一〇六 海軍兵学校第三六期
「臨時の同期会会場はこちらかな?」
神奈川県横浜市港北区日吉町、少し詳しく言えば矢上川と東京急行電鉄東横線に三方を囲まれた位置に、帝国海軍連合艦隊は広大な地下施設を有する総司令部庁舎を構えている。
戦闘指揮等に関するような重要施設は軒並み地下に置かれているが、少し面倒くさげな口調で言った海軍次官の沢本頼雄海軍大将が入った部屋は、庁舎の地上三階にある西を向いた小さめの個室だった。
「その通り、待ってたぞ」
すると、窓際に立って眼下を走る東横線の線路を特に意味も無く眺めていた、連合艦隊司令長官の南雲忠一海軍大将は沢本の入室と同時にそう言ってその場を離れ、部屋の中心に置かれた円卓を囲む三つの椅子の一つに腰掛けた。
沢本は静かに扉を閉めると、すでに座っていた海上護衛総隊司令長官の新見政一海軍大将と軽く目を合わせて、残っている椅子を引いて腰掛けた。
そして部屋の角に控えていた総司令部付きの下士官達が、妙な所に集まった三人の帝国海軍の超高級幹部の前に、漆塗りの小さめの箱と箸箱にガラスのコップ、真冬だというのに大汗をかいたビール瓶を三本置き、三人のコップにそれぞれ手慣れた手付きでビールを注ぐと、どこで鍛えられたのか惚れ惚れする所作で部屋から退出して行った。
「さぁて、沢本も来たことだし、いい加減用件を言わんか」
「おい新見。貴様は何と言われて呼び出されたんだ?」
「おそらく貴様と同じだよ。まったく、もう少しまともな嘘を考えたらどうなんだ? 誰がどう聞いても良からぬ談合としか聞こえんぞ」
「いいじゃないか。一〇〇パーセント嘘というわけでは無いのだからな」
理由も聞かされぬまま呼び出され、おまけに本人にそれをいきなり語る気が無いと見るや、新見と沢本はひとまず南雲と同じようにコップを手に取り、乾杯もすることなく揃って口へ運び、最初に沢本が咳払いと共に喋り始めた。
新見も沢本も、ただ呼び出されたわけではない。二人共用件があるから素直に来たのだ。
「まぁ、色々聞きたいこともあるからな。南雲、貴様何がしたくて灰号作戦発動準備命令なぞ出したんだ? おかげで作戦本部は大騒ぎだ」
「ちゃんと松永君(海軍中将、松永貞市連合艦隊参謀長)を派遣して説明させたろう?」
「あのな南雲。誰も灰号作戦を発動すること自体に表だって文句があるわけじゃない。我が軍の機動部隊がマーシャル諸島付近に存在する以上、機会としては丁度良いし外務省だって文句は言うまい。問題なのはだな……」
「俺の独断で準備命令を出したこと、かな?」
南雲は沢本の発言を途中で遮って己の予想を言うと、淡い笑みを浮かべながら箱の蓋をとって箸箱を取り上げた。同じ事柄に対する二人の見解は明らかに違う。
「いいじゃないか、準備命令を出す出さないは南雲の自由なのだから……という問題ではなさそうだな」
「新見の言う通りそういう問題じゃあない。準備命令発動のタイミングと作戦準備そのものが問題なんだよ」
だいたい何だってこの寒い中冷えたビールなんだ。とぶつぶつ文句を言いながら、沢本は合法的に勝手なことをした海軍兵学校の同期生に向かって、不満気な口調で捲し立てるように続けた。
「釈迦に説法だかな南雲。貴様の独断で動かせる陸上部隊は連合艦隊隷下の陸戦隊だけだが、マーシャル駐在の第三と第六特別根拠地隊はあくまで警備部隊であって、灰号作戦をやるには……近場だと夏島の舞鶴第二特別陸戦隊あたりを連れて来る必要がある。そんな勝手なことをすれば作戦本部が黙っちゃいない。第一、陸軍に何と言や良いんだ? 連中だって仏じゃないぞ」
「沢本、一体どこの誰が陸戦隊を使うと言った? エニウェトク環礁に陸軍の海上機動第一旅団がいるじゃないか」
「海上……って、まさか貴様陸軍を……つまり俺を呼んだ理由はそれか?」
「ふう、どうも俺を呼んだ理由もそれのようだな」
目を剥き、表情がより露骨になった沢本と薄笑いを浮かべた新見を交互に見やった南雲は、いったん手に取った箸を静かに置いてから“用件”を喋り始めた。
