一一二 勝利の女神は何処へ
「戦隊針路一八〇度、各艦機関全速! 工廠長にゃ俺達が頭ば下げるき、機関が悲鳴を上げようが構うな!」
帝国海軍第一五戦隊司令官、伊崎俊二海軍少将は旗艦「沙流」の艦橋で叫んだ。
「面舵一杯! 本艦針路一八〇度! 回頭終了後機関全力!」
「沙流」の艦長、人見錚一郎海軍大佐が“達”の音にやや疑問を持ちつつも間髪入れずに命令を航海長に繋ぎ、舵機室に於いて舵を預かる操舵長が舵輪を回す。
回頭するポイントは前もって決めてあったため、伊崎は指揮下の各艦に前もって面舵を切らせている。
これは本来、対空戦闘の際に使う敵弾回避法であるが、現実の問題として八〇〇〇トンを超える排水量を持つ「沙流」は、伊崎の絶叫から間を置かずして進行方向を九〇度右へと、至って滑らかに変えることが出来た。
そして、艦首を真南へと向けた「沙流」は直後に乗員の誰もが聞いたことの無いような機関の駆動音を発しながら、回頭により失われた速力を回復しさらなる高みへと、派手な駆動音とは裏腹にのんびりと加速しながら突き進む。
当時の軍艦が抱える共通の問題である加速性能の悪さはともかく、吉野型軽巡洋艦の最高速度は三五ノットである。
が、これはあくまでもカタログ上の話であり、動力の元である蒸気の力をより増す……早い話燃費を完全に度外視して発生させる、高温高圧の蒸気を使えばプラスアルファの出力が発揮され、一方で規格外の蒸気を送り込まれる機関そのものの傷みは急速に進む。
本土に帰った後、工廠関係者にいやらしく苦言を呈されるのは必至だ。
だが、帝国海軍の象徴として長きに渡って君臨してきた信濃型戦艦の一角が今、危機に瀕している。伊崎も人見も一人の帝国海軍の士官としてそれを救うためなら、頭の一つや二つ喜んで地べたに張り付ける覚悟だった。
「電測より艦橋。敵戦艦部隊、一斉に反転します! 針路三四〇度、位置は……本艦より右二〇度、距離一〇〇!」
白浪を豪勢に吹き上げながら、闇に染まった海面を切り裂くように突き進む「沙流」他、第一五戦隊を襲う砲弾は存在しない。
第一五戦隊が先程まで第三水雷戦隊の前衛役を務めていた時は、合衆国海軍の新鋭重巡洋艦との砲撃戦を演じており、一発当たりの威力と防御力に劣る彼等は、そのどうしようもない不利を数で克服することを試みた。
話はまた逸れるが、この戦術は陸軍中将で帝国陸軍を退役した著名な銃器開発者の南部麒次郎が、陸軍軍人の肩書きのもと最後に行った仕事に起因している。
大日本帝国の随一の技術者として、メイド・イン・ジャパンの陸戦兵器を積極的に海外へ売り込むことを少くとも軍人の中では初めて提唱した彼の、帝国陸軍の技術者としての悩みの種の代表選手は、官営工廠の生産効率の悪さだったと言って間違いない。
何しろ国家予算というものに縛られているため、咄嗟の大増産とか生産ラインを新兵器のそれに切り替えるとか、とにかく想定外の予算が必要なことに対してやたらと挙動が鈍いのである。
また、当時のいわゆる“熟練工”は年功序列などというものの一切関係無い、完全出来高歩合制の世界に生きていたため、己の技術を誇ると共に一円たりとも給料の高い……残業の多い工場を勝手に探し出して、勝手に渡り歩く連中だった。
そしてこのような熟練工を多数抱えることは、兵器工場として必要不可欠かつ致命的な欠点なのである。
なぜなら、例えば拳銃はともかく機関銃などは民需の役に立つ要素が無い。
その機関銃の新型が制式化されたとすると、当然ながら陸軍省はそれを定数プラスアルファ生産及び配備するだけの予算を請求し、予算案が帝国議会を通過すれば需要と供給のバランスとまるで無縁の大量生産が始まる。
では、所定量の生産が終わるとどうなるか、と言えば、戦争でも起きない限りまず追加発注は無い。つまり、仕事が無くなる。給料も無くなる。結果、熟練工は民間へ流出する。新たな受注が入った時、もうそこに機関銃の大量生産で培った高い技術力を持つ工員はおらず、工廠はまた一から募集と養成をしなければならなくなり、終いには納入期限に間に合わなくなる。とにかく非効率甚だしいのだ。
