帯びた。体育館の空気が、しんと張り詰める。
「伊勢谷さんは、いつも笑顔で、誰にでも優しく、私たちの憧れでした。彼女の突然の悲報に、私たちは深い悲しみに暮れました。しかし、彼女が遺してくれた思い出を胸に、私たちは前を向いて歩いていかなければなりません。伊勢谷さんはきっと、空の上から私たちの旅立ちを見守ってくれていると信じています」
まただ。彼らはまた、衣織の死を「綺麗な物語」に仕立て上げようとしている。
成績が落ちることに怯え、親のプレッシャーに苦笑いし、深夜に他人の小説に悪ふざけのようなレビューを書き込んでいた彼女の本当の姿なんて、何一つ知らないくせに。
大人ぶって意味にすがる彼らは、どうしようもない無意味な悲劇に直面すると、決まって綺麗な歌を歌いたがる。
「空の上から見守ってくれている」「彼女の分まで生きる」だなんて、手垢のついた言葉で都合のいい偶像をでっち上げ、自分たちの心を納得させるための美しい物語に押し込めようとしている。
この不可解で残酷な世界には、生きる意味なんて初めから用意されていない。
あっけなく命が奪われる無意味な現実を見せつけられたからこそ、私は、彼らが平気な顔で口にする無神経な「優しい言葉」を、常に疑っていた。
(ふざけるな。衣織は綺麗事の主役なんかじゃない。ただ、理不尽に殺されただけだ)
奥歯を噛み締め、やり場のない怒りに顔を上げたときだった。
ふと、最前列の来賓席に目が留まる。そこには、衣織の遺影を胸に抱いた母親が、一人で座っていた。
私は、来賓席に座る彼女の姿を見て、少しばかりの嫌悪と疑問を抱いていた。以前学校で一度だけ見かけた彼女は、隙のないスノッブで教育熱心な印象だったからだ。生前、あんなに娘を窮屈な枠に縛り付けて苦しめていた人が、一体どんな顔をして卒業式に出席しているのだろう、と。
けれど。
「……衣織」
静まり返った体育館の空気を引き裂くように、ひゅっと息を呑むような不格好な音が響く。
声にならない、深い嗚咽だ。
彼女は、遺影の額縁を強く握りしめ、完璧にセットされていたはずの髪を振り乱して、肩を震わせて泣いている。
「ありがとうございます」とでも言うように、何度も、何度も、壇上で答辞を読み上げる生徒会長に向かって深く頭を下げながら。
化粧は涙でぐしゃぐしゃに崩れている。周囲の目など気にする余裕もなく、誰かが与えてくれた意味にすがりついて、ただ娘の死という絶対的な喪失を前に、ひとりの無力な人間として泣き崩れていた。
『親の期待に応えるのは、案外嫌いじゃないんだ』
雨の日の帰り道、困ったように笑っていた衣織の声が脳裏に蘇る。
あんなに隙が無くスノッブだった人が、周囲の目も気にせず、なりふり構わず泣いている。その姿は、私が軽蔑していた「悲劇に酔う」ようなものとは全く違っていた。
娘を自分好みの枠に押し込もうとした不器用で身勝手なエゴだったとしても、彼女が衣織を愛していたことだけは、疑いようのない事実だった。
胸の奥が、ズキリと痛む。
私は、意味に縋る者たちを「腑抜けている」と見下すことで、自分を守っていただけではないのか。
彼らは安直に悲劇に酔っているわけではない。ただ、この残酷な世界の中で、手垢のついた綺麗事の中に『意味』でも見出さなければ立っていられないほど、必死に泣いているだけなのだ。
自分だけが特別に傷つき、誰かを冷たく批判することで悲しみから目を背けていたのは、他でもない私自身だったのだ。
体育館の窓から、冷たい光が差し込んでいる。
私は膝の上で固く握りしめていた拳を、ゆっくりと解く。
もう、彼らを憎むのはやめよう。誰かに怒りを向けて自分を正当化するのも、終わりにしよう。
式典の終わりを告げるピアノの伴奏が、冷え切った空気に溶け出していく。
***
自室のドアを閉めた瞬間、堰を切ったように体の力が抜ける。
乱暴に鞄を放り投げ、私は着ていた制服のボタンを苛立たしげに外していく。
息苦しい学校生活の象徴。衣織と出会い、そして永遠に喪った、ひどく重たくて苦しい記憶が染み付いた布切れ。
私は脱ぎ捨てたブラウスとスカートを、ハンガーに掛けることもせず、部屋の床に無造作に放り投げる。
もう二度と、袖を通すことはない。大人になるのが怖くて、いつまでもこの窮屈な抜け殻の中で泥のような惰眠を貪っていたかった私からの、決別の儀式だ。
床に落ちた鞄から、卒業証書の入った黒い筒状のケースが転がり出る。
拾い上げて、冷めた目で見下ろす。
こんな紙切れを貰えば、何か立派な人間になれるとでもいうのか。衣織が怯えていた「立派な大人」への通行証。そんなものは、彼女がいないこの世界では、ただの無意味な記念品に過ぎない。
私は中身を確かめる気すら起きず、筒ごと机の引き出しの一番奥に乱雑に押し込む。
机の上には、ずっと蓋を閉じたままのノートパソコンがある。
私は椅子に深く腰掛け、見慣れた黒い天板をただ見つめた。
悲しみを美しい『悲劇』として飲み込むような、器用な物書きになれたなら、これほどまでの苦しみは知らなかったはずだ。
でも、私にはまだそんな大人になることができなかった。彼女のいない世界に慣れ、悲しみを割り切って『強い大人』になっていく自分を認めることが、私にはまだできなかったのだ。
言葉で虚構を紡ぐことの無力さは、もう痛いほど分かっている。
だからもう、このパソコンを開くことはない。そう思っていた。
――そんな絶望の底で、不意にあの日の声が蘇った。
『いつか私のことも書いてよ。私のこと一番知ってるのは楓花だけなんだからさ』
あの雨の日、彼女が柔らかい笑顔で私に向けた言葉。
ハッと息を呑む。その瞬間、私は気づかされたのだ。
そうだ。彼女は、綺麗事の物語なんて求めていなかった。
私が書かねばならないのは、彼女を救う美しい虚構ではない。彼女が生きた痛みのままの、不格好な真実だ。
私はゆっくりとパソコンの天板を開き、エディタを立ち上げて、真っ白な画面と向き合う。
もう、自分を慰めるための嘘は書かない。誰かに消費されるための、綺麗な物語もいらない。
私はただ、伊勢谷衣織という一人の人間が、確かにここで怯え、苦笑し、そして私に「いいね」を押してくれたという生々しい真実だけを刻みつけよう。
過去を綺麗に忘れるのではなく、この喪失の痛みごと抱えていく。
彼女が死んだという残酷な現実も、この世界への終わらない怒りも、すべて自分の中に喰らい尽くして、私は生きていくのだと。
キーボードの上で、迷っていた指が動く。
永遠に星のつかない物語の、最初の一行。
『荷楓という、ふざけた名前の読者がいた』
ウグイスの鳴き声が、遠くの空へ吸い込まれて消えた。




