一〇二 “性悪女”の大編隊
「話と違うじゃないか」
敵攻撃隊接近の報を受け、マーシャル諸島マロエラップ環礁から迎撃に飛び立った、第三〇三海軍航空隊先任飛行隊長、呼び出し符合隆元一番こと黒江保彦海軍少佐は、機体をバンクさせながら視線の先で蠢く黒い点の集合を見て一人つぶやいた。
彼が上官から聞いた話によれば、敵機動部隊から発進したのは“戦爆連合”であるはずだった。
しかし、黒い点の中に爆弾を抱えた重たげな敵機がいるようには思えない。遠過ぎて機体の特徴など分かったものではないが、陸軍航空隊時代からエースパイロットとして鳴らした黒江の頭脳は、黒い点全てを“戦闘機”として認識していた。
「隆元一番より宮尾城。敵発見、今より攻撃す。敵機は全て戦闘機なり」
「隆元一番より全機へ。敵さんは全て戦闘機だ。おまけに数も多いし機体性能も未知数だ。心してかかれ!」
黒江はまずマーシャル諸島の司令部に報告を入れ、次いで左耳に掛けられた隊内無線用マイクにそう叫ぶと、意を決してスロットル・レバーを押し込んで愛機である局地戦闘機“紫電二二型”を加速させ、少し躊躇ってから翼下に吊るしていた“三号爆弾”を投棄した。
一般的に、侵攻してくる敵機よりも迎撃する側は、もちろん数の優位を保っていることに越したことは無いが、例え数で劣っていても派手に劣っていなければ、迎撃戦闘はそれなりに成立する。
迎撃側の戦闘機搭乗員は、もちろん味方の援護が出来ることに越したことは無いが、最悪自分の身だけ守っていればそれで良い。
それに対し、侵攻側の戦闘機搭乗員は自分の身はもちろんのこと、爆撃機をも守らなければならず、その空戦機動は制限されてしまう。
早い話、空中戦に於いて自由に動けるか否かは数の優位に並ぶ重要な要素だが、お互いに自由に動けるとなると、勝敗を決めるのは機数の違いであり搭乗員の腕であり機体の性能だ。妙な小細工は通用しない。
第一、戦闘機同士の乱戦の中で時限信管装備の三号爆弾を使おうものなら、それこそ訳が分からなくなる。
近接信管装備の二式空対空奮進弾ならすれ違いざまの一斉射撃……という手が使えるが、生憎そんな高性能な兵器は需要に供給がまったく追い付いておらず、出来る傍からトラックの第一航空艦隊宛の輸送船に積まれるため、マーシャルには奮進弾より手軽に作れて使いづらいクラスター爆弾しかないのだ。
しかし、黒江は状況を悲観してはいない。
三〇三空の出自を辿れば、当時の帝国陸軍第三航空軍隷下の戦闘機部隊であった飛行第四七戦隊に行き着く。
局地戦闘機“雷電”の陸軍仕様機である一式単座戦闘機“鍾馗”を駆り、英国参戦以来マレー、蘭印、ビルマと東南アジアを転戦した後、陸軍航空隊の海軍航空隊編入に伴い飛行第四七戦隊は第三一五海軍航空隊に吸収された。
三一五空所属となった黒江等旧陸軍空中勤務者達はその後、スマトラ島はパレンバンに移動して海軍の戦闘機乗りとして、さらには海軍士官としてのいわゆる“矯正教育”を受け、さらには目視目標の無い海上に於ける航法技術を習得し、果てにはティモール島クパンを拠点としたオーストラリア大陸への空襲作戦にまで参加していた。
そして日英講和後の今年六月初旬。唐突に本土に呼び戻された黒江は、帝国海軍の主力局地戦闘機たる紫電二二型を新たな愛機として与えられ、海軍少佐への昇進と共に旧飛行第四七戦隊出身者を中核に新設された三〇三空を預けられ、遥かマーシャル諸島に派遣されたのだ。
マーシャル諸島への赴任後、黒江率いる三〇三空は、ウェーク島やギルバート諸島から散発的に飛来する米軍機相手に、鍛えられた腕をもって迎撃戦闘を展開し続けた。
ある種感動的な性能を果敢に目指し、成功しかけたところでボロが出て烈風や流星、彩雲といった新鋭艦上機の配備計画に狂いを生じさせた中島飛行機の誉エンジンではなく、特段高性能というわけでは無いが設計が堅実で稼働率が非常に高い城北航空機の春嵐エンジンの改良型を搭載した紫電二二型にも、オクタン価一〇〇のガソリンを入れないと性能が出し切れないという欠点がある。