南部はそれを官営工廠製兵器の海外輸出や場違いな製品の生産で乗り切ろうとしたが、結局のところ官営工廠の工員の給料も国家予算の一部であるから、おいそれと増額など出来ないし残業の奨励も然りだ。だから民営の工場が彼等を引き抜こうと思えば簡単に出来たし、官営工廠はそれを防ぐ手立てを持たなかった。
一方で、いざ国家予算の縛りが緩む……軍隊が戦時編成に移行して流石の官営工廠も、新兵器の大量生産どころではない大増産体勢を敷こうとすると、供給不足から高騰する労働市場で過ごす彼等は仕事をしなくなる。怠けても、首切りされないと知っている確信犯と化すのである。
そして、南部は知っていた。
戦時に素人たる一般人を工員として動員しても、その人数の割りに生産効率は上がらず、工員の技量に頼って造られる完成品の質も落ちるであろうことを。
そんな素人が平気で怠ける玄人を見て、ぶつけ所の無い不満を抱えるであろうことを。
さらにこの怠け者を見た動員担当の陸軍士官が、依怙贔屓をしない真面目な性格であればある程、陸軍二等兵として連中を前線に飛ばしたくなる衝動にかられるであろうことを。
だが、対処法も一応あった。
素人が作業工程に入り込んでも効率と質が極力下がらないようにするには、そこから手間のかかる修練を要する手作業を出来得る限り削れば良い。
熟練工達を真面目にかつ特定の工廠で働かせるためには、給料体系を見直してしまえば良い。それには“民営化”が望ましい。民営化すれば、挙動が素早くなるというオマケも付く。
……前者に関しては、出来るかはともかく機械化で乗り切れる問題だ。現実に日露戦争の際、機械化がある程度成っていた東京砲兵工廠製の“銃弾”の供給不足に困ることはあまり無かった。ホチキス社より“保式機関砲”のライセンスを購入した際の付属物諸々は、当時の日本人には逆立ちしても造れないものであり、同時に絶好調だった。
問題は熟練工が手作業で操る、万能旋盤頼りの大阪砲兵工廠製の“砲弾”の供給不足だった。挙げ句の果てに、戦時中故に保険が効かないにも関わらず高田商会が海外から輸入する始末であったのだ。
しかし、後者は一筋縄ではいかなかった。
何しろ“官営”なのである。陸軍将校という名の官僚の赴任先、大事な大事なそれはそれは大事なポストである。
一陸軍中将の分際で、本来は同僚であるはずの“陸軍官僚団”に立ち向かうなど、護身用ピストル片手に機関銃陣地へ突撃するようなものだ。
そこで南部は“関東大震災”を利用し、復興資金捻出のため、一銭でも多くの資金を必要とした政府の足元を見たのだ。
経営悪化に苦しんでいた鈴木商店と、一介の貿易商からのし上がり一五大財閥の一つに数えられる大蔵財閥を抱き込み、“官営工廠の一部民営化”という後に“南部麒次郎一世一代の大仕事”と呼ばれる策に打って出たのだが、それを語る機会はまたいつか……
さて話を戻せば、一発当たりの威力よりも単位時間当たりの投射火力の増大を選択した結果、第一五戦隊は敵巡洋艦一番艦をまず戦闘不能に追い込むことに成功していた。
最後まで主要防御区画である機関室に弾を届かせることは叶わず、そこまで防御力は高くないであろう舵機室にはそもそも弾が当たらなかったらしく、艦そのものの制御は可能な一番艦は寂しく単独で戦場を離脱したが、どのみち最早何の驚異ではないし友軍潜水艦が後で捕捉してくれれば言うことも無い。
――「速射性能を頼りに投射火力を増やせば、格下の艦も時として格上の艦を撃退し得る」という戦訓を得たのも束の間、敵巡洋艦一番艦に対する戦果の再現を狙うべく目標の変更及び砲撃を再開した第一五戦隊の面々は、距離が近くなりまた貴重な経験を得たためか、素早く有効弾を得ると共に次々と連続斉射を再開した。
格上の敵艦にしてみれば、一発被弾したところで大した騒ぎではないが弾はどっさりと飛んで来る。逆に格下の味方にしてみれば、飛んで来る弾はそれ程でもないが一発被弾する度に沈没の危険が迫る。
