6.私のリア 〜リア〜
二人きりになった部屋の中、彼は彼女の横たわるソファーの隣でその灰色の瞳が開くのを待っていた。
はやく、はやく。頰にひたいに口づける。
「お願い。早く起きてよ、お嬢様」
彼女が十二歳のときに別れてから、学院に二年、外務官を五年の計七年。そこそこ財産もできたし、彼女の適齢期も過ぎてしまうと思い、最後の仕事にしようと思ったところで、隣国の色ボケ女王に邪魔された。小さな失敗。
それから子育てしながら、色々あってさらに六年の放浪。この国の戸籍を手に入れ、町にたどり着いたひと月前。
――十三年か。長い…………それなのに。
別れてからの十三年、ずっと彼女の目を通して見ていた。彼女の憎しみも悲哀も、この町で心を少ずつ開いていくところも。
彼女はずっと彼の宝物であり続けた。
少しも変わることなく、心を占めた。
美しい彼女が年頃になれば男共がやってきた。だが彼女の身体を通して簡単な魔術を放てばすぐに散っていく。でも。
魔力にある程度の耐性のある、ルィトカの三男エイルマーは脅威だった。もう少しで彼女の心をとらえられるところまで行っていた。
普通の人間として彼女と共にいることだけを目的として生きていた彼は、彼女が誰かのものになるのが恐ろしかった。
「恐ろしいなんて言ったら、君は笑ってくれるかな」
本当に長い旅だった。旅の中で、彼は自分に昔より多くの感情が芽生えるようになっているのを知った。何度も死にかけて、何度かケティに繋がる魔術の糸が切れかけて、そんな月日の中、少しはマトモになったと言われたこともあった。人間らしくなった、とも。
でも全てはやはり彼女が中心。
この町に来てからも、どうすれば彼女の心を手に入れられるのか気になって、エイルマーのことも町の人々のことも観察していた。
でも、どうすればよいのかなんて分からなかった。店に彼女が来たとき、緊張して、ほんの少し魔力の制御を間違え気絶させてしまった。恐怖に似た感情。
「どうか早く起きて……」
彼の前で長い黄色のまつ毛が震えた。
ゆっくりと、灰色水晶の瞳が現れる。
同時に彼女の瞳も彼の顔を捉えたのを知った。
十三年ぶりの感覚。――――快感。
でも彼女は顔を歪めた。
「あ………っ!?」
はくっと空気をつかみ損ねる小さな唇。少し良くなったと思ったのに、また蒼白になる頰。
その荒れ狂う瞳の色がひたすらに愛おしい。
「お嬢様」
呼んだ。
「ケティお嬢様」
呼んだ。――だから。
「僕のケティ」
お願い。彼は祈った。
僕の名前を呼んで……。
上半身を起こした彼女が唇を噛んだ。瞳に残ったのは恐怖と困惑だった。彼はそこに憎しみがなかったことに密かに失望した。失望? 彼も戸惑った。なぜ。
それでも愛しい唇は待ち望んだ名を乗せる。
「リ、ア?」
ぞくりと心が震えた。
泣きたいのか嘲笑いたいのか自分でも分からない。
「……うん」
「どうして、今ごろ」
「あいたかったんだ」
「どうして」
怯えるような灰色の目。その瞳に乗る感情に、さらにごちゃごちゃになった感情を持て余しながら、必死に平静を装うリアは首をかしげた。
「あいたくなかった?」
ケティは別れてから数年は、生まれた町でリアを呪って過ごしていたはずだ。悪魔と罵り。なのに………いつから。
いつから憎しみが消えた?