栄や金星といったエンジンが「ハイオクが使えるならそれに越したことは無い」程度のある意味微妙なものであるのに対し、春嵐は誉と同様「ハイオクじゃなきゃ駄目」というある意味国情無視のエンジンである。
そのくせハイオクガソリンを精製出来る施設には限りがあるため、普段はオクタン価九一のガソリンでエンジンを回しつつ、水エタノール噴射装置で誤魔化しているのだが、今回ばかりは大切に蓄えていたハイオクガソリンを大盤振る舞いして、重量物たる噴射装置は取り外している。
そして、紫電の機体性能自体はいまさら確認するまでもない。
敵機が未知の機体……少なくともF4F“ワイルドキャット”よりは強力であろうと、数が味方より多くても、自分達は持てる力を出し切れる環境にある。
これで敵わないなら、あきらめて靖国に行くまでだ……と、戦闘前の高揚感の中で頭をめまぐるしく回していた黒江の面前には、敵の大編隊が不気味な威圧感を醸し出しながら迫って来ている。
機体形状を細かく観察している暇は無いが、良く言えば逞しく悪く言えば無骨な敵機が黒江の正面で膨れ上がり、その両翼に発射炎が瞬いた時、黒江は操縦桿を左に倒して左フットバーを蹴飛ばしていた。
直径一二,七ミリの六本の火箭の間を縫うように、左側に九〇度横転した機体は次の瞬間、機首を真下に急降下を始めている。
直率する第一小隊の三機の紫電に続いて、初見参の敵機が合計四機追いかけてくる。
藍色に塗られた黒江機の胴体だけに巻かれている二本の黄色の帯を見て指揮官機と見抜いたのか、ただ単に手近の敵機を手っ取り早く片付けようと思ったのかは分からないが、後ろと言うか真上に食い付いた敵機との距離は目に見えて変わる様子が無い。
バックミラーを見ながら冷静に彼我の急降下性能を検証した黒江は、状況を打開すべく操縦桿を左右に振って機体を揺らし次いでそれを目一杯手前に引き付けた。
紫電は零戦程の旋回性能は持たないが、縦方向の機動性は非常に優秀であり、機体は黒江の操縦に素直に従いながら急降下から一転急上昇、さらには宙返りへと移っていく。
激しいGに身体を締め上げられながらも、操縦桿を引き続けた黒江は宙返りの頂点、すなわち頭上に海がきたところで機体を一八〇度捻った。
すると黒江の目の前やや上方に第一小隊第二区隊長の長作史郎海軍中尉の紫電が、目の前やや下方に急降下を続ける敵機が飛び込んで来た。
目の前の紫電が二手に別れたと思ったら突然視界から消えたことに慌てたのか、明らかに回避行動が遅れている敵機に照準を合わせ、黒江は発射把柄をゆっくりと握った。
刹那両翼から噴き延びた直径二〇ミリの四本の火箭は、効率良く長作機が放った火箭と直交して敵機の尾部を襲った。
炸薬の仕込まれた炸裂弾多数の直撃に耐えかねた水平尾翼が吹き飛び、機体を引き起こす術を失った敵機に一瞥をくれた後、他の三機がそれぞれ撃墜されたことを確認した黒江は、機首を再度上向かせて乱戦の巷に針路をとった。
しかし黄色の二本線はどうしても目立つのだろう。
乱戦の巷に飛び込む前に、その巷を抜け出した敵機が二機、真っ正面から迫る。
音速を遥かに上回る相対速度があるため、黒江はむやみに避けるのではなく正面からの機銃戦を挑んだ。
お互いに一瞬の機会を捉えて発射炎をほとばしらせ、一〇本の火箭が大空を切り結ぶが、狙いを定める余裕が無かったためかそれぞれ目標を捉えるに至らない。
そのまま黒江は猛速ですれ違った一機目を無視し、直ちに二機目に照準を合わせて発射把柄を握った。
一機目は逃したが、両翼の二式二〇ミリ航空機銃の弾道特性を正確に把握している以上、同じ過ちは繰り返さない。
重々しい連射音と共に放たれた太い火箭は二機目の操縦席に命中し、敵機は赤く染まったガラスの破片をばらまきながら墜落していく。
すっかり帝国海軍の色に染められた航空部隊において、生き残っている帝国陸軍航空隊の面影と言えば、まさに紫電が装備している、帝国陸軍が開発した二式二〇ミリ機銃だ。