というお互いに致命的な打撃を受ける可能性を持ったまま推移した砲撃戦に、一つの楔を打ち込んだものはどちらの巡洋艦でもなく、帝国海軍の戦艦だった。
第一警戒隊及び第三戦隊旗艦の戦艦「出雲」が、艦橋に立て続けに二発の敵弾を被弾し、遠目に見ても明らかにそのシルエットが尋常ならざるものになり、その結果指揮系統が混乱するだろう、と即座に判断した第三水雷戦隊司令官木村昌福海軍少将は、それまで指揮下にあった第一五戦隊に変針を命じると共に指揮下から外した。
第三水雷戦隊の放った魚雷が次々と水柱及び火柱を噴き上げる中三六〇度方向……真北に艦首を向けた第一五戦隊は、木村の最後の指示通り最大戦速でただひた走り、面舵を切って九〇度曲ってしかる後にさらにまた面舵を切って九〇度曲がることにより、後ろから回り込む形で敵戦艦部隊の左舷後方へ接近した。
この間一切の火器を使用せず、戦場となっている海域からはむしろ離れるように動いた第一五戦隊に対する攻撃の優先順位は、木村の目論見通りストンと下がり、電探に写っても戦艦同士の熾烈な撃ち合いや第三水雷戦隊の放った魚雷が合衆国海軍の重巡洋艦一隻と駆逐艦三隻に命中する中、人の目には写り難い状態にまんまと変化したが、敵の新鋭重巡洋艦との戦いでそれまでに受けた傷はそのままだ。
そのため、例えば木村の実弟である「沙流」副長の近藤一声海軍中佐率いる応急班の活躍によって火災こそ消し止められたものの、二本煙突の両方が行方不明になってしまった「沙流」の後部の二基の主砲塔は黒煙の中に埋もれており、煤だらけであること間違いなし……測距儀を覗いても黒煙に遮られて何も見えはしない。
「一五戦隊、右砲戦。目標、敵水雷戦隊の内各艦任意の敵艦。電探測距及び一斉撃ち方にて砲撃始め!」
「艦長より砲術。目標、敵水雷戦隊。狙い易い奴を電探測距で撃て。一斉撃ち方、砲撃始めッ! ……しかし、森下大佐も中々やりますな」
「あぁ。敵さんも見事に引っ掛かったもんたい」
ここまで取り付けたのなら、もう存在感を消す理由は無くなった。そう判断つつ右斜め前に於いて砲撃戦を演じる二隻ずつの彼我の戦艦の様子を見つめながら、伊崎はあたかも人事のように言った。
視覚情報だけを頼るなら、どうやっても「出雲」の不利は否めない。敵二番艦がどうなろうと知ったことでは無いが、都合三つの戦隊が一見相互に協力出来ない戦況、もし五〇年前の戦いなら「出雲」はこのまま滅多打ちにされるところだが、現在三つの戦隊は無線という見えない糸で結ばれている。
暗闇の向こうにいる友軍の様子が分かっていれば、それに対する支援もより的確なものとなる。その点、第一五戦隊はまさに第三水雷戦隊を支援しつつ第三戦隊の支援に息せき切って向かっていた。この戦いは戦艦同士の砲撃戦などでは決してない、と静かに宣言しながら。
「砲術より艦長! 徹甲弾にもう後が有りません!」
何とも表現のし難い高揚感のようなものに襲われているなか、彼等が迂闊にも考えていなかったが至極当たり前の事象が発生した。撃ち過ぎによる弾切れである。
「し、しまった……」
「一五戦隊、砲撃止め!」
「主砲、撃ち方待て!」
吉野型巡洋艦後期型の搭載する九七式六〇口径一五,五センチ連装砲は、くどいようではあるが対空射撃をも考慮に入れている。
よって、対空用砲弾である二式通常弾の搭載量の割合が増し、対艦用砲弾である一式徹甲弾の搭載量の割合が低くなる。おまけに巡洋艦であるから弾薬庫の容積など高が知れているのである。
軽く狼狽気味な人見の命令に従い、それでも弾薬庫が軽くなった「沙流」は発砲を止め、後続艦も次々と砲門を閉じ、第一五戦隊は再び喧噪の脇へと姿を潜めていく。
以後の展開次第では始末書を何枚か書けば済むような話ではなくなるであろう状況であることを、等しく理解してしまった伊崎や人見以下の幹部達の元へ、そうとは知らずに己の任務に忠実な電測長から新たな報告が入る。
