認知の柑子
認知の柑子
正直私は人の感情に敏感な子供だったと想う。
だから周囲の人間の性質やその関係みたいなモノが必要以上に解ってしまうフシがあった。
『勝太』さん……私はこの後『先生』と呼ぶようになるのだが、彼は細かい諸事をイチイチ気にとめる性質ではなかったので、周囲の人間関係に対して若干無頓着な部分があった。
……まぁ立場上の問題もあるだろうし、生まれ持った性質の問題があるからこればかりは何とも言えないが、家庭、門下生等の人間関係について、とやかく言わない人だった。
だから数ヶ月も立つと私は よっぽどの何かが有る時以外は、先生に自分の身の上に降りかかっている現状を話さなくなる。
例えば私と周助氏の奥方との間柄のコト等だ。
周助氏は人柄も良く人望もある人だが厄介な事に女癖が大層良くなかった。
後で聞いた話だが生涯に九人の奥方七人の妾を持ったとか持たないとか。(人に寄っては羨ましい話かも知れないが)兎に角そんな訳で周助氏は方々で愛人をつくっており
奥方をやきもきさせていたのである。
……そう……
元々の性質があったにせよ、そうやって女性問題をあちこちで起こしている人の奥方となれば疑り深くも成って当然だ。
例え井上のおじさんの紹介であったにせよ、十にも満たない子供が連れてこられれば、奥方からしてみたら自分の亭主が、どこぞでコッソリと可愛がっているか知れない泥棒猫が産んだ子供じゃナイかしら……?と疑いを持つのは当然の理だろう。
そうでなくとも多くの門下生や食客を抱える道場の運営資金が火の車なのは考えればすぐわかる。
挙句の不況の折りで家計が逼迫しているトコロに転がり込んだのだ。
当然奥方が良い顔をする筈がナイ。
よって、一番最初に私が乗り越えなければいけなかったのが周助氏の奥方との関係であった。
……ある時、部屋の掃除をしていると奥方がそっと音も立てずに傍へやってきた。
と思った途端、目の前で よよ、と泣き出されたのだ。
「お前に少し暇を出してやろう。その折りに、お前のお母さんにウチの人と‘別れて’と頼んでおくれでないかえ!!」
……なんぞと言われた日には、面食らうドコロの話じゃない。むしろ十歳にもみたない子供にそう切り込んでくる辺り精神的に相当余裕が無くなっていたとしか思えない。
「俺の父親は……亡くなりました」と自分なりに訴えたが、まるでなにかに取りつかれたかのように、急に金切り声をあげたかと思うと、
「お前を預からせただけでなく、その上手切れ金までふんだくろうって言うのかい!?」
と怒り出し、暴れる始末。
とりつく島がなくて私は踵を返してその場から逃げ出す事が二度や三度ではなかった。
周囲の目がないとなると光らせていた目に嫉妬の炎が宿り、子供に向かって聞かせる様ではない話を散々にぶつけてきたものだ。
でも彼女は、それから二年後の秋、風邪をこじらせたと言って、自身の実家に引っ込んで……結局それっきり帰ってこなかった。
病状が悪化して、あっけなく逝ってしまったらしい。
風邪は万病の元と言うがあながち嘘ではないと心底感じたものだ。
彼女の死に直面しなかったせいもあってか私は本の少しだけ彼女がもう戻ってこない事実に安堵した。
家事の負担は殆ど私にかかっては来る。
だが疎んじられているよりはよほど良い。彼女の死によって私の居場所が少し広がった。
残酷な事実や、人の死を喜ぶというのは決して良い事ではないと解っていながらの安堵感であった……。
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サテ、居場所が広がって気持ちに余裕が出来たこの辺りから私の剣術に対する意識が高まってくる。
その当時……近藤先生の屋敷には交代制で女中が三人ばかりいたろうか。
彼女たちを手伝って家事をやりながらではあったが……。(周助先生の新しい妾もちょくちょく出入りしていたが無論、彼女等は家事云々をする側の頭数には入らない)
日頃の鬱憤を張らすには最適だった。
実際、私は体も弱かったし女の多い環境で育った所為もあるのか、はじめの頃、本音を言えば私はあまり体を動かすのを得意としてはいなかった。
が、他にする事もナイし、唯一の楽しみと言えばどうしても剣術に辿り着く。
体を鍛え始めれば、多少成りとも耐久性も変わってくるものだ。後は……父から受け継いだ、浪人したとは言えども『武士』の肩書きから発生する本の少しの『意地と誇り』が私を駆り立てたのかも知れない。
所で、試衛館の流儀の『天然理心流』とは
『竹刀』での訓練よりも『木刀』での荒稽古が非常に多い。
『木刀』は『竹刀』よりも実戦に近い感覚を養えると言うのが我々の流派の持論だった。
実技もさることながらもっとも重要視されたのは『敵と向き合う時の気合い』
…いわば『気魄』でコレを『気組』と呼んでいた。
技を磨き鍛錬を積んでかかるだけでなく、一瞬で相手を「気で呑み」そして「気で伏せる」ことによって
