表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

7/7

最終話 教室に突如乱入してきた一人の男がいとも簡単に私の世界を壊していった

やっとラストです。うまくまとまらなかったかもしれませんが、この物語の終わりを温かく見守ってくれたら本望でございます。



「はあ……」

 

 今日も今日とて私は馬鹿の一つ覚えのように空を見上げていた。何があっても変わることのない、無論何もなければ変わることなんて絶対にありえない、唯一このセピア色の世界で色褪せることなく清々しく青々しく憎々しく存在している青空を。


「結局一葉さんの言う通り、私は……ううん、私を含めた家族全員逃げているだけなのかもしれない」


 恰幅の良い担任の立石先生の独善的な社会の授業を聞き流しながら、私はふとそんなことを呟いた。結構大きな声だったので誰かに聞かれたかなと一瞬気になって周りを見回してみたけれど、幸い私の方を気にしている人はいなかった。まあ、たとえ独り言が聞こえていたとしても不良少女である私とむやみやたらに係わり合いを持とうなどと考える人間がそういるとは思えないけど。ちなみに余談というか見回してみて気づいたことだが、後ろの方の席から沢井広枝に向けて消しゴムのカスが何個か投げつけられていた。


「……嫌なら嫌って言えばいいのに」


 それは沢井広枝に向けての言葉であり、そしてやはり自分に向けての言葉でもあった。


 でも、




 ――何故闘わないのですか?




「なーんて、簡単に言ってくれるけどさ、それが一番難しいことなんだよね」


 言うは易く行うは難し。


 さらにその行いに結果を伴わせるのは恐ろしく難しい。


「逃げるよりも闘うこと。それはきっと誰もが納得し、背筋が冷え冷えするくらい正しいことだけど、正しいことを正しく行うことは普通の人間にとってはとっても難しいことなんだよ、一葉さん」


 きっとそんなことを完璧熱血メイドに言ったら今度こそ前髪をパッツンにされてしまうので、決して本人に言うことはないだろうけど、まあつまるところ言えばそういうことなんだと思う。


 正しいことなんてみんなわかっているんだ。


 だってそれは正しいことなんだから。


 それでもみんな正しいことができないのにはそれぞれに理由があって、


 例えば自分が許せなかったり、


 例えば愛を信じられなかったり、


 例えば心を無くしてしまったり、


 例えば希望を持てなかったり、


 だから私たちは正しくない道や方法に逃げ、


 そしてさらにその事実からも目を逸らしていくのだ。


 ▽逃げる。


 ▽逃げる。


 ▽逃げる。


「しかし、都子は逃げ切れなかった」


 そう、誰かに、何かに言われるまで……




「ええと、じゃあ64ページを……沢井、呼んでくれ」


 酒とタバコで嗄れた声で沢井広枝を当てた立石先生はまったく彼女の様子、彼女の身に降りかかっているイジメに気がついていない。大抵のイジメがそうであるように先生にバレるようなイジメなんてそもそもほとんど存在しないのだから、まあそれも仕方がないだろう。子どもというのは実は大人が思っている以上に計算高く狡猾で、そしてこういった汚い人間関係を経験していくことによって立派に薄汚れた大人になっていくのだ。


「はは」


 本当に小さな声だったが誰かの下卑た笑い声が聞こえ、そしてまた一つ誰かが投げた消しゴムのカスが沢井広枝の頭に当たった。


「ん、どうした沢井。四行目からでいいぞ」


 それでも気付かない鈍過ぎる立石先生。もしかしたら先生が気付いてくれると思っていたのか、しばらく黙って座っていた沢井広枝であったけれど、目の前のデブが自分の世界を救ってくれるような紅の豚ではなかったことがわかった彼女は、どこか諦めたような顔をしながらその場で立ち上がった。そして、小さく口を動かして――


























「馬鹿野郎ぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」

























 小さな声が聞きなれない男の怒声に上書きされたかと思ったら、その次の瞬間教室の扉がものすごい音を立てて真っ二つに割れた。


 威風堂々。


 質実剛健。


 獅子奮迅。


 割れた扉の向こう側。授業中の今、本来誰もいるはずのない廊下にそんな言葉がぴったりと当てはまる金色の髪の毛の男――コウキがそこに立っていた。そして彼は私の世界、どうしようもないほどにくだらないこの色褪せたこの世界に、意図も簡単に土足で踏み入ってきた。


「嘘……でしょ」


 他の凡俗とは違うと思っていた。彼はおそらく他の人間が躊躇して手を拱いてしまうことでも、平気でやりのけてしまうとも思っていた。しかし、それでも彼がこの場に現れることなど私にとっては予想外以外の何物でもなかった。もちろん、彼と面識のあった私が予想できなかったのに彼を知らない立石先生を含めた他の人達がこの状況を予想できるわけもなく、教室の中にいる人間は余すことなく突如現れた真正の不良にただただ呆然とするしかなかった。