「電測より艦橋。敵戦艦部隊が左へ回頭しています……直進に戻りました、針路一九〇度。本艦よりの位置は右六五度、距離六〇です!」
「まだまだだ。もっともっと近付いてからだ」
指示と共に聞き苦しい歯ぎしりをたてながら、残弾数のことを忘れるという大失態を演じてしまった伊崎率いる第一五戦隊に残された対艦兵装は、もはや温存しておいた合計三二本の九三式六一センチ酸素魚雷くらいである。
これを撃ってしまえばもう完全に防空巡洋艦のようで何かが違う艦へとなってしまう。であるからして、大事にかつ有効に使わなければならない。
そして幸いにも、魚雷を使うべき機会はすでに用意されている。友軍を助けるべく右舷側を行く敵戦艦を雷撃するのである。
とは言っても、第三戦隊を危機から救い出すために何も敵戦艦を撃沈する必要性は無い。むしろ、全て外れてしまっても構わない。
重要なことは、敵戦艦部隊に三〇本以上の魚雷が迫っていると認識させることだ。あの長い艦体のことである。認識すれば必ず魚雷に対する対向面積を極小化し、なおかつ艦首が作る波で魚雷を弾くべく取舵を切る。
すると同時に第三戦隊に艦尾を向けることになり、敵戦艦二番艦に至っては「越前」がその一つしかない後部主砲塔を破壊しているから、その隙に第三戦隊はこの海域から離脱することが出来る。
事は粗方、木村の思惑通りに進んでいる。敵の水雷戦隊に第三水雷戦隊が雷撃を敢行した際、行動を共にしていた第一五戦隊には雷撃命令が出されなかった。
木村がこのような展開をあの時点ですでに読んでいたとは考えられないが、生粋の水雷屋としてのその海上における経験によって培われた決断力は伊達ではない。
伊崎や人見は今更ながら木村の判断力に脱帽しつつ、やることがこれといってないために双眼鏡を接近中の敵戦艦へと向けた。
闇に染まる円形の視界の中に浮かぶ敵戦艦一番艦は、その艦上に小規模な火災でも生じているのか影が少し鮮明になっており、敵戦艦二番艦に至っては艦中央部に巨大な火炎が踊っており、周囲が闇であるがためにむしろ昼間よりも目立っている。
しかし、第三砲塔があるはずの場所から黒煙を噴き上げ、第一砲塔の三本の砲身の内二本がどこかへと行ってしまった正に満身創痍の敵二番艦の周囲に水柱が噴き上がる様子はない。
もはや敵二番艦をかまっている場合ではない、とでも判断したのか「越前」が目標を変更したようである。
「電測より艦橋。敵戦艦部隊の現在位置、本艦より右八〇度、距離五〇です!」
「良し! 一五戦隊、右魚雷戦。『沙流』『入間』目標、敵戦艦一番艦。『夏井』『雄物』目標、敵戦艦二番艦。各艦、魚雷発射始め!」
「艦長より水雷。目標、敵戦艦一番艦。魚雷発射始めッ!」
「……水雷より艦橋。本艦魚雷発射完了、命中まで三分半!」
「通信より艦橋。『入間』より入電。『我、魚雷発射完了』……『夏井』『雄物』よりも同文入電!」
「一五戦隊各艦、針路及び速度そのまま! ……右砲戦! 目標敵戦艦。弾種は通常弾、砲撃用意!」
「艦長より砲術。右砲戦、主砲及び高角砲目標、敵戦艦一番艦。弾種は通常弾、撃ち方用意!」
第一五戦隊が持つ最後のかつ最有力な対艦兵器がその威力を発揮するまでの間、ろくに弾が撃てない彼等に出来ることは激しく限られる。
敵戦艦が魚雷に気付いて回頭した場合……それこそが目当てなのだが……第一五戦隊に急接近する針路をとることになるから、ただひたすら逃げるのみだ。もし高角砲で応戦してきた場合に備え砲撃準備を命じたとは言え、主砲で応戦されたらなす術は無いのだ。とにかく、距離をとるに限る。
――伊崎達の心配を余所に、主砲を右舷側に向け、艦内に退避していた右舷側の高角砲要員達を本来の持ち場に引き戻した四隻の軽巡洋艦は真南に向かって夜の太平洋を驀進し続けた。
そして、魚雷の発射が詰めの一手でもあったためか、時計の針の進みがやたらと鈍ったかのような「沙流」の艦橋を電測室からの報告が貫く。
