開示
「ふぅ…」
礼を終え,ひとつ息を吐くエリィ。
外野が恐るべき密談をしていたなどとは夢にも思わない彼女は,酒場の裏庭で日課の演舞を披露した後,これも日課となった組手を終えた所だった。
「お疲れ様でした,エリィ殿」
にこやかに笑うクーラ。ひとくちに組手と言っても舞神流には実に多様な様式があり,今日のそれは比較的軽めのものだ。
「あ,はい…」
相変わらず釈然としないエリィは,曖昧な返事をする。
自分はこの男の事を良く知らない。一つ一つの所作の裏に何が隠れているのかも分からない。どれが演技でどれが素なのか,何一つ確かなものがないという頼りなさ。
「…気になりますか?」
「えっ?」
そんな内心をずばりと指摘されてどきりとするエリィ。
「例えば…これ,とか」
言いながらゴーグルを指でトントンと叩くクーラ。
「えっ?あの,その…」
「これを狙える技だけ,気持ちの乗りが違っていましたからな」
「…ごめんなさい」
素直に謝るエリィ。それは全くその通りだ。付き合いも長く素顔も知っているノーブルならばさして気にもならない事だが,この男の仮面が表情や視線を隠し,より不安をかき立てているのは間違いない。
不意打ちでそれを蹴り飛ばそうとすることが卑怯な真似なのも分かっている。分かっているからこそそれを抑えようと努力はした。だが要はその欲求を完全に抑えきる事ができず,眼前に居る男がそれを見落とすような未熟者でもなかったという事だ。
「謝る必要はありませんよ,もともと礼を失しているのはこちらなのです」
苦笑するクーラ。
「いえ…でも…」
姑息な手段など使わず,直に訊けば良かっただけの話なのだ。以前の自分なら踏み込んで行けたはずのそこへ,なぜか気後れして行けなかった自分にも戸惑うエリィ。
「本来なら真っ先に話すべきところ,それを控えていたのは…ちょっとした懸念があったからです」
「懸念…?」
「ええ。”風”にはそこそこ厄介な掟があるようでしたのでね。それが部外者である自分にも適用されるのかどうか,そちらの確認が先だと思っていたのです」
「あ…」
「過去の詮索はご法度,聞いてしまったからには全てをかけて責任を取れ…でしたかな?」
「それは,その…」
ばつの悪そうな顔をするエリィ。部外者であるはずのクーラがそれを知ってこちらに配慮してくれているというのに。これではそれを,当人すら配慮するような何かをなし崩しに知ろうとした自分がいよいよ卑怯者ではないか。
「…ごめんなさい」
しょんぼりしてしまうエリィ。
「…なるほど。どうやら責任を取らねばならぬのですね」
また苦笑するクーラ。
「しかし…困りましたな。私としても貴女に隠し事をしているのはいささか気が引けるのですが,それで逆に貴女を縛ってしまうような事になってしまうのも避けたい…」
「あ,あのっ!もういいんですそれは…」
「ではこうしましょう」
そこで何かを思いつくクーラ。しかし次の言葉は全くの予想外だった。
「舞神闘の勝者として貴女に命じます」
「!?」
びくり,と身を震わせるエリィ。不覚にも忘れていた。この男は自分を服従させる権利を持っているのだ。自分がそれを与えてしまったのだ。
いや,忘れていたと言っては語弊がある。先ほどまでの演舞も組手も,元々はこの男の命令なのだ。だから正確には,不覚にもこんな形で何かを命令される事など無いといつの間にか思い込んでいた,と言った方が正しい。
「私の過去に責任を取ろうなどと思わないように。気に病まないように。良いですね?」
「…は?」
しかし男の口から出た言葉は,ともすればその思い込みをさらに強化するような危険をはらむものだった。間の抜けた声を上げるエリィ。
「…結構便利ですね,これ」
にっこりと笑うクーラ。
「でも…」
それではクーラが一方的に不利益ではないか。
「命令です。良いですね?」
すかさず繰り返すクーラ。
「…はい」
そう言われてしまえば従うしかない。気まずさを抱えたままエリィは言う。
「とはいえ,あくまで念のためですよ?そんなに大した理由があるわけではないのですから…」
「…」
「…ん?」
そこでクーラが振り返る。少し離れたところで木の根元に腰を下ろし,成り行きをずっと見守っていたアラウドが,おもむろに立ち上がったのだ。
「アラウド殿?」
「…席を外す。帰る時にでも呼んでくれ」
そう言うと,アラウドはゆっくりと歩き去る。
「…信用されたと,思う事にしましょうか」
その姿が建物の陰に消えるのを待って,クーラは苦笑する。
「さて。立ち話も何ですから,座りましょうか」
そう言って草の上に腰を下ろすクーラ。神妙な表情でそれにならうエリィ。
「私がこれを外さない…外したくないと言っても良いですが…その理由は,いたって簡単です」
「…」
「実は私は,酷い傷を負っていましてね…見せたくないのでこれで隠しているのです」
「…え?」
きょとんとするエリィ。
「たったそれだけ…と思いましたか?」
苦笑するクーラ。
「いえあの…はい。ちょっと拍子抜けしたと言うか…」
慌てて否定しようとして,しかしそれでは卑怯者のままだと思い直して素直に認めるエリィ。
「まぁごく普通に考えて,冒険者ともなればその手の傷じたいは慣れっこでしょうからね」
頷くエリィ。
「ただ…見せたくないのは,多分にその経緯に問題がありましてね。この傷は…私の心の傷と言っても差し支えのない…大切なものを守れなかった後悔と自責の証なのです」
そこでクーラの表情から笑みが消える。
「後悔…ですか?」
「ええ。…私には,心に決めた女性が居ました」