 いや、


 というか、


 面識云々など本当は関係なく、


 一番予想予測できなかったのは、


「広樹……お兄ちゃん、なんで……」


 やはり彼女なのだろう。


 誰も気づいていなかったが、彼女――沢井広枝がそう呟いたのを私だけは聞いていた。


(やっぱり兄妹だったか)


 しかも、これだけ似ているってことはおそらく双子なのだろう。しかし、『広樹』か。広枝と比べたらまさに双子の兄妹らしい名前だ。まあ、だからこそ彼はそれを隠したくて私には「コウキ」という偽名を使った……あ、違う。そうじゃない。それはきっと違う解釈だ。『隠す』とか、これはそんなに簡単な問題じゃないはずだ。だって彼自身が言っていたじゃないか。




 ――俺は世界で一番アイツが嫌いだ


 ――嫌いなんて生易しいものじゃない


 ――俺はアイツが憎くて憎くてしょうがない


 ――何度アイツのことを殴ってやろうと考えたかはわからないし、幾度もアイツの腕をへし折ってやろうと思ったし、殺そうと決意したことも二回くらいある


 ――俺はアイツの全てが気に食わない


 ――俺はアイツの全てが気に入らない




 溢れ出す憎しみ。


 抑えきれぬ劣等感。


 湧き上がる怒り。


 隠したいのではなく、


 彼は否定したかったのだ。


 兄妹であることを否定したいほどに、


 血が繋がっていることを無くしてしまいたいほどに、


 彼は妹を、


 沢井広枝を嫌っていたのだ。


「でも、それじゃあどうして」


 他人の私に理解できないのだから、その当事者である沢井広枝が驚くのは当然な反応であろう。というか、彼女からしてみれば今のこの状況は本当にありえないはずなのだ。確かにまだこれから彼が何を仕出かすのかはわからない。けれど、この時この場所、つまり彼女が困っているときに兄である広樹が自らの意思でこの場所に現れた。現れてしまった。


 沢井広樹。


 不良である貴方が、


 大嫌いな妹の窮地に現れて、


 いったい何と闘おうというの?






「テメェがいつまでもそんなんだからワリィんだろうが!!」






 教室に乱入した広樹は迷うことなく沢井広枝、自分の妹を怒鳴りつけた。


「ナンだその被害者面は! んな顔をしたら誰かが助けてくれるとでも思ってンのかテメェは!! 昔から俺はお前のそういうところがムカついて、憎くてしょうがネェンだよ!! いい加減気付けよ、ボケェ!!」


 怒鳴り散らしても怒りが収まらない広樹は教卓を力任せに蹴り飛ばし、さらに一人その場で立ち上がっている沢井広枝を猛獣のような目で睨み付けた。


「テメェは加害者なんだよ!! その有り余る才能で誰も彼もを傷付けて、蹂躙してるんだよ!!」


 それは実際に傷付けられたことのある者の切実な声だった。


 優秀な妹を持つ、あまりにも劣等すぎる兄の言葉であった。


 しかし、


「だけどな」


 どんなに憎んでいようと、


 どれほど嫌っていようと、


 それは、


 やはり、


 兄から妹へとかける優しい言葉だった。


「それはお前の所為じゃネェだろ!!」

「――!?」

「お前が優れているのはお前の所為なのか? 俺が劣っているのはお前の所為なのか? ちげぇだろ!! お前が優れているのはお前の努力のおかげであり、俺が劣っているのは俺の所為だ!! それなのに何故お前がいつも申し訳なさそうな顔をしなきゃならねぇんだ!! 人を見下してじゃねぇ!! 勝手に同情するんじゃねぇ!! 俺の責任は俺が背負うものだ!! 自分が優秀だからって勝手に俺の責任まで持ってくんじゃねぇ!! お前は加害者だ!! 間違っても被害者じゃねぇ!! だったら突っ張ねろよ!! 僻んでくる奴がいるのなら、優秀な自分に嫉妬してくる奴がいるなら『それは優秀じゃない貴女たちが悪いんでしょう』って言ってやれよ!! テメェがなるべきは人の心配をしたり、誰かを傷付けたことを悔やむなんていう被害者なんかじゃなく、ただひたすら無垢な加害者であり続けることだってことがどうしてわからネェんだ!!」


 優秀であるが故に自分より劣っている人達を傷付けてしまう。


 優秀であるが故に自分より劣っている人達を不愉快にさせてしまう。


 誰だって自分よりも優秀な人が目の前にいれば羨ましくなるし、


 誰だって自分よりも優秀な人が目の前にいれば妬ましくなる。


 それは当たり前のことだ。


 それは理解できない話じゃない。


 つまり結局のところ、私が悪いのだ。


 加減も知らずただただ優秀であり続け、


 他人を傷付け続けた私が悪いのだ。


 ……


 ……なんて、


 本気でそんなことを思っている人間がいたとしたら、


 それは、


 それは、


 あまりにも屈辱的なことではないか?


