若草の語るを聴く001
若草の語るを聴く001
兎に角だ、土方歳三と言う人の存在を知って以来、私の生活に微妙な変化が現れた。
周囲の人間を見る眼が若干変わったのだ。
今まで見ていた人たちはある程度観察すると大抵どんな人間か解って付き合い方をなんとなく決められる傾向があったのだが土方歳三という人だけは、どうにもこうにも読めないところが多すぎたのである。
そんなわけで暇が出来るとあちこちで土方氏の、噂を聞き情報収集をするのが趣味みたいになった。
事件の後、最初に土方氏についての情報を得る事となったのは
『 永倉新八 』氏であった。
永倉氏は近藤先生と剣を交えて以来、先生の気魄に惚れこんだと言ってちょくちょく道場への出入りしていたので顔を会わす機会は結構多かったのだ。
道場へ泊まっていく事もあったし、いつの間にか台所に入り込んで、勝手に魚等をさばいて料理している姿をちょくちょくみかけた。
ただ食客という程道場に寝泊まりしているかというとそういう訳ではなかったが。
ある日、稽古の後に土方氏の事で他の門人の数名が永倉氏に相談をもちかけているらしいのが自然と私の耳に入ってきた。
……要は立ち聞きだ。
「ああぁー、トシさんなぁ~」
肩の力を抜いて右端の口を持ち上げて笑い、アゴを触りながら喋る癖があった。
「でも強ぇよ。アイツは強ぇ。アンタ等じゃぁ束んなってかかっても太刀打ちなるめぇよ。やめとけやめとけ」
と肩をすくめた。
「 何が強ぇって喧嘩が強ぇのよ。喧嘩が強ぇってこたぁよ、“実戦”に強ぇってこった。大体よぉ、ぶっとばされた事のある俺が言うんだから間違ぇあんめぇ」
コレを聞くと話を持ちかけた門人はそれぞれ苦い表情を額に浮かべて帰ろうと立ち上がりその場を後にしようとした背中に向けて永倉氏が言った。
「まぁ道場剣術ならなんとかなるかもしれねえからアイツ倒したきゃそこで一本取りねえよ」
……とカラカラと笑う。
皆、苦虫をかみつぶしたような顔で退散した。
多分に永倉氏からやっつける術でも聞きたかったのかも知れないが
そうは問屋がおろさなかったのである。
……稽古でも試合でも永倉氏と立合いの経験のある人間なら、彼の言葉の意図する所は理解できたろう。
「案外いじわるなんですねぇ」
私が頭の後ろで両手を組んでニヤニヤ笑いながら声をかけると
「げえ、そうじろうじゃねえか」
と、気まずそうな顔をした。
「やっつける方法伝授してほしかったんじゃないんですか?あのひとたち」
永倉氏も相当の使い手である。その人間がそう言うのだから土方氏がどれ程の腕を持っているかは容易に想像が付くハズである。
「永倉さんともあろう人が近藤先生以外にあんな風に人をかばいだてするなんて、土方さんて、そーんなに厄介な御仁なんだ」
「厄介だよぉ、お前。大体近藤先生の幼馴染だぜ、土方さんて。それによ、色男相手じゃ分が悪いだろ。女どもに恨まれたかねえよ、俺は」
「そうじゃありませんよ」
私は竹刀で素振りのマネをした後に、今度は手を引いて拳を前に突き出す。
「こっちも、こっちも強いんでしょ?」
「立ち会ってみたくなったか?」
お前らしいやと永倉氏は笑う。
「ええ、殴り合いは兎も角ね。俄然倒してみたくなっちゃった」
私が微笑むと冷たい水でも被ったみたいな顔をして永倉氏は身震いしておっかねえなとあきれ顔をしたが、すぐ真顔に戻って言った。
「でもよ」
「はい」
「道場剣術での勝った負けたにゃ、あいつは多分……別に何にも感じねえだろうぜ」
「……どういう事です?」
「さっきも連中にゃいったがよ、あいつにとって竹刀のヤットウはな、ホントの喧嘩と別次元なのさ。まぁあ、お前はガキの癖にガキっぽくねえから、俺がとやかく言わんでもいずれ自分で気づくだろ。……本気で喧嘩売るなら命がけでいけってことにな」
永倉氏の剣客としての目が鋭くなった瞬間だった。
彼は土方氏の事で相談してくる連中に必ずこれを忠告をしたらしい。
だが、その警告を無視して無謀にして果敢にも土方氏に“本気の喧嘩”を挑んで行った者もいたようだが、大概その翌日には夜逃げの如く荷物ごと道場から姿を消してしまうのであった。
◆永倉 新八◆
本姓は長倉。幼名を栄治。諱名を載之。
天保10年4月11日(9/12説有り)生まれ。(西暦だと1839年10月18日と言われる)
東都淺草江戸松前藩上屋敷(現在の台東区)が出生地。父は勘次、母はりつ。
父は松前藩中級藩士、江戸定府取り次ぎ役を務める能吏。兄・秀松は新八が三歳の頃死亡している為、実質的には新八は永倉家の跡取りであった。
が、内勤を嫌い、親の反対を半ば押し切る形で18歳の頃に神道無念流二代目岡田十松の門下に入る。
心形刀流坪内主馬の門下でも教えを受けたとされる。(余談になるがこの坪内道生で島田魁と知り合っていたと言う逸話も)試衛館に出入りし始めたのは文久元年の秋頃とされる。
数々の道場へ出入りをしており、人脈が相当に有った為か、食客の中でも近藤は非常に彼を重宝したようだ。
一説によると永倉がこの京都行きの話を持ってきたとされるが、確証には至らない。
近藤等と浪士隊参加、上洛後 京都に残留し、新撰組の基盤の一人となる。新撰組二番隊隊長。
京都で活動を続ける間、小常と言う芸妓との間に磯子と言う娘をもうけるが、鳥羽伏見の戦闘中、小常が病死。時勢故に磯子とも生き別れになる。
明治元年新撰組分裂後、原田左之助等他4名と昔馴染みで精鋭(靖兵の説も有り)隊長である芳賀宜道(市川右八郎)と共に野州~会津へ転戦。
が、情勢悪化後、原田とも別れ、芳賀と共に江戸に潜伏するも、芳賀が官軍に惨殺されたのを機に明治二年二月に松前藩に帰参。松前藩医杉村松柏の養子となり、彼の娘、米子と結婚。名も杉浦村義衛と改める。
福山で暫く生活していたが、やはり剣術から離れられず各地を転々として剣術指南をして歩いていたと言う。
明治13年(永倉42歳)に北海道に帰り、米子と再度暮らし始め、そこで義太郎をもうける。小樽へ転居、道男という孫にも恵まれる。
明治32年に近藤が処刑された板橋に「隊士殉難の碑」を建立。大正4年1月5日、虫歯から骨膜炎から敗血症をおこしたのが原因で永眠。
享年77歳。『新撰組顛末記』・『同士連盟記』を書き残したのも彼である。
(ただし、年数がかなり経っている上、永倉の個人的な主観が多く入っている為、資料として使用する場合はソコを把握するべきとの意見もある)
やっぱり長生きしたし、目立ちたがりの所もあったのか資料は沢山だなぁって言うのが犬神の個人的な印象です。




