一〇三 前線という名の辺境
「敵機接近。五〇三空及び七五一空、密集陣形。二八一空、突撃せよ」
「敵艦隊発見。五〇三空、突撃隊形作れ」
「作戦案『イ』。繰り返す、作戦案『イ』」
「虎泰一番より信繁一番。戦闘終結まで、一〇七攻飛隊は独自に行動せよ」
「……俺は聞いてないぞ、こんな話は」
帝国海軍第五〇三海軍航空隊第一〇七攻撃飛行隊飛行隊長の堀川亮次郎海軍大尉は、自身の愛機である艦上爆撃機“彗星”を駆り、勇んで敵機動部隊“丙”に向けて進撃していたが、攻撃態勢に入る以前から心が折れそうになり、折るまいとしてガスを抜くべく柄にも無い言葉を口にしていた。
無論、それ相応の理由は存在するし彼の性格の問題もある。
第二航空艦隊よりの第一次攻撃隊戦爆雷連合二〇一機の内、零式艦上戦闘機の数は六三機、戦闘爆撃機“天風”の数は三二機であり、攻撃隊先任指揮官でもある五〇三空先任飛行隊長の石田香三郎海軍少佐は、“丙”の手前五〇海里強付近で遭遇した七〇機程の敵の迎撃戦闘機に対し、予定通り第二八一海軍航空隊の零戦でもって迎え撃ち、五〇三空の彗星と艦上攻撃機“天山”の周囲に、第七五一海軍航空隊の天風を張り付かせて何とか凌ぐつもりだった。
だが、その直前に第三〇三海軍航空隊から入った情報通り、合衆国海軍の新鋭艦上戦闘機……グラマンF6F“ヘルキャット”は実に手強い相手であり、同数の零戦で防げるものではとてもなかったのだ。
“シナイ半島上陸作戦”に始まるスエズ運河を巡る戦いで初陣を飾ったF6Fの情報は、前線部隊たる第二航空艦隊にも回ってきており、石田も堀川も新たな報告書が届くたびに熟読し、部下達にも残さず読み込ませていた。
しかし現実は甘くはなく、頭で分かっていてどうにかなるものではない。
F6Fは性能が特段ずば抜けているわけではないが、一度急降下に入られれば零戦の手には負えず、得意の格闘戦に持ち込んでも意外な機動性と零戦と同等の上昇性能を発揮され、さらには頑丈であるために中々火を噴かず、そんなF6Fが零戦の壁を突き抜けるのにそう時間はかからなかった。
二八一空の装備機が艦上戦闘機“烈風”であれば違う展開もあったのであろうが、九月に配備されるはずだったそれは、心臓部たる誉エンジンに起きたトラブルによって、急遽追加生産された基地航空隊向けの零戦の最終量産型である六三型にすげ替えられてしまっている。
新鋭機配備の優先順位の最も高い母艦航空隊ですら、未だに零戦を装備している部隊があることを思えば仕方の無いことかもしれないが、零戦が防げない戦闘機を天風が防げる道理は無い。
機首に四挺の二式二〇ミリ機銃を集中配備した天風は、グラマン社の代名詞と言っても過言ではない頑丈な機体を粉砕出来る攻撃力を持っていても、「山猫となら渡り合える」程度の双発機にしては優れた運動性能、しかも低い位置で迎え撃つ姿勢では、勝ち目などあるはずはそもそも無かったのだが。
「信繁一番より一〇七攻飛隊各機。信繁隊目標、敵空母三番艦。勝頼隊目標、敵空母四番艦。一〇七攻飛隊、突撃せよ!」
とは言え、第一〇七攻撃飛行隊が装備している彗星は、“五三型”と呼ばれる基地航空隊用の最終量産型である。
エンジンを離昇一五〇〇馬力の三菱・金星六三型に換装し、基地航空隊専用機として着艦フックや主翼折り畳み機構等艦上機特有の設備を取っ払って、僅かに軽く力強くなった機体は操縦者の意志に必死に応え、じわじわと密度が小さくなっていく弾幕を四方に張りながら、何とか“丙”まで辿り着いたのだ。
「沼川、現時点で何機生き残っている?!」
「……本機後方に一六機続行中です!」
堀川機の偵察員席に陣取り、一機喰われる毎に悲痛な声で報告を上げていた沼川喜郎海軍飛行兵曹長が、改めて数え直した機数を変わらぬ口調で発した。
「もう一〇機も墜とされたと言うのか……!」
見方によっては空元気ともとれる風に、勇んで命令を発した堀川は沼川の報告を受け、愛機の操縦にかまけて疎かになっていた状況把握を試みたことに頭の隅っこで後悔しながら思わず呻いた。