「あいたくなんて、なかったわ」
恐怖に揺れる灰色水晶。この町で昔のように、たくさんの表情を見せるようになったはずなのに、リアに向けられる感情は昔よりも少ない。
胸の奥で何かがザワザワと騒いだ。
「ケティ……どうしても?」
「っあなたは過去のものだと思っていたのに!」
拒絶、拒絶、恐怖。
「どうして今ごろ! なんで、どうして出てきたのよ! 過去なら許せたのにっ!!」
「…………………ごめんね」
おそらく、リアは生まれて初めて心から謝罪した。
「でも、僕にとって君が過去のものになってしまったたことなんて、一度もないんだよ」
静かに、本当に静かに彼は自分が失望した原因を理解した。彼は今や自身が彼女の中で真実過去になっていることに気付いたのだ。もはや憎しみすら抱かなくなるほど遠い過去の、過去からの脅威、亡霊。
――……そんなこと。
いや、それならば。もう。
一瞬目蓋を伏せたリアは姿勢を正し、一歩下がってその場に片膝をついて跪いた。黒いドレスの裾が広がる。けれど、その動きは男のもの、生まれながらの貴族のもの。
どこまでも優美な“知識の国”最高礼。
臣下が王に誓う忠誠の義にも似て。
頭を下げた。深く――深く。
出た声は彼が自分で出そうと思っていたものとは違い、ごくわずかに震えていた。
「……十三年前の僕は幼く、不安定で、君を傷つけることしかできなかった。愛情の示し方を知らずに」
ほどけた茶色の髪が首を滑って、眉を寄せる。彼女の光を紡いだような髪と比べ、なんと見劣りする色だろう。醜い。
過去の悪夢だというのなら、それなら許せたというのなら。“今”また彼女の許しを得られるよう、害を与えはしないと信じさせればいい、過去とは違うと思わせれば良いと、下手に出て彼女の優しい心に訴えようとする、この性根にぴったりな醜悪さだ。
「それでも、再び逢うためだけに生きていたんだ。……僕が持つものは全て君に捧げ、君の望みは何でも叶える」
姿を見せるな、というならそうする。死ねと命じてくれるならむしろ喜ぶだろう。でも、そうじゃないなら。お願い、僕のすべてをもって償うから。
何でも良い、そばにいさせて。
しばらくして、水晶のカケラのような声が、リアの頭上にひそやかに降ってきた。
「何でも叶えるって、本当に?」
「神にだって誓う。君が望むなら」
「お金とか地位とか名声とか、たとえば…………この国の王様になりたいとかでも? あなたはそんなこと、できないでしょう」
乾いた嘲笑に、リアは頭を上げた。片手の手袋を外して親指にはまった指輪を抜き取る。
「君が望むなら何でもするよ」
差し出された指輪を不審そうに眺めたケティが小さく息を呑んだ。
「これ、この紋章、王家の。こんなものどこで」
「……生まれたときから僕のものだよ。これを持つ人間がこの国の主人なんだ。指輪は捨てても失くしても戻ってくる」
「じゃあまさか、あなた」
正統なる王家の指輪の持ち主。王宮に踏み入れたことがなくとも、玉座に座ったことがなくとも、人々に存在すら知られていなくとも。……その気がなくとも。いつでもリアは王と名乗る資格を持っていた。
惚けたようなケティにリアは微笑んだ。一瞬だけでも警戒の抜けた瞳は、なんと美しかったことだろう。
「僕は玉座なんて面倒くさいだけだと思ったけれど、君が望むならあげるよ。僕がそばにいれば、それはそのまま君の手元にあるだろうから」
そばにいれば。こっそりと願いを込めたことに、小さな罠にはめようとしたことに勘付かれたのか。彼女は眉を寄せて「いらない」と言った。
「あなたは何?」
「君のリアだよ。それだけ」
「十三年間何をしてたの?」
「うん、君になら教えてあげる」
リアは語った。ケティの尋ねるまま、自分のしてきたこと全て。少しだけ、彼女に嫌われないように綺麗に飾って。
六年、大陸の果てまで旅をした。平穏などほとんどなく、あるときは戦争や内紛に巻き込まれ、あるときは自ら戦争を起こし、崇められ、憎まれ、灰色の瞳のライルを連れて。自分勝手で醜い僕。
聞き終わった彼女はポツリと聞いた。
「どうしてライルくんを拾ったの」
ちょっと目を見開いて、リアはぼそぼそ答えた。
なぜか本気で気恥ずかしかった。
「…………君に似てたんだ。あの怯えていたときの瞳がどうしようもなく似ていて」