「電測より艦橋! 敵戦艦部隊一斉回頭! 針路五〇度です! ……っと待って下さい……敵水雷戦隊が三戦隊後方より追いすがっています!」
「何だってッ!? そんな馬鹿な……」
目論見が的中した! ということに無邪気に喜ぶ者は一人もいない。むしろ電波の示すことが事実なら、目論見が的中しても目的は全く達せられないのだ。
なにより、第三戦隊と敵水雷戦隊の狭間には、あの木村が率いる第三水雷戦隊が立ち塞がっているはずだった。
しかしながら、今まで鉄壁を信じていた砦が破られた。
経緯は一切分からない。
「沙流」の艦橋に詰める者達が分かることはだた一つ。遮るものの無い海中に、魚雷が放たれるであろうことだけだ。
「通信より艦橋、一一駆司令部より緊急信! 『旗艦損傷につき、我、三水戦の指揮を執る』以上です!」
「くそッ! 目標敵水雷戦隊、砲撃始め!」
「艦長より砲術。本艦目標、敵水雷戦隊。子細は任せる、主砲及び高角砲撃ち方始めッ!」
第三水雷戦隊の旗艦がどの程度損傷したのか、回頭によって自分達の後方から丁字を描くことになる敵戦艦はどのような行動をとるか、そもそも自分達の撃った魚雷はどうなったのか……などと疑問を持つ余裕が失われた「沙流」の主砲塔や高角砲塔が僅かに反時計回りに旋回し、その砲口に発射炎を矢継ぎ早にほとばしさせる。
もう手遅れかもしれないが、艦対空及び艦対地攻撃が本来の役目である二式通常弾でも、相手が軽巡洋艦や駆逐艦ならまだ何とかなる。何としてでも第三戦隊を守らなければ。
伊崎も人見も、唇を噛んで闇の彼方を凝視するが、期待はそうそう報われない。期待を持つ以上、裏切られる方が多い。
「通信より艦橋! 『雄物』より緊急信! 『我、敵戦艦の砲撃を受く』以上です!」
「み、見張りより艦橋! 『出雲』に水柱ぁ!」
「『ハッチンス』より緊急信! 『敵巡洋艦艦橋付近に命中弾を確認』……続けて『スティーブンス』よりも緊急信『敵巡洋艦、舵を損傷せる模様』以上です!」
「ほう、どうやら神は我を見放してはいなかったようだ……針路二〇〇度。諸君、シナノ・タイプに肉薄するぞ、この機を逃すな!」
合衆国海軍第二三水雷戦隊司令官のアーレイ・A・バーク海軍大佐は、旗艦であるアトランタ級軽巡洋艦四番艦「サンフアン」のCICの司令官席から立ち上がり、そう力強く命令を発した。
本来、アトランタ軽巡洋艦という艦種は、合衆国海軍より二つの任務に就くことを期待されている。
すなわち、連装砲塔に収められ針鼠の如く艦上に配された八基一六門の三八口径五インチ砲を大空に振りかざし、かつ航空母艦の傍らにあって彼女を狩るべく襲いかかる鉄の野獣を叩き落とすこと。被弾時の被害拡大を嫌って魚雷を積まない合衆国海軍の巡洋艦群の中にあって、例外的に魚雷を積み敵の巨艦を海中に引き擦り込むべく海上を疾駆する駆逐艦部隊を嚮導すること。である。
「サンフアン」は後者の任を果たすべく一三隻のフレッチャー級駆逐艦を後に従え、メジュロ環礁の沖の戦場にその身を投げ込んだわけだが、第五一・三任務群司令部よりの突撃命令を受領してから三〇分。付き従う駆逐艦は七隻と半減しており今また一隻が落伍しようとしていた。
それに引き替え、三隻のボルチモア級重巡洋艦よりなる第二巡洋艦戦隊と共に彼等があげた戦果はわずかに駆逐艦三隻の撃沈破に過ぎず、その第二巡洋艦戦隊も戦隊旗艦の「ボルチモア」は戦闘不能となり三番艦「キャンベラ」は沈没しつつある。二番艦「ボストン」は健在だが、彼女は「ボルチモア」以下の損傷艦の離脱を援護すべく単独行動に移っており、八インチ砲弾を毎分四〇発近く投射することの出来る有力艦ももはや頼みにはならない。
すべてはわずか一〇分程前に彼等を襲った災厄に端を発する。開戦初頭のマカッサル海峡海戦以来、合衆国海軍の水上艦艇を恐怖に陥れてきた“蒼い殺人者”こと、帝国海軍の無航跡魚雷がまたしても襲いかかってきたのだ。