敵戦闘機の迎撃だけで三分の一以上の機体が、敵の来ない最前線で猛訓練を重ね、ようやく待ち望んだ訪れた実戦の場を迎えた二〇人の搭乗員と共に、早々と広大な太平洋上に散ってしまったのである。
状況は勝頼一番こと大瀧栗太海軍大尉の第二分隊も同じものであろうが、ともかく“丙”の輪形陣に突入した段階で、まだ一六機が生き残っている。
持てる理性を総動員して、実戦の修羅場に怯え今にも音をたてて崩れ去りそうな己の心を支え、必死に楽観的に物事を見ようと心がけながら、堀川は目標である敵空母三番艦……インディペンデンス級の軽空母とみられる敵艦に針路を向けた。
そして堀川がふとバックミラーに視線を移すと、そこにはどういうわけかそれはそれは不気味な笑みを浮かべている彼自身がおり、その自らの表情に嫌悪感を覚えつつ彼は、感情を消すためにまず表情を消そうと思い立ち、束の間その馬鹿げた思い付きに感心し、次の瞬間機体を襲った激しい振動によって強制的に現実へ引き戻された。
「三中隊長機被弾!」
当たり前ではあるが、輪形陣の中に突っ込めば敵艦の対空砲火に晒される。
味方撃ちを避けるために戦闘機こそあまり襲ってこないが、一度急降下に入れば針路修正の効かずその針路が容易に見破れる艦爆にとって、対空砲火は本格的に達が悪い。
黒の海軍第一種軍装が妙に似合った陸軍航空士官学校出身の若手士官が真っ先にその餌食となり、その後連続して三機が僅か三キロかそこらしかない輪形陣の端から中心の間で消え失せる。
雷撃のため海面すれすれの低空に舞い降りた第三二五攻撃飛行隊には、先陣を切ってその大火力でもって対空砲火を制圧すべく天風の先導がついているが、高度三五〇〇メートル付近を飛ぶ彗星隊は丸裸だ。誰かに護られているわけではない。
至近で炸裂した対空砲弾の撒き散らす弾片が機体を叩く嫌な音が耳、続いて頭に響き、機銃弾の曳光がすぐ近くを駆け上っていくなかを突っ切っているせいか、堀川はすぐそこにいるはずの敵空母が遥か彼方先の方にいるような錯覚に陥っていた。
よくよく考えてみれば、対空砲火を高空に撃ち上げながら海上を疾駆する敵艦に、攻撃を仕掛けること事態今回が初めてなのである。もっとも、まるで前を行く亀を追うアキレスのような状態になるなど、飛行隊長にあるまじきことではあるが。
さてそんななか堀川は、左の主翼と敵空母三番艦が重なったことそのもの、すなわち何やかんやで亀に追い付いたことではなく、なぜかそのことに歓喜している自分を発見し、条件反射的にエンジン・スロットルを絞っていた。
そして操縦桿を握る右手の指先が震えないよう左手を添え、意を決してそれを左側に思いっきり倒した。
一際激しくなった対空砲火の中、急降下を始めた愛機を制御して降下角を教本通り六〇度にとると、堀川は空力ブレーキを展開して急降下爆撃の体勢をとった。
急降下のせいで身体が座席から浮き上がり機体の姿勢の維持に難儀するが、堀川は照準環の中にやや小振りな飛行甲板をはっきりと捉えていた。
「現在の高度、三二……三〇……二八……二六……」
もはや状況的にというより立場的に後戻り出来なくなった堀川の左耳に、“五三型”及び母艦航空隊用の最終量産型である“四三型”に至ってようやく装備された“三式機内有線電話”を通じて、高度計を読み上げる沼川の単調な声が念仏のように響く。
沼川にそんな気は毛頭無いのだが、極力感情を圧し殺したその声は得体の知れない圧力となって堀川を襲い、あたかも活火山の火口めがけて突っ込んでいるように感じる視覚と合わせて、彼の精神を蝕んでいく。
「……虚構だ。何もかも」
すると視界の端にギリギリ入り込んでいるバックミラーに、後続する部下の彗星が被弾炎上したことを示す閃光が写った。