だから、もし声をかけたときあの子供が死にたいと言っても、リアは殺さなかったかもしれない。殺せなかったかも。
拾ってからの六年間、ケティと過ごした時間よりも長く一緒にいた。いつのまにか一途に自分を慕う瞳が心地よくなっていた。ケティがそんな瞳をしてくれたらどんなに幸せだろうと思った。……以前恐れていた彼女の愛情を夢見たりするようになった。でも。
リアは床に片膝をついたまま、彼女の瞳を覗き込む。この灰色、全然違った。もっと激しく感情を表す双眸。これほど愛おしいものは他にない。
「本当はね、君に二度と近づかずに生きていこうと何度か思ったんだ、その方がいいって。人間らしいだろ。でも無理だった、できなかった、君の見えない場所なんて呪いつきの地下の水牢よりも最悪だよ」
どんな所でだって、彼女の存在を感じられるだけで生きていられた。何度死にかけても、彼女が見えなくなると思っただけで持ちこたえた。
王女だろうと聖女だろうと、どんな美女だろうと惹かれるものはなく。ただ彼女だけが、ケティだけが、永遠に彼の全部で唯一。
どうしようもないほど焦がれていた。
「リア」
どうすればいいのかわからない、というような困惑しきった声。まだ出て行けとも死ねとも言われないのを良いことに、リアはその唇をそっと奪った。
「ここに来てくれてありがとう。実は会いに行くだけの勇気が出なかったんだ。……君に気軽に会えるライルを絞め殺そうかとまで思ってた」
呆然とするあまりか拒否されないのをいいことに、リアはもう一度口づけた。彼女が消えないことが信じられない。夢のようだった。夢じゃないのが夢のよう。
……ああ、でも、ここまでにしないと。
リアは唇を離した。今我に返られて拒絶されても色々まずい気がする。
「もう日暮れだよ。ライルに送らせるから、ねえケティ、早くお帰り」
――――その数日後から、町ではちょくちょく“女医様”と町の香水店の貴婦人が一緒にいるのが目撃されるようになった。
彼女たちが並んでいる様子は、まるで絵から抜け出して来たように美しいと人々は噂した。
そして、数ヶ月後。どうしてか香水屋が閉店し、喪服の母子はどこかに引っ越した。“女医様”が診療所の新しい助手を探すなど、出て行く準備をしている、と言われ始めたころである。
さらに数週間後、彼女は町の人々に別れの言葉と一緒に特製のリンゴジャムを置いて、実家に帰るのだと駅馬車に乗って出て行った。
しかし、彼女は実家にも長くはいなかった。すぐに迎えに来た青年に連れ去られたのだ。
――――彼女たちが落ち着いたのは、王都の一角。
「…………エリアス、いやリアが本名だとか今言ったな……。しかし、とりあえずお前ふざけてるのか?」
大きな邸宅の応接間で、お土産だとりんごジャムを渡された赤銅色の瞳の男は、げんなりしたように机の向かいに座る友人を見た。
リアはにこりと笑う。
「いやですね。僕はいつでも真剣ですよフィオン様」
「泣きながら墓作って埋めてやったっていうのに、なぜか六年ぶりに『アレ偽物で僕実は生きてました』とか言いながら出てきたヤツがふざけてないなら、この世には真面目な人間しかいない」
赤銅の男の名はフィオン・バーナンハード。リアの最も古い友人であり、現在は外務府知的財産局の局長の職についている。
しかしリアが彼を訪ねた理由は、彼の職には特に関係のないことだった。フィオンは片手で眉間を揉む。
「……わかった紹介状なら書いてやる。だが、なんで魔術研究所になんて入りたいんだ」
「パッとしない仕事だし、変わり者ばっかりで、誰も僕の顔を気にしないからですよ。あと妻が『コツコツ真面目な仕事をして』と言うものですから」
「妻!?」
絶句した旧友にリアはますます笑みを深める。
「実際にはまだ婚約者なんですけどね。医者をしてるんです。それで僕も成分不明の怪しげな香水店とかじゃなく、真面目に人様のためにコツコツ働くのなら、結婚してくれるって言ってくれたものですから」
薄茶の瞳が輝く。それは無邪気で、フィオンの初めて見る、本当に嬉しそうな表情だった。だからフィオンはそれをちょっと観察して、それから諦めたみたいに息をひとつ吐いて「幸せか」とだけ聞いた。
瞳を甘くとろかし、リアは優美に首を傾げた。
「やだな、言わなきゃ分かりませんか、フィオン様。……………あのね、彼女は昨日、僕のことを初めて『私のリア』って呼んでくれたんですよ」