9 陥落
「―――――――――これ…は…!?」
我が目を疑う、とは正にこの事だと思った。
“それ”は全く以て想像の埓外としか言いようがなく、目にした瞬間二の句が継げない状態に陥ってしまったのも無理からぬとしか言えぬ代物で。
他の二人も同様かと思いきや、老医師は莞爾と笑い、驚きを含んだ声音で何やらほうほうと一人で納得したように頷いていた。
「やれ、珍しいものを見たぞ―――――天翅とはな!」
「………………まぁ!背中に翼が!」
「てんし………天使?」
膝に抱いた少女の背中には、何とも可愛らしい小さな真珠色の一対の翼が生えていた。
「“天翅”というのは古代種の一種でな、元々数の少ない稀少な種族なんじゃ。近頃じゃトンとお目にかかれんがの」
少女の身体をざっと診て適切な処置を施した医師は、重大な疾患は無いと判断した上で早速御自慢の豆知識の披露を始めた。
少女の方は過度の緊張からきた疲れのせいで、今は目を閉じてくったりと胸に寄り掛かっている。
もちろん元通り外套を羽織ってだ。
「………知らなかった……」
「ほっほっ。さもありなん、じゃ。儂もむかぁーし一度目にした事があっただけだしの。現在では知る者も少なかろうて」
「言葉が通じないから…余程の辺境から連れて来られたんだろう、ぐらいにしか思ってなくて……」
「まぁのー、普通は思い付かんさね。……だがこれは、ちぃとばかし面倒な事になるかもしれんぞい」
「――――――それは…」
「他の子供等はこの後保護施設に預けられて、親を探すなり何なりして――――まぁ、見つからんでもそれなりに此処の暮らしに馴染むじゃろが……。その子は施設に預けてうっかり妙な人間に引き取られたりでもしたら最悪じゃ。下手をすれば奴隷以下の扱いをされかねん」
この都市で禁じられているのはあくまで『人間』の売買であって、実在すらも知られていない種族の、身の安全の保証など何処にも無いということだ。
「地位や身分のある方に身元引き請け人になって貰う事が出来れば、取り敢えず安心なんじゃがのぅ」
老医師がチラリと此方に視線をよこす。
『僕』が元貴族なのはわりと知られている。別に隠してないし。
でもだからって昔のコネなんか当てにできるかっての。
ナニしろ上司の顎を思いっきり砕いて顔の形を変えてやった上に、辞表代わりに大事なイチモツを蹴り潰して騎士団を抜けてきた身の上としては。
それこそ、その上司は『身分のある』側の人間だったから相応の報復措置を覚悟してたんだけど、目撃証人が複数いた事と元々の素行の悪さ、加えて怪我の原因となった問題行動の外聞の悪さに、身内が事件そのものを公にする事を憚ったらしい。
とにかく!
不名誉除隊も同然の経歴の持ち主としては、かつての縁故が全く期待出来ない事だけは確実だ。
そもそも地位や身分があったところで、それイコール『人格者』というわけじゃなし。
「……どーすりゃいいのさ」
やや捨て鉢な気分になって溜め息を落としたら、胸元でくったりと萎れていた少女が上を向いてじっと此方を見詰めている。
見る角度によってユラユラと色彩を変える不思議な瞳が今は不安を湛えて揺れ動き、小さな手で隊服の胸の辺りをきゅっと握って離すまいとしているように見える。
果ての無い海の上を飛ぶ小鳥が、やっと見つけた小枝の止まり木を失うまいと怖れるように。
いや、ホントに。
駄目なんだよ、弱いからっ…。
そんな目でじっと見詰められちゃうと!
捨て猫とかじゃないんだからさ、そんなに簡単にはどうこう出来ないでしょ。
ああああああああっ!
もう!僕に死ねと!?
死ぬ!確実に死ねる!
萌え死に確定!?
「……………取り敢えず、上に話を通してみる。一旦うちの隊の預かりにして、それから考える」
「上とな?」
「僕はただの平隊員だよ。一応ボガード隊長とあの中年が上司だから」
「お前さんも大変じゃのー、あのボケボケの爺ぃと戦闘狂の糞餓鬼のお守りとは。今現在15番隊の仕事を回してるのはお前さんじゃろが」
そーいやこの老医師は隊長と飲み仲間だったっけ。
南支部の主治医だからしょっちゅう詰所にも顔出ししてるし。随分気安い人だと…………。
「………………えーと、医師。名前…何て仰いましたっけ」
「こん餓鬼ャ!!三年も顔を会わせといて今更か!!」
えええ…。だって男の名前なんて覚えても楽しくも何ともないし。
変態属性発覚か!?
脳内の叫び声なのでギリセーフ…?