一〇五 最高司令官は大統領
“ほの暗い”という言葉が現す状態は、表現するのは簡単だが説明するのは難しい。
何か色彩で例えようにも、黒でもなければ灰色でもない。明るいと暗いの中間というわけでもなく、僅な光が辺りをぼんやりと浮かび上がらせる情景を見る人によって表現の基準も様々だ。
ただ一つ言えることは、人に不安な気持ちを沸き起こさせるということであろうか。
帝国海軍第二航空艦隊によって“乙”と名付けられた合衆国海軍太平洋艦隊隷下の第五一・一任務群は、そんな赤道に近いため冬の割に短い夜の闇の中を一六ノットの速力で北上していた。
「第一群の現在地、ウォッゼ本島より方位一一〇度、距離三四〇海里です」
第五一・一任務群の旗艦であり、その上級部隊たる第五一任務部隊の旗艦でもある空母「エンタープライズ」の戦闘指揮所に、航海主任参謀ニュートン・シンプソン海軍中佐の抑揚の無い報告が響き、司令部付き航海士の手によって海図に任務群の軌跡が延びる。
「第二群と第三群の現在位置はどうなっている?」
「最新の情報によれば第二群はウォッゼ本島より方位九〇度距離三六〇海里。第三群は同じく方位九〇度距離三二〇海里です」
第五一任務部隊司令官、フランク・J・フレッチャー海軍中将がそう尋ねると、シンプソンは淀みなく即答した。
アーサー・W・ラドフォード海軍少将率いる第五一・二任務群は、現地時間で午後二時過ぎに来襲した帝国海軍航空隊の空襲を受け、多数の敵機撃墜と引き換えにインディペンデンス級軽空母の「ベロー・ウッド」と「カウペンス」が沈没し、エセックス級空母「エセックス」と「ヨークタウン」は魚雷の命中によってそれぞれ缶室に浸水が発生したため着艦不能状態に陥り、二〇機ずつのF6F“ワイルドキャット”を第一群に拠出した後、一〇ノットの速力でハワイ方面へ退却を図っている。
一方、ウィリス・A・リー海軍中将率いる第五一・三任務群は、新鋭のアイオワ級戦艦「アイオワ」と「ニュージャージー」を基幹とする水上砲戦部隊であり、日本艦隊の動き如何によっては隙を衝いてマーシャル諸島に突入し、艦砲射撃によって基地を破壊するという奇策も用意されているが、今のところ機動部隊の前衛の任務を粛々とこなしており、それが変わる様子も無い。
「ところで司令官は明朝、日本海軍の機動部隊はどう出て来るとお考えですか?」
鉛筆を持った航海士が海図台から離れると、第五一任務部隊参謀長のカール・ムーア海軍少将がまず口を開いた。
「まぁ、今日の戦闘から彼等も我々が艦上機のほとんど全てを戦闘機で固めたことには気付いているだろうからな、やたらめったら攻撃を仕掛けてくるとも思えん。それにどうも彼等は華々しい艦隊決戦で全ての勝敗がつくと考えているようだし、現実に実行してきた海軍だ。再建途上の我々を見逃しても、大して後悔はすまい」
ぶっきらぼうにフレッチャーが答えると、航空主任参謀ジョー・ブラニガン海軍中佐が続けて口を開いた。
「日本艦隊が接近した際には、本日マーシャル諸島の基地航空隊相手に実施した戦闘機掃討戦を同じように実施し、制空権の奪取を図るべきではないでしょうか? 敵艦を沈める術を我々は持ちませんし、敵制空権下の艦艇など獲物以外の何者でもありません」
「それは危険だ。制空権云々については同意するが、日本海軍が後方から航空部隊の増援を急派した場合、弾薬や燃料は前線だけに豊富にあるだろうから最悪我々は袋叩きにされる」
「敵機動部隊の指揮官はカクジ・カクタです。今更言うまでもありませんが、彼はタモン・ヤマグチや我が軍におけるハルゼー提督と並ぶ猛将タイプの機動部隊指揮官です。彼の率いる機動部隊なら勢いに任せてマーシャル諸島から飛び出す可能性がありますから、基地航空隊の届かぬ所から戦闘機を送り込むというのはいかがでしょう? もっとも、戦闘機隊が袋叩きに会う可能性は否定出来ませんが」