「えっ?」
驚きの声を上げるエリィ。
「…おや,意外でしたか?」
「あっ,いえ…そうではなくて」
ちょっと気まずそうに言うエリィ。
「その…過去形だったことに驚いたんです。てっきり大尉は結婚していらっしゃるものと…」
「あぁ,これですか」
左手をかざすクーラ。その薬指に控えめに輝く指輪。エリィは頷く。
「ははは…さすがに,妻が居る身であんな役割は引き受けられませんよ」
その手を左右に振りながら,クーラは笑う。
「あ,そ,そうですよね…」
また気まずく思うエリィ。お互いの演じる役柄の設定に釈然としないものを感じていたのには指輪も影響していたわけだが,自分で認識していたよりも随分とその影響が大きかったことに気づいたためだ。
「まぁこれも,今となっては戒めです。あの頃の私に強さがあれば,彼女を失い,光を無くす事も無かった」
しかしクーラは意外な事を言い出す。
「光を…?」
「うすうすお気づきになってはいるのでしょう?…私が盲いていると」
「あ…」
またしても不覚。確かに演舞のダメ出しにしても組手にしても,クーラがほとんど目に頼っていない事は分かっていた。だがそれも,わざとやっていると思っていたのだ。要は,この男が自分を見るまでもないと見下しているのだと,勝手に思い込んで勝手に怒っていたのだ。
「…ごめんなさい」
まさか視力そのものが無かったとは。言われてみて初めて次々とそれらしきふしが思い返され,その一つ一つが彼女を責める。冷静であったら気づく機会などいくらもあった。怒りに我を忘れていたからこそそれに気づけなかったのだ。
「…困りましたね。まぁさすがに,気に病むななどという命令がどだい無理なのでしょうが…」
「…ごめんなさい」
「致し方ありませんな…」
一つ溜息をついてクーラは言葉を繋ぐ。
「乗り掛かった舟とも言います。この上はいろいろと聞いていただくことにしましょう」
「あ,いえ,もう…」
これ以上クーラに負担をかけるわけには行かない。エリィはそれを押しとどめようとした。
「私があの時貴女を挑発したのには,実はもう一つわけがありましてね」
しかしクーラはまたも意外な事を言い出した。
「えっ?」
「正直なところ…内心,貴女にお会いするのを楽しみにしていたのですよ」
さらに斜め上の発言。
「え…?…え?」
まさかそんなはずは。そう思ったエリィはしかし,何とか思いとどまる。
あり得ないと思うその感情は,挑発された怒りに端を発している。そこでも不覚を取っている可能性は高い。
「でも…その…それがどうあれと…?」
「私は当初,貴女の二つ名のひとつ…トルサ防衛の初戦でついた”凛々しき聖母”にいたく興味をそそられていましてね」
そう言ってクーラは思い出し笑いめいた笑みを漏らす。
「え…」
「妙齢の女性にいきなり”母”は無いだろう,”凛々しい”と”聖母”は正反対じゃないか,など突っ込み所が真っ先に気になったわけですが。経緯を知って是非一度お目にかかりたいと思うようになったのです」
「あ,あはは…」
思わずエリィの口から乾いた笑いが出る。
”凛々しき聖母”は,彼女が敵の真っただ中へ飛び込んで逃げ遅れた子供を救った事に由来する二つ名だが,それを初めて聞いた時,彼女自身もクーラと全く同じ突っ込みを入れて憤慨したのだ。加えて,お約束の猪突猛進への苦言と絡めて,仲間たちから随分とからかわれもした。本人としては全くの不名誉とさえ言って差し支えない二つ名なのだ。
「ご存知ですか?その時貴女が救った子。数年前倒しで兵役検査を受け,並み居る年長者たちを押さえて優秀な成績で入隊することになったとか…」
「えっ?」
「舞神流を修めて,自分も誰かを護れるようになりたい,貴女と肩を並べて戦えるくらいになりたい,そんな思いでいるらしいですよ」
それで士官学校の超上級課程を志願したと言う話だ,自分の所にも聞こえてくるくらいだから結構な噂なのだろう,とクーラは付け加える。
「あの子が…」
あの時の一途な表情が思い出され,ふふっ,とエリィの顔に笑みが浮かぶ。
「…思った通りでしたな」
こちらも笑みを浮かべて,つぶやくクーラ。
「…大尉?」
言葉の意味を測り兼ねるエリィ。
「情報をもとに私が描いた貴女のイメージに間違いはなかった,という事です」
「私の…?」
そこで今度は気後れのようなものを感じるエリィ。きっとろくなイメージではないだろう。きっとかなり痛い子と思われていたのだろう。そんな思いが表情を曇らせる。
「ええ。太陽のような方だろうと,勝手に思っていたのです」
しかしクーラ口から発せられた言葉は,その予想とは全く違っていた。
「えっ…?」
「時に強烈に,時に優しく,時に温かく,明るく輝く存在。きっとそんな女性だろうと思っていたのです」
その見込みに間違いは無かった,と結んでクーラは笑う。
「あの,その,そんな…」
目を丸くして,その後赤面してうろたえるエリィ。
「しかし…」
そこで調子を変えるクーラ。
「私は貴女に謝らねばなりません。無論,あの時貴女を貶した事についてですが…言い訳をさせていただくと,あの時の貴女はあまりにもそれとかけ離れていた」
「う…」
「それで不覚にも,感情を抑えられなくなってしまったのです。まぁ言ってみれば腹いせ的な心情もあの挑発には入っていたと,そういう事でして…」
「…ごめんなさい」
しゅんとなるエリィ。
「貴女は悪くない」
それに居心地の悪さを感じて,即座にクーラはそう言い放つ。
「非礼を働いたこちらが悪いのですし…加えて言うならその原因は,貴女をそこまで追い込んだ者にある」