高度計を読み上げることに集中している沼川からの報告は無いため、一体誰なのかは分からないが、少なくとも堀川の部下には違いない搭乗員がまた二人靖国へと旅立ったことを認めたその時、彼の中で何かが唐突に崩れた。
果たしてそれが何なのか、なぜ自分が自分自身理解出来ないことを突然口走ったのか、まったくもって何も分からないまま堀川は一人勝手に吹っ切れた。
そんな本人もその存在を知らなかった思考回路にスイッチが切り替わり、それに他の部分が追い付き再起動がかかる以前に、“艦爆乗り”という独立した思考回路は独自の動きを起こしていた。
攻撃を受ける側、つまり艦艇側の防御法はただひたすら対空砲火を撃ち上げながら回避運動をするだけだが、相手が急降下爆撃機の場合は斜め上方から急降下してくる敵機の真下に潜り込むように回頭するのが基本である。
爆撃機から見れば、目標がより真下の方へ移動していくことになり、垂直降下しているわけではないため投下時に水平方向の速度を持つ爆弾を命中させるには、降下角をより深くとって急降下しなければならなくなる。
裏を返せば、降下角を深くとれば照準環の中から敵艦が外れることは無い。
降下角を六〇度よりさらに深くすれば、感覚的には垂直降下に近くなり操縦もより難しくなるが、それさえクリアすれば何の問題も無いということである。
そして今、左舷上方から突っ込む彗星隊に対し取舵を切った敵空母三番艦は、左方向へ急速回頭を開始している。
堀川は迷わず、と言うより迷いを知らないもう一つの思考回路は一瞬ボケた本来のそれを差し置いて、操縦桿を僅かに前へ倒させていた。
空力ブレーキによって機体速度は制御されているが、顔に突き刺さるかのように飛んでくる火箭の群れはまさに彗星のようだ。
「……〇六……〇四!」
「撃ッ!」
高度四〇〇メートル。投網のような対空砲火の中、まさに教本通りの高度まで降下した堀川は、投下レバーを引くなり操縦桿を思いっきり手前に引き付けた。
爆弾倉に収めて来た五〇〇キロ通常爆弾が乾いた音と共に切り離され、昇降舵を跳ね上げた機体は強烈な遠心力で堀川と沼川の身体を締め付けやがて上昇へと転じていく。
空力ブレーキを収納してフルスロットルで離脱にかかる機体は射程内にいる限り、相変わらず対空砲火に晒され続ける。
逃すまじと後ろから火箭に追いかけられ、さらに弾片にも叩かれ不気味な振動が機体を襲う。
左耳に沼川の「命中!」という歓喜の声が響いても、バックミラーに写る顔は先程と違いむしろ恐怖にひきつっている。
「……隊長、敵空母三番艦は大火災に包まれてますよ。いくら米軍でもあれは助けられないでしょうねぇ」
「あ、あぁそうだな。やった、んだな俺達が」
その後対空砲火の射程から逃れ、どういうわけか敵戦闘機の追撃が無い状況下で口を開いて出て来た言葉が、それぞれ別の意味で他人事のようなものであることに気付いた沼川が、大して深く考えることなく諭すように言う。
「隊長、しっかりしてくださいよ。それより二分隊の……」
「勝頼一番より信繁一番。第二分隊攻撃終了。敵四番艦に三発の命中を確認しましたが、二分隊の残存機は確認出来るだけで一〇機ちょっとです」
「の、信繁一番了解。一〇七攻飛隊は直ちに集まれ、これより帰投する」
「信繁一番より虎泰一番。一〇七攻飛隊攻撃終了。敵三番及び四番艦共撃沈確実と判断しますが我が方の被害も甚大です」
しっかりしろ、飛行隊長がこれでどうする!? 堀川は頭を左右に細かく振りながらも己の義務、部下への指示と上官への報告を済ませる。
そうこうする内に三々五々部下の操る彗星が集まってくるが、それは目標たる空母に撃沈確実と思われる被害を与えたとは思えない敗残部隊の様相を呈していた。
そして往路に比べ格段に小さい編隊をバラバラに組み、帰還の徒についた攻撃隊から一通の報告電が飛ばされた。曰く……
「虎泰一番より海津城。我、敵“丙”部隊への攻撃終了。軽空母二撃沈。正規空母、巡洋艦各二、駆逐艦四撃破。我が方の損害甚大なり。再攻撃の要有りと認む。一二五七」