『一撃必殺剣』が生じる。
それで骨も内臓も容易に粉々になる……というのが心得みたいなものだった。
「肉を切らせて骨を絶つ」の一節はこれにつながる。
気を抜くと、それこそ死がいつでも目前だった。
武道はだからこそ全く気が抜けない。
武器に出来るモノは何でも武器にしろ、と言う実戦さながらの形式をもった稽古も多かった。
余分なカタがなくて荒削り……と言うか、言い換えれば緻密で繊細な技と言うシロモノでは無かった。
だから、格式張った室内剣技である竹刀での立ち合いに対してめっぽう苦手意識を持って居る者が至極多かった様に思う。
なにせ近藤先生や御義父の周助氏等が道場の中での相手をしたがらない傾向があった。
当時流行みたいになっていた道場破りの折りには直ぐ様、『斎藤弥九郎道場』へ門下生の誰かが走って行って助っ人を頼むと言う事をちょくちょくやっていた。
無論、助っ人に来た者に謝礼を出す。
……もっともその当時は経営も苦しかったので、先生が出稽古にでて行ってしまって留守になるコトも多かったのも助っ人を呼んでいた一つの原因ではあったが。
それにそうでなくとも、我が試衛館は『芋道場』なんぞとあだ名されており
有名所の『三大道場』と呼ばれもてはやされていた道場から比べれば格段に門下生の数が…少ない。(と言うか比べモノにすらならない)
そんな弱小道場がウッカリ竹刀剣術で遅れを取ろうモノなら、流行を求める輩に翻弄され、少ない門下生が更に少なくなり、悪い噂も更に流され門人が減る。
そうなると収入が減る。
謝礼を出す再三を合わせてみても、竹刀剣術が得意な人間に任せてしまった方が利口だったと言えなくもないのだ。(まぁ、三大道場と明らかに違う点は「剣術指南両」だったのだが。当然試衛館は三大道場から比ぶれば、格段に安かったと思うし…。)
私もまだ子供だったし、とても立ち会わせてなんぞは貰えなかった。
実際私も試衛館の色に染まっていたのだろう。
命がけ…というか追いつめられた必死の精神状態でないと、自分自身の本来の力を発揮できなかったような……そんな感じであったので竹刀での道場剣術は苦手だったかもしれない。
ただ近藤両先生は、他の流派の技や思想の良い所を取り入れる事に関して、寛容というか、熱心であったのもまた事実である。
故に……道場破りや他流波からやって来た、なかなかに腕の立つ『剣客』達がいつのまにか試衛館にいついて『食客』になっているコトがしょっちゅうだった。
まぁ、家計を預かる側からしてみれば頭の痛い話で…正直、近藤両先生の奥方達は何のかんの言っても良く主人を立て、状況を我慢してやりくりしていたなぁと感心しつつ木刀をふるったものである。
【幕末用語簡易解説】
◆天然理心流と試衛館◆
遠江【現在の静岡県】出身の近藤内蔵助長祐〈こんどうくらのすけながひろ〉が開祖。
この内蔵助は飯篠長威斎の末裔を名乗っていたとされる。
寛政七年(徳川吉綱の時代)から始動したと言われ、初めは江戸・両国に門を開く。
が、その当時はかなり数多くの剣術道場が点在し、鎬を削っていた為、相模(現在の神奈川県)や……特に武州多摩を中心に門人を増やしていた。
よって三代目にあたる近藤周助も多摩郡小山村出身・四代目の近藤 勇も元は多摩郡上石原村出身であるとされている。
香取神道流の流れを汲むとも言われ、剣術だけに限らず柔術・棒術・気合道を取り入れた。
どちらかというと無骨で、荒削りな実戦目的の強い剣術だったとされる。
近藤や・沖田達が京都へ出るまでの間を過ごした道場だが、『江戸市ヶ谷牛込小日向柳町』、『牛込二十騎町』(現在の新宿区)のどちらかにあったとされる甲良屋敷と、『小石川小日向柳町』(現在の東京都文京区)等と諸説有るが、現存する江戸地図には「牛込」に試衛館の名前がみられるので一度江戸地図をご覧になるのも面白いかもしれません。
◆斎藤弥九郎道場と江戸三大道◆
斎藤弥九郎道場、は通称名。本来は『練兵館』と言う。流派は神道無念流。九段下・俎橋に門を構えていた。【現在の東京都千代田区九段下付近】江戸三代道場のヒトツと呼ばれ、この斎藤弥九郎氏は三剣豪の1人とされる。
門弟に長州・薩摩・水戸の志士が数多くおり、
『高杉晋作』や『桂小五郎(後の木戸孝允)』等がおり、桂はそこで塾頭をつとめていた。
『伊藤利助(後の伊藤博文)』も出入りしていたとされる。
で、江戸三大道場とは、先で説明した
・斎藤弥九郎の『練兵館』、
・桃井春蔵の『士学館』(流派は鏡新明智流)
・千葉周作の『玄武館』(流派は北辰一刀流)
の三道場を指す。
当時はこの三つのウチの何処かに所属していると言うのがいかにエリートであるか、と言う一種のステイタスの様になっていたそうな。
現代風に言い換えてみればいい大学に入って、どうやって出世街道を目指すか的な感じですか(笑)
試衛館が『芋道場』扱いされ、いかほど「田舎モノ」扱いされていたかちょっと垣間見られるお話しです。