「こんなことを言うと、また井上(海軍中将、井上成美帝国総合航空本部長)あたりにがやがや言われそうではあるがな。少なくともこの戦争を敗けずに切り抜けるには、連合艦隊が太平洋艦隊の正面からぶつかってこれを撃砕せにゃいかん。例え連合艦隊が再建不能になろうとも、太平洋艦隊にそれ以上の損害を与えれば、欧州戦線をも抱える米国との講和も視界に入る……はっきり言って、俺はそれしか考えてはおらん」
「相変わらず、筋金入りの艦隊決戦主義だな貴様は。まぁ、否定はせんがね」
この時点の帝国海軍において“艦隊決戦”という言葉は、一昔前のように戦艦同士の撃ち合いに限ったものではなく、機動部隊や基地航空隊の叩き合いをも含めたむしろ文字通りの意味を持つ。
南雲のように艦隊決戦で総てが片付くと思っている者にしろ、それだけでは片付かず何か戦略的な一撃が必要だと思っている者にしろ、帝国海軍内に“艦隊決戦は起こらない”と考えている者はいない。
井上率いる“基地航空隊主兵主義者”の面々が、「戦略の要衝の飛行場を確保し続けることが敗北を回避する必要充分条件」と唱えながら、「飛行場を確保し続けるためには来襲する敵性勢力は何であろうと叩き潰す」と言っている以上、その敵性勢力が太平洋艦隊であれば目的は何であろうと、必然的に艦隊決戦は起こり得るのである。
「米国の工業力は途方も無い。我が帝国海軍の『大和』や『蒼龍』に匹敵する艦を次々に造り、真珠湾の復旧工事のみならずパナマ運河の改修工事も着手したらしい……上杉鷹山公が米沢の藩主であられた頃、我が母校を細井平洲先生が興譲館と命名されたのと、米国の独立宣言が発せられたのは同じ年だ。まだ二〇〇年と経っていないにも関わらず、文明という力を手に連中はもはや化物と化している。化物を相手に総力戦を戦うのなら、打てる手は総て打つ。何の問題があるというのだ? だいたいだな沢本……」
「分かっている分かっている。貴様の言いたいことは良ぉく分かっている」
こやつ伏見宮殿下と袂を別ってからえらく饒舌になりおった。などと妙な感想を抱きながら、沢本は大袈裟に両手を出して南雲を止めた。
実戦部隊を統括する南雲にすれば今日一日、海軍省のナンバーツーとして帝国総合作戦本部に詰めていた沢本も共犯に見えるのだろう。
すなわち、「何をどうこねくり回したら晴二号作戦の発動にあれだけ時間がかかるのか? 発動されたとき、粗方戦闘は終わっていたではないか。作戦本部は前線のことを理解しているのか?」ということである。
「とにかくだ。文句は作戦終了後に頼む。灰号作戦に関する根回しは俺の名誉にかけて請け負うから」
総力戦などという代物は、軍人だけいても官僚だけいても制御することなど不可能であり、かといって帝国トップクラスの頭脳を、いや良い成績を持つエリート階級たる彼等が、満面の笑みを浮かべながら肩を組んだらそれはそれで世も末である。
そして軍服を着た者と背広を着た者に二極化されるならまだしも、その中でさらに陸軍と海軍、外務省と大蔵省に内務省、軍需省、農商省等と分かれ、果てにはまたその中でも妙な派閥に分かれ、報道陣等の前では手を握り合って一見鉄壁の協力体制を敷きながら、机の下で予算を取り合い主張の押し付け合い等蹴り合いをしているときている。
そんな連中が一緒になって臨機応変かつ機敏に動けるなら誰も苦労はせんだろう……と、沢本は咄嗟に浮かんだ言い訳を飲み込みながら、一先ずの罪滅ぼしとして、よくよく考えるとまんまと南雲の要求を呑まされていた。
「……確か海機一旅団は独自の揚陸艦を持っていたから、俺は護衛艦艇だけ供出すれば良いのかな?」
「うん、さすがに六艦隊には任せられんよ」
人間誰しも、本心とは相容れないようなことでもやらねばならなくなることがある。稀に見る面倒な仕事だが、総ては御国のためなのだ。