作戦主任参謀マーシャル・ボーグ海軍中佐と情報主任参謀カート・ヘニング海軍中佐が続けて各々の意見を述べ、ムーアがそれに対する意見を求めようとフレッチャーに視線を投げるが、そのフレッチャーの顔はムーアの意に反して、どこか見ている世界が違うようだった。
「……司令官?」
「ん? あぁすまん。いや、カクタの気持ちになって少し考えていたんだ。もっとも、マーシャル諸島に於ける指揮順位が二位の彼の一存で、機動部隊が動くわけではないがね」
そしてムーアの声に我に帰ったフレッチャーは、左手で頭をかきながら右手に指揮棒を握って海図台の北側正面に立った。
「潜水艦の最新の報告によれば、日本艦隊は我が任務部隊ではなくメジェロ環礁を向いている。距離があるから誤差の可能性も残っているが、まるで我が任務部隊の捕捉撃滅よりもメジェロ到達を目指しているようだ。カクタなら真っ直ぐこちらに向かってくるのが普通なのに、だ」
「……ラバウルの陸軍第五航空軍からの情報にあった、日本海軍の最新鋭艦上戦闘機のサム(烈風)は実戦配備が大幅に遅れているようですから、カクタの手持ちの戦闘機はジーク(零戦)のままである可能性がかなりあります。日中の戦闘からジークはF6Fに対し分が悪いという情報を得たため、マロエラップ環礁に展開しているジョージ(紫電)の支援を受けようとしているのではないでしょうか?」
「ふむ、確かにジョージはF6F相手でも引けを取らないようだからな。だがカクタの性格からすれば、考えづらいことに変わりはあるまい」
「日本艦隊が日没前に一度変針していることもこうなると気になりますな。変針前の彼等の針路は、ほぼ我が任務部隊を指していましたから」
「あるいはカクタの意思と艦隊の動きが異なっている可能性もあります。司令官の仰った通り、マーシャル諸島に於ける日本海軍の最高指揮官はカクタではなくトツカです。軽空母を二隻沈めたとは言え、多量のジュディ(彗星)やジル(天山)を始めとする機体を一時に失ったトツカにすれば、カクタの機動部隊は実に魅力的な増援です」
「ミスター・ブラニガンとミスター・ヘニングの言う通りなら、明朝攻撃隊を出すのはまさに自殺行為だ。第一群のF6Fは定数通り揃っている代わりに第二群が戦列外に去っている。トツカとカクタが完全な防御を選択すれば、数に勝るジークとジョージの大編隊に迎え撃たれ、我がF6Fは総崩れになる」
「つまり諸君は……」
基本的に参謀とは、個人個人の専門分野による見地によって司令官を補佐するものだ。すなわち、彼等は議論における発言権こそ持っているが、最終的な決定権は司令官に集約される。
議論の材料らしきものを提示した後、参謀達がそれぞれ一回ないし二回述べた意見を頭の中でまとめたフレッチャーは、結論を出す前に一度確認を求めるように口を開いた。
「明朝以降我が任務部隊は受け身に徹し、日本海軍が攻撃隊を出した際には全力で迎撃にあたるべきだと言いたいのかね?」
「はい、我々がマーシャル諸島近海に留まる以上、攻勢に出られる条件は限られますが、残念ながらそれを満たすことは叶いそうもありません」
文字通り参謀達のまとめ役であるムーアがそう答えると、フレッチャーは右手の指揮棒を小刻みに揺らしながら海図を凝視していたが、やがて自嘲的な笑みを浮かべて指揮棒を置き、両手を海図台に乗せて体重を預けると結論を語り始めた。
「結局、日本海軍の機動部隊の到着が存外に早かった以上それしかあるまいな。何しろ我々は少なくとも後二日はこの付近にいなければならない。艦上機の補充はもう無いのだから搭乗員共々大事せねばならん」
「そうしますと、第三群は後退させるべきではないでしょうか? 彼等は航空戦力を持ちませんし近接信管付きの対空砲弾も装備していません。もはや虎の子となった戦闘機は、第一群の防空に専念させるべきです」
「ミスター・ブラニガンの言う通り、第三群、特にアイオワ級に被害が及ぶことだけは避けるべきです。最悪の事態が起これば、何やかんやでモンタナ級の追加建造予算が議会を通りかねません。そんなことになれば肝心の空母の建造計画に狂いが生じます。ただでさえ……」
