紅の竜
「…はっ…」
胴を大きく切り裂かれたミリアの口から,空気の漏れ出る音。
それは肺の中を血が満たしたために空気が押し出されて出たものだ。続けて口からも鮮血を噴き出すミリア。
「…!」
血しぶきを浴びて真っ赤に染まったエリィが息を飲む。
しかしそこで彼女の耳にキィィンッ!と甲高い音が響き,彼女の知覚は一瞬にして現実の境界を飛び越えた。
「ミーネっ!」
一切の風景が消失したありえない視界の隅で,しかしまったくそんな事は意に介していないシャルルが叫ぶ。ちらりとそちらに視線を移すエリィ。
「なんでっ…なんでこんなっ…!」
「ほぼ理想通り,といったところだが?」
「!?」
平然とした返答に驚愕して視線を戻すと,そこには先ほどの傷など無かったかのように自然体で佇むミリアの姿がある。
「…え?」
「ん?」
そこではじめて存在に気づいたとでも言わんばかりにエリィを見て,ミリアは目を丸くすると,苦笑しながら口を開く。
「なるほど,アリシアの姫君というのは本当のようだな」
「え…?」
その笑みがあまりにもそれまでの印象とかけ離れていたため,余計に混乱するエリィ。
「これが龍戦士の力…ということだよ。それを幾重にも織り込んできたアリシアの血脈が,この場に加わる資格を与えたのだろう」
「…」
「そんな事よりミーネっ!」
ぽかんとするエリィには構わず,シャルルが再び声を荒げる。
「こんなもののどこが理想なんだ!?俺はこんな結末を望んじゃいない!」
「フ…だからお前は童貞だと言うのだよ」
「!?」
今度こそその言葉を完全に理解する事のできたエリィが目を丸くして,すぐさま赤面する。
「初々しいな…だが…」
それに苦笑して,ミリアは続ける。
「姫君はともかくとして,シャルル,お前まで汚れを知らぬままではいささか不安だということだよ」
「なにぃ…?」
その言葉は,シャルルのつい先ほどの推測を裏付ける。
「…では何か?お前は人も殺せない甘ちゃんの俺に経験を積ませるため,わざと殺されたということなのか?」
「え…っ」
そこでエリィはやっと言葉の真意を知る。
「そうとも」
「馬鹿を言え!」
涼し気に言ってのけるミリアに激高するシャルル。
「たったそれだけの為に…そんな事の為になぜお前が命を捨てる必要がある!?」
「フ…」
鼻で笑うミリア。
「な…」
しかしその表情がおよそそれに似つかわしくない寂しさに彩られていたために,シャルルはなかば肩透かしを食ったような格好でぽかんとする。
「それが,今の私にできる役割だということさ…」
「な…に…?」
しかしすぐさま,シャルルは叫ぶ。
「ふざけるな!貴様だって…伝説を継げる龍戦士だろうに!」
「昔の話だよ…」
「なっ…!?」
意表を衝かれるシャルル。それは眼前の彼女が知らないはずの,新訳のミリアの台詞だ。だがそれにも増して,候補者から外れるなどということがあり得るのか。自分でそれと気づく事ができるのか。
「うまく騙しおおせていたようで何よりだが…」
肩をすくめながらミリアは言う。
「私の龍戦士の力は,もうほとんど枯渇しているのさ」
「!?」
「”絶望と死の砂海”カイニは伊達じゃなかったということだ。一説によれば死の大地をはるかに凌ぐ災厄がそれを形作り,永劫すべてを拒絶し続けると言われている」
「…まさか!」
ハッとするシャルル。
「そうともさ。私一人ならばいざ知らず,帰還者すべてを導くにはかなりの労力を必要とした…ここに居る私は,もはや出涸らしの残りカスに過ぎんということよ」
「ぐ…っ」
それですべてを察し,シャルルは苦悶の表情で呻く。
だから先ほどの戦闘もごく常識的な,それこそ大尉が龍戦士の真似事をする程度のものに留まったのか。お互いの破滅を恐れて力を抑えたのではなく,使えるだけの力がすでになく,だからこそこちらに無駄な力を使わせまいとしたのか。
そして,もはや力の残っていない自分が生き残ったままでは帰還者が割れると判断したのか。だからこそ”流星”の名に縋ろうとし,それに全てを託そうとしたのか。無防備とも言える無謀な戦いぶりだったのか。エリィに仕掛けたあの行動にまったく殺気が感じられなかったのか…。
「私は…満足だよ」
そこでミリアが静かに言う。
「ハイアムの流星が愛した者たちの末裔を,再び故郷へと導くことができた。そしてそこで…エレーナの名を持つ者と,シャルルの名を持つ同胞へすべてを託して逝ける」
俺は不満だ,納得がいかない。そう喉元まで出かかったシャルルには構わず,ミリアは続ける。
「双朧花も,本来あるべきところへ戻れる…エレーナ」
「えっ?は,はい…?」
そこで予想外に話が自分へと向き,狼狽えるエリィ。
「双朧花はもともとアリシアの至宝。それがエレーナ姫に託され,そこから竜騎兵団長シャルルへと託され…以降,帰還者の中で受け継がれ続けてきた」
(ん…?)