……日露戦争以来、火力重視路線に舵を切った帝国陸軍は、まず日露戦争で最も手を焼いた機関銃の開発に重点を置いてきた。
その成果は列強陸軍の中でもトップクラスの歩兵師団の機関銃装備率となって現れ、その技術蓄積は優秀な航空機銃の国産化を可能とした。
例えば開戦前、帝国海軍は次期主力戦闘機たる零戦に、仮想敵たる米軍の持つ重爆撃機を迎撃するための大口径機銃の搭載を画策し、スイスのエリコン社よりライセンス権を購入した九九式二〇ミリ機銃の量産計画を立てていた。
ところが陸海軍の機種共用化によって零戦の開発に参画した帝国陸軍は、装弾数の少なさや弾道特性の悪さを理由に、自身の開発した九九式一二,七ミリ固定機関砲の搭載を主張し、最終的に陸軍の顔を立てるという理由で、九九式二〇ミリ機銃はいくつかの双発機に搭載されるだけに終わった。
とは言え、一二,七ミリ弾で四発重爆を相手取るのは難儀であることに変わりは無く、海軍の催促やフィリピンに於ける戦訓に半ば背中を押される形で、予定を大幅に繰り上げて採用された。というのが、二式二〇ミリ機銃(固定機関砲)についての大雑把な経緯である。
そして、陸軍航空隊が海軍航空隊に編入されなければ、局地戦闘機“紫電”の陸軍版、二式戦闘機“飛燕”と呼ばれていたであろう黒江の愛機に搭載された“三型”は、一挺あたり一八〇発の重さ一〇五グラムの炸裂弾を、秒速七七〇キロの初速で飛ばす性能をもっており、零戦に二〇ミリ機銃を積まなかったのは正解だったと思わずにはいられない反動を後に残し、“エリコン銃”のそれより優れた弾道特性を発揮しながら敵機を正確に墜としていく。
しかし黒江は、列機を引き連れて乱戦の巷に飛び込んだところで、自分の考えが少し甘かったことを悟った。
彼の見立てではまず速力では紫電が勝っているが、左耳に入ってくる部下達の様々な声によれば、この敵機はその見た目からは想像もつかない機動性をもっているらしい。
自動空戦フラップを装備した紫電の搭乗員がそう言うのだから間違いは……と言う前に、目を見張る程の素早い横転を見せて視界から消えた敵機を目の当たりにした黒江は、気を抜けば確実に墜とされると確信した。
「グラマン社の連中も中々やるな。渾名の通り面倒な相手だ」
軽い焦りを感じながらそうつぶやいた黒江は、バックミラーの上下両端に二機の敵機が、第一小隊の二番機よりも大きく写ったのを認めるなり、空いていた右手で座席脇の自動空戦フラップの作動スイッチを入れて左の急旋回をかけた。
自分でいじるより、特に緊急時には正確な動きをみせるフラップの働きによって、黒江機は二方向から追いかける火箭を避けることに成功したが、その代償として速度が死んでしまったため、手っ取り早く加速するために黒江は再び急降下に移った。
ところが、事態は彼の思いもよらない方向へ突然動き出した。
戦闘が始まって一〇分も経っていないのに、敵機が一斉に戦闘を放棄して離脱を図ったのだ。
離脱のために急降下する敵機もいるが、近付く黒江機のことをどうこうするわけでもなく、やはりそのまま去っていく。
「隆元一番より各機。深追いせず中隊毎に集合せよ」
「隆元一番より宮尾城。敵機反転せり。以後の指示を求む」
敵の意図がまるで読めずに呆気にとられながらも、黒江は反射的に飛行隊長としての職責を果たそうと指示及び報告を飛ばす。
第二航空艦隊唯一の紫電装備部隊の被害が、意外な形でひとまず抑えられたことは良しとしても、何かが胸につかえた感覚を覚えていた黒江は、ふと航空時計を見て一人口を開いた。
「しかし、大変なのはこれからだ。性格の悪い奴があれだけいるんだからな」
航空時計の針は、マーシャル諸島よりも三時間遅れている日本標準時……午前一〇時五七分を指している。
メジェロ、ウォッゼ両環礁から飛び立った第一次攻撃隊が、敵の迎撃に晒され始めるかという時刻であった。