バークがここでミスを犯したとすれば、それは敵艦隊の動きに着目し魚雷が迫り来る事を友軍艦艇に通報させたまではともかく、回避行動を“行うよう勧告を出しただけ”だったことだ。組織的に一斉に回避行動に移っていれば、魚雷による被害は軽減されたに違いないのである。
しかし、この件でバークが査問委員会にかけられるようなことは起こらなかった。なぜなら誰も「敵が魚雷を発射した」などという確証を持ち合わせてはおらず、「かもしれない」がある種の共通認識だったからだ。
おまけに見えない。ソナーで航走音を拾おうにも、全速で突き進む自分自身が騒音源となっているばかりでなく、降り注ぐ砲弾が海面を叩き炸裂し続けている状況下では無理な相談だ。
とは言ってもである。めいめいに回避行動を行ったがために隊列が乱れてしまい、魚雷から逃れた艦も味方同士の相互連携が上手くいかなくなったところへ、ここぞとばかりに帝国海軍が砲弾の雨を降らせ、第二三水雷戦隊は僅かな間混乱状態に陥った。
さしものバークも、この時ばかりはその頬を冷や汗が流れていたものの、戦艦「ニュージャージー」の値千金の一撃によってかヨシノ・タイプの軽巡洋艦群が戦列より何を思ったか自主的に離脱していったため、戦力を大きくすり減らしながらも第二三水雷戦隊は何とか態勢を立て直すことに成功した。
ここで、それまで同航戦を演じる彼我の戦艦部隊の中間でやはり同航戦を演じていた彼我の水雷戦隊は、頭上を巨弾が飛び交う中帝国海軍のそれがより南を南下、つまり先行していた。
ヨシノ・タイプと別れてから七分ばかりが経った頃、味方の戦艦が危機を迎えたこともあってか、前を行く帝国海軍の水雷戦隊は間断無く砲撃を続けつつ、その針路を一四〇度方向へと変針した。
その目論見は明らかに、“南下する”という点において遅れをとっている第二三戦隊の頭を押さえてT字を描くと共に、第一戦艦戦隊に肉薄しようとするものだった。
ここでバークは賭けに出た。針路を二七〇度方向、つまり真西へと変針し味方の戦艦へ向かう敵水雷戦隊に対して反航戦を挑んだのだ。
そしてまず、彼等は有利なカードを引き当てた。第一戦艦戦隊がシナノ・タイプの動きに合わせるように三四〇度方向に一斉回頭するのとほぼ同時に、敵水雷戦隊もまた三二〇度方向に一斉回頭を行ったのだ。帝国海軍にしてみれば余計なことをしてしまったのである。
バーク率いる第二三水雷戦隊が、あえて敵の魚雷にさらされようとする味方の戦艦から離れたということは、敵の戦艦を自らの攻撃圏内に捉えようとすることと同義だ。
つまり帝国海軍の水雷戦隊は、劣勢に陥りつつある味方の戦艦を救うべく、その味方から離れてまで敵戦艦に肉薄して魚雷攻撃を見舞おうとしたのである。魚雷の再装填が可能な駆逐艦を保有する帝国海軍の駆逐艦だけになせる技だ。合わせて彼等は第二三水雷戦隊が自分達の前に立ち塞がろうとすると予想したのだろう。合衆国海軍の駆逐艦は魚雷の再装填が出来ないことも見越して、その唯一の雷撃の機会の対象から味方戦艦を外せれば……とまで考えたかもしれない。自分達が魚雷の犠牲になろうとも。
「いつだったかニミッツ提督が言っていたな。ジャップは自己犠牲を美徳と考える民族だ、と。見上げた根性だが、残念ながら裏目に出たな……戦隊針路一八〇度!」
貴様達には我々がまさか味方の戦艦を見捨てるような行動をとるとは考えられなかったのかもしれんが、果たして貴様達は最初に見捨てるような行動をしたのが自分達だという自覚はあるかな? そう、敵への肉薄と味方から離れることは表裏一体なのだよ。
「取舵一杯! 本艦針路一八〇度! ……それにしても、なぜ連中は一斉回頭などしたのでしょう? シナノ・タイプが第一戦艦戦隊との砲戦を放棄して全速で西進してしまえば、その後方から追いすがる形をとっている我々が魚雷を艦尾目がけて撃っても、追いつくまでに魚雷の燃料が持つかは疑問です。そうするよう戦艦に言ったうえで我々など無視してしまえば良いものを」