当事者を外れて多少余裕を取り戻し,そこで小さなひっかかりを覚えるシャルル。
アリシアとハイアムの両軍を道連れに消滅したというなら,それは戦場になろう。となれば双朧花はその爆心地にあったと考えるのが妥当だ。
誰かに託したと言うのなら,それはシャルルがそこを生き延びたという事になるのではないか。
しかしその先を考える間もなくミリアの言葉は続く。
「今こそそれをアリシア王家に…いや,お前に返す時だ。好都合な事に,手続きは既に済んでいる」
「え…?」
「双朧花は結構なへそ曲がりでな。こいつを継ぐには,前の主と血を交わす必要があるのさ」
「!」
ハッとして自分の有様を確認するエリィ。
「あ,あれ…?」
「心配は要らん。この場には意識が引きずり込まれているだけに過ぎんよ。身体の方は間違いなく,盛大に私の血を浴びている」
一滴あればじゅうぶんなのだがな,と苦笑するミリア。
「!」
ザザッ,とそこで不快な雑音が入り,世界が乱れる。
「そろそろのようだな。エレーナよ,シャルルよ…後は頼むぞ」
「待て!俺は納得できん!なぜお前が…」
「満足だ,と言っただろう?」
ザザッ,ザザッ,と断続的にその姿を乱しながら肩をすくめるミリア。
「私は元の世界に居場所を…存在意義を見出せなかった。それで,自ら命を絶とうとした…」
「!」
ハッとするシャルル。それは彼にも当てはまることだ。
「それが何の因果かここへと導かれ…こうなった。だが,ここには確かに,私を必要としてくれる者がいたのだよ」
「ミーネ…っ」
「言わば第二の生…私はそれを,全うしたのだ」
「…っ」
そこで大きくミリアの姿が乱れる。
「悔いは…ない…」
「!」
どさり,という生々しい質感がそこでエリィの感覚を現実に引き戻した。もはやただの骸となったミリアの身体が彼女にのしかかってきたのだ。
「…くっ…」
「あ…?」
シャルルのうめき声が耳に飛び込んできたかと思うと,間を置かずに近づいてきた彼がその骸を抱き上げる。
「シャルル…」
「エリィ…下がっていてくれ」
「え?」
苦悶の表情で言うシャルルの真意を測りかねるエリィ。しかし彼女は,始末をつけたいとの彼の言葉を受け入れて少し下がる。
「…」
帰還者のほうを振り返るシャルル。するとその腕の中から,音もなくミリアの身体がふわりと浮き上がる。
(ミーネ…経験を積ませるとお前は言ったが…俺にとっては自分で自分を斬り捨てただけの話だよ…)
「!」
目を見張るエリィ。それなりの高さへと昇ったミリアの身体が,突如として紅蓮の焔に包まれたのだ。帰還者たちも予想外の出来事にざわめく。
しかしそれで終わりではなかった。燃え盛る焔は竜の姿へと変じ,帰還者たちの頭上をかすめて飛び去ったのだ。
もちろんそれは,シャルルの意図によるものだ。もう少しだけ彼の憤りが強ければ,あるいはもう少しだけ彼の自制が弱ければ,それは直撃していただろう。
紅の竜が彼方へと消えるのを呆然と見送った帰還者たちが振り返ったタイミングで,彼らの方へと歩み寄っていたシャルルは静かに口を開いた。
「俺は…お前たちを許さない」