「ミスター・ボーグ。何をどう作るかを決定するのはあくまでもワシントンだ。否定はしないが我々がとやかく言う話ではない」
軍人としてはすべきではない問題発言をたしなめつつも、ムーアは意図的に本来不要な文句を付け加え、鼻から息を大きく吐き出した。
そもそもフレッチャー率いる第五一任務部隊は、好き好んでマーシャル諸島にまでやって来ているわけではなく、言われたから仕方無く来たに過ぎない。
それも軍事的な必要性に迫られたのではなく、乱暴に言えばワシントンの見栄のためにだ。
太平洋戦線でロクな戦果が上げられないばかりか、予想を遥かに上回る被害を被る状況を作り出した……太平洋戦争を半ば強引に始めた合衆国政府にとって、「余計な事をしおって……」という国民の声無き圧力は実に嫌な存在であり、それを改善し太平洋戦争に対する国民の支持率を引き上げるため、と言うならまだしも、実際にはルーズベルト政権に対する支持率を引き上げるためであることは明白であり、大統領に対する絶対服従という合衆国軍人としての義務と、政治家や官僚、一部の高級軍幹部達の勝手な思惑にふりまわされているという、現実との矛盾が生み出す心の奥に渦巻くやるせない気持ちは、すでに前線で戦う者達の共有物となっている。
とは言え、彼等に出来ることはただ黙々と与えられた武器を手に戦うのみだ。
“攻撃目標を日本海軍航空隊の機体及び搭乗員に絞る”真の理由が、太平洋艦隊に着艦能力を持つ艦爆または艦攻乗りがあまりいないだけであろうと、予算の大量投入により予定を大幅に上回るペースで生産されている近接信管付き対空砲弾が、太平洋艦隊には中々回ってこなかろうと、彼等に表立って文句を言う資格は無い。
「では参謀長。今後我々はどう動くべきかな?」
「まず第三群をマーシャル諸島から離すべきです。第一群はその後、なるだけ陸軍航空軍とも協調して動くべきかと」
「するとここは反転南下すべきだろうか。ギルバートの方がウェークより戦力は充実しているからね。何しろ、補給は無いのだ……いや、ハワイにも無いか」
紅海に突き出たシナイ半島への上陸を皮切りに始まったスエズ運河の奪回作戦、そしてその後の連合軍のエジプトやパレスチナ方面への進撃を支援している大西洋艦隊隷下の第三九任務部隊に、人員や装備を優先配備せずしてどうするのだ……と言われればそれまでであるし、戦略的にも今欧州戦線に傾倒するのは妥当である。
さらに合衆国政府やロンドンの自由フランス政府が、舌鋒鋭く批判した英国による対日単独講和が、対日戦目的ではない旨の誓約書を添えて、シンガポールの帝国陸海軍司令部に事前通告さえすれば、インド洋を行く連合軍の輸送船団に帝国陸海軍は一切手を出さないという結果を生み、講和の直前に英国がマーシャル諸島の南に広がるギルバート諸島を合衆国に貸与したことに、日本政府が遺憾の意を表明することしかしなかった以上、合衆国海軍太平洋艦隊の存在感が薄くなるのはある意味必然かもしれない。
要するに、大西洋艦隊の重要度が下がるまで、人員にしろ艦艇にしろ航空機にしろその他諸々の優先順位の低い……真珠湾の復興に予算の多くを割かなくてはならない太平洋艦隊が、太平洋戦線の主役であることなどあり得るはずがないのである。
といった考えがふと頭を過ったのか、いささか自嘲的な声色でフレッチャーは続けた。
「とにかくあと二日、最小の犠牲で最大の戦果を上げねばならん。すでに我々は大きな痛手を受け……」
「第五一・三任務群より報告『J群多数。方位二六〇度、距離九〇海里。針路は第五一・二任務群方面なり』以上です」
そんななか突然飛び込んだ新たな報告に発言を妨害されたフレッチャーは、溜め息を一つつくとやれやれといった口調で新たな命令を発した。
「ふう、悪いがそれは織り込み済みだよ日本海軍。直ちに“バット”を出撃させよ」