 それではその人が今までしてきた努力や苦悩は一体なんだったと言うのだ。


 自分の至らなさまでも他人に掠め取られてしまったらいったい劣等生は何をすれば良いというのだ。


 正しくない。


 それは誰がどう考えても正しくないことだ。


「お前はそこで胸張って立ってりゃいいんだよ!! 誰に嫌われようと誰に恨まれようと誰に憎まれようと関係なく、お前はお前自身のことだけを考えて生きていけ!! 振り向くな、周りを気にするな!! 愚鈍で無能な奴なんて全てぶち殺せ!! 人に嫌われること恨まれること憎まれることを恐れて、安易な道に逃げんじゃネェ!! そんな生き方こそ俺は見ていて不愉快だ!! 次被害者面を見せたら今度こそ俺はお前をぶっ殺すからな!!」

「はい……」

「声がちっせぇんだよ!! もっと腹から出せや!!」

「はい! わかりました!!」


 沢井広枝は涙を流しながらも、教室中に響き渡るような声を出した。彼女の大きな声などこの半年間一度も聞いたことはなかったが、その声は意外に力強く、そしてやはり兄にそっくりだった。


「き、キミはいったい誰なんだ!」


 と、ここでようやく教室への闖入者に声をかけたのは広樹の一番近くで立っていた立石先生だった。本来ならば真っ先に声をかけ、良家のお嬢様やお坊ちゃまたちを守らなければいけなかった人間ではあるが、まあこうも劇的に圧倒的に現れてしまったらそれができなかったのも仕方がないといえば仕方がない。ただ、さすがにいつまでもボーっとしていれば突如現れた不良が何を仕出かすかわからないし、何より有名私立中学が闖入者に対して対応を間違えるどころか何も対応をしなかったとなれば、それはもう大問題である。意を決した立石先生は揺らぎかけていた威厳を何とか取り繕い、いつもより若干低めの重厚感のある声を出しながら広樹の前へと立ち塞がった。


「ここが由緒正しき冷泉学園の校舎だとわかってるのか! ここはキミのような不良が来るような場所じゃない。さっさとここを出て行きなさい!」

「無能の癖に言うことだけは一人前だな」

「なに?」

「お前は今までこの教室で何を見てきた?」

「な、キミは何を言っているんだ」


 せっかく一歩踏み出した立石先生は広樹に凄みを利かされるとすぐさま一歩後退してしまい、逆に広樹の方は二歩自分の足を進め立石先生へと近付いていった。そして毒蛇のように腕を伸ばすと、そのまま先生が着ていた品のないピンク色のポロシャツの襟首をがっしりと掴んだ。


「お前のクラスで一人の生徒がイジメられていた」

「い、イジメ……」

「お前がいう由緒の中にはイジメも入っているのか」


 広樹が現れて以来ずっとしん、となっていた教室だったが、さすがにこの状況にはみんなざわつき始めた。広樹は中学二年生の割には体格が良いが、それでも170センチを少し越えたくらいだった。反対に立石先生は身長は165前後しかないが随分と肥えた体型をしていた。誰が見てもこの二人の間にそこまで圧倒的な差があるようには見えなかったが、しかしあろうことか広樹は持ち上げた。わずかではあるけれど、片手一本で襟首という不安定な部分を持ちながら立石先生の巨体を持ち上げてしまったのだ。


「や、やめ、ろ。は、放しなさい」

「イジメが駄目だということも教えることができない。イジメが起こっていることも把握できない」


 怒りだった。


 普通では不可能な力を行使する広樹の原動力は間違えなく怒りだった。


「う、嘘だろ。私のクラスで、イジメなんて……」


 そこまで口にして立石先生はようやく気づいた。


 一人立って泣いている沢井広枝。


 誰も何も言えないクラスの雰囲気。


 そしてこのタイミングで暴れる広樹。


 彼はこんな状況であっても問い詰められるまで何も気がつかなかった、正真正銘の無能者だった。


「だ、だが!」


 しかし、気が付いたところで結局無能な人間はどこまでいっても無能なのだ。


「多くの、生徒の中から、イジメられている生徒を一人だけ見つけるなんて――」


 全てを言い終える前に広樹は手を離し、間髪入れずに立石先生の顔をぶん殴った。巨体はさっき広樹が蹴り飛ばした教卓にぶつかり、