「艦長、それではまるでジャップの参謀だ。まあ、確かに君の言うことは尤もかつ合理的だ。だがね、仮にも世界トップレベルの戦艦として長き間君臨していたシナノ・タイプにはその決断は出来まいよ。それに、奴等は何やかんやで周到だ。見給え、どこへ行ったかと思えば、さっきのヨシノ・タイプが第一戦艦戦隊の左舷側を全速で南下している。戦艦の始末はそっちに任せたのだろうよ」
バークは人を小馬鹿にするような口調で一人ごちた後、いたって真面目な表情で疑問を呈した艦長に対し、苦笑いを浮かべながらPPIスコープを指差して……まさか自分の上級指揮官がそのことに気が付いていないとは夢にも思わず……どこか他人事のように答えた。彼の興味はそんなところへは向いていないのである。
「後部見張より緊急報告! 『スティーブンス』大爆発! 魚雷が命中した模様!」
「了解、各艦舵を回すな、突っ走れ! ……任務群司令部宛て、報告。『我、ライバルより先んじて、獲物を狩場へ招待しつつあり』以上だ!」
そんな中飛び込んできた報告に、バークは一切動じることなく指令を飛ばし、己が優位に立ったことを上官へと報告する。
駆逐艦「スティーブンス」は戦隊の最後尾を行く上に、前を行く僚艦が既に撃沈られていたため、生き残った僚艦との距離が開き気味であった。だから運が悪くなければ残りの魚雷は生き残りの艦達の後ろをすり抜けるはずだ。それに第二三水雷戦隊は敵水雷戦隊の後ろをすり抜ける形で目標めがけて突っ走っており、お互いの位置関係から魚雷の発射は変針前に行われたに違いなかった。
「艦橋より報告。本艦周辺に高角砲弾とみられるものが多数飛来、及び炸裂しています!」
「ヨシノ・タイプだな。ジャップも形振り構っていられなくなったようだ。構わん、命中したところで致命傷にはならん!
当然ながら、CICから外は見えない。水中爆発の感触は足を通じて感じるが、そんなものは弾が着水する場所によっていかようにも変わる。ましてや、新たに飛来してきた砲弾は着水すらしないのだから、バークは艦橋につめる航海長の報告を受けるまでその存在に気付くことはなく、気付いてからも対応がどこか雑だった。
そして、友軍戦艦越しに行われる軽巡洋艦による妨害など、頭からいとも容易く抹消出来そうな事象が湧き上がる。
「見張りより報告。敵戦艦二番艦の主砲身がこちらを向きます!」
「動じるな、レーダー射撃は万能ではない。各艦魚雷を撃つまで耐えろ!」
上官の専門分野を軽く否定しながらも、バークは自分の発言があまり的を得ていないことには気付いていた。
なにしろ、敵の水雷戦隊をかわして肉薄雷撃を敢行しようとしているのだ。敵戦艦から見れば、五〇〇〇ヤード程後ろを追いかけてくるものを撃つのだから、距離的に狙い易いのである。それに加え、自分から近付いてもいる。二隻のシナノ・タイプが両方共後部主砲塔を一基損傷していることが果たして好材料なのかどうかは、よく分からない。
とにかく、最初の数射は外れるにしろ、いずれ近いうちに……
「敵戦艦二番艦全門射撃! ……『プリングル』より閃光……轟沈です!」
「な、にぃ!?」
「トネ・タイプがサーチライトを点灯! 『ハッチンス』が照らされています!」
とにかく、初弾命中は無いだろう……そんなバークの楽観は戦線より落伍した一隻の軽巡洋艦によって打ち砕かれた。たとえ舵を破壊されようと、指揮官以下が死傷していようと、生き残った者達は戦いを投げてはいない。
「目標、前方のシナノ・タイプ! 全艦、魚雷発射!」
こうなってしまってはもはや猶予は無い。一分一秒でも早くやることを済まして離脱しなくては、最悪ただでさえ全滅判定が下されるであろう戦隊が文字通り全滅する。
目論見が外れ、焦っている自分に毒づくような口調でバークは命令を飛ばした。
「魚雷長より報告、本艦魚雷発射完了!」
「『ニコラス』より報告。『我、魚雷発射完了』」
「『オバノン』より報告。『我、魚雷発射完了』」
「『バッチ』より報告。『我、魚雷発射完了』」
「『ベネット』より報告。『我、魚雷発射完了』」