新見と南雲の会話の隣で、そう浅はかなことを口走った己を説得しつつ、沢本は自身の胸に何か塊のようなものがつかえているのを感じた。
南雲の言うことは、わざわざ俺達二人をこんな夜遅く呼び出してまですることなのか? 少なくとも俺が南雲なら、真っ昼間ならともかく使者を遣るぐらいで呼び出しはしない。
「ところで南雲。貴様まだ他に用件があるんじゃないか?」
「あぁ。灰号作戦の完遂後、可及的速やかに紅号作戦を発動出来るよう、色々と手配しておいてもらいたいのだよ」
無造作に即答した南雲を目の前に、今度こそ沢本は金縛りにでもなったかのように固まった。
一方の新見も、固まりさえしなかったが事態を理解するまでに一〇秒程の時間を要していた。
そして新見が一〇秒かけて南雲の言った事を理解してから約二〇秒後、絶句していた沢本はその僅かかつ膨大なブランクを取り戻すかのように、思わず大声を張り上げた。
「……べ、紅号作戦じゃとぉ! 貴様、自分が何言うとるかあかっとうのか!?」
「……落ち着け、沢本。それで南雲、これが貴様の本当の用件だな?」
「一番の用件と言ってくれ」
完全に呆れたという口調で言った新見に、南雲は声色を変えずに仏頂面で答えた。
「いずれやらなゃならんいうことは理解している。だが何故今なんだ!? 太平洋艦隊が復活するタイミングさえ見誤らなければ良いし、危険過ぎる! 感付かれたらどうするんだ!?」
いくらか冷静になったのか標準語に戻った沢本だったが、南雲に対する糾弾口調は逆に勢いを増していた……が。
「一つ聞くが沢本。それは海軍次官沢本頼雄としての意見か? それとも海軍大将沢本頼雄としての意見か?」
つまり何が危険なんだ? と反対に詰問口調になった沢本は思わず口ごもった。
今は総力戦の真っ最中なのだから、政友会だろうと民政党だろうと社会大衆党だろうと、政治家は大人しくしていてくれ。
これは沢本に限った思いではないが、議院内閣制に基づいた内閣不信任決議という伝家の宝刀を握る衆議院の機嫌を、決して損ねるわけにはいかない帝国海軍主導の現政権のある意味切実な願いであり、かつ南雲にはまるで関心の無いことでもある。
一歩間違えれば後に控える決号作戦に、悪影響を及ぼしかねない危険なことであることは分かっている。そして漏れれば国内の各方面から猛烈な避難の嵐を受けることも……だとしても総ては御国のためだ。何が悪い?
そう言われては反論のしようがない。しかし実際問題実現可能性がどれだけあるのか? 第一矢面に立つのは結局俺じゃないか。
「新見、貴様はどうなんだ? 貴様はどう思うんだ?」
反撃の芽を真っ当過ぎる正論で摘まれた沢本は、モヤモヤとした不満とも違う鬱憤を抱え、状況を何とかして打開しようと新見に助け船を求めるという苦肉の策に出た。
「そりゃあ迷惑なんてもんじゃない。灰号作戦だけならまだしも紅号作戦までやるとなったら、うちの輸送計画はまた一から組み直さにゃならん。護衛艦艇もしばらく南雲に預けるとなるとそっちの整備計画も、とにかく諸々組み直しだな。まぁ大井君(海軍大佐、大井篤第六艦隊首席参謀)を取られた以上俺はなすがままだ」
とか何とか言いつつ、新見は沢本の期待を裏切り、苦笑いを浮かべて協力宣言をいとも容易く発した。
貴様本当にそれで良いのか? 確認を求めるような、それでいて翻意を往生際悪く期待しているような微妙な視線を飛ばした沢本に、新見は宥めるような口調で言った。
「とにもかくにも、南雲忠一司令長官最後の作戦になる公算大だからな……出世頭と帝国海軍始まって以来の秀才を失った、我が海兵三六期の最後の大仕事だよ」
そして、新見に返された視線を外した沢本は、憮然とした表情のまま無言でビールを空になったコップに注ぎ、それをためらうこと無く一気にあおった。
息をゆっくり吐き出しながらコップを置いた沢本の顔は結局の所そのままであったが、しばらくの沈黙の後に一言だけつぶやくようにこう言った。
「……保証はしないからな」