「『ハッチンス』より報告。『我、魚雷発射完了』」
「よし! 離脱するぞ、いそ……」
頭にヘッドセットを被った通信士達が次々と報告を上げ、合計五〇本超の直径二一インチのMk15魚雷が海中に踊り出す。その雷速は短射程状態の四五ノットだ。敵戦艦が魚雷と同一方向に全速で走るなんてことをすれば命中以前に燃料が尽きるが、彼等には冷静に確実性を追い求める余裕など無かった。
そして、災厄はさらに降り続ける。
戦艦と軽巡洋艦。似つかぬものかつ同じような目的を持つものから放たれる大小の砲弾である。
「『ハッチンス』大爆……轟沈!」
「大変です! 本艦の対水上レーダーがブラックアウトしました!」
「なッ……」
「た、対空レーダー、ブラックアウト!」
「トネ・タイプよりのサーチライト、『ベネット』に移動します!」
「各艦、砲撃目標トネ・タイプ! 合わせて回避運動開始!」
「面舵一〇度! 目標トネ・タイプ、砲撃開始!」
アトランタ級軽巡洋艦は前述したように水雷戦隊旗艦用としての活躍を想定されている。ところが、その最高速度は三三ノット弱であり、フレッチャー級駆逐艦のそれの三七ノットに遠く及ばない。早い話、嚮導艦が離脱の足を引っ張っているのである。
着弾寸前に作動する時計信管が直径一五,五センチの砲弾を炸裂させ、その弾片がさらに「サンフアン」のレーダーアンテナを破壊する中、残された四隻の駆逐艦は回避運動にかこつけ、この期に及んで機関を全開にしたため、第二三水雷戦隊の隊列は完全に乱れた。
さすがに合衆国海軍の精鋭部隊であるから衝突などということは起こりえないのだが、当然の帰結として「サンフアン」はあたかも周りについていけなくなった長距離ランナーのように取り残されていった。
バーク以下の司令部要員にしてみれば、レーダーが使用不能になった原因は分からない。見張りからの報告から置いてけぼりを食いつつあることは分かっていても、それらは決してリアルタイムではないしレーダーに比して正確性にやや欠ける。
戦艦の弾こそ飛んでこないが、軽巡洋艦の砲弾はやんやん飛んでくる。おまけに命中、炸裂、という手順を踏まず、妙な金属音を響かせる。周りが目視出来ないだけにCICは不気味に静まり返っていた。バークも一人、艦橋へ移動するという行動は採らずに司令官用の椅子に座って身動きもせず、息せき切って走る艦の動きに身を任せていた。
何しろ、もうすることが無い。反撃しようにもレーダーが使えない。重巡洋艦はどこかへ行った。戦艦もどこかへ行きつつある。報告によれば魚雷が云々……バークには理解出来ないことである。なぜ今更?
「トネ・タイプのサーチライトが消えました!」
「砲撃中止! 舵中央!」
「シナノ・タイプ、面舵! 一斉回頭です!」
面舵? と、PPIスコープが何の役にも立たない状態であるがために、周囲の状況と乗艦の正確な位置関係がいまいち把握出来ていないという、艦橋に上がれば解決されるレーダーが発達したがために生まれた弊害によって生み出された疑問が束の間湧き、次の瞬間バークの頭は自分たちの魚雷が効果を発揮し始めたという事実に支配された。
「敵戦艦の針路、二七〇度!」
「二七〇度、だと!?」
バークは思わずさらなる疑問に声を出した。シナノ・タイプの動きは魚雷に対する回避行動ではない。まるで第一戦艦戦隊の動きを見て、盛大に距離をとろうとしているかのようだ。
「いや、そうに違いない。だとするならば……」
連中はまだ魚雷に気が付いていない。しかし、我々は連中が直進するという前提で魚雷を撃っているから、命中確率は急降下だ。だとするならば自分達は結局、何がしたかったのであろうか。一体、何をしにやって来たのだろうか。
バークが本人もそうと認めぬまま思考の沼にはまろうとした時、CICは突如として歓声に包まれた。
それが途方も無い幸運に恵まれた魚雷が目標に命中したという報告によるものであると理解しながら、バークは表情だけでしか笑えない自分がいることに一人戸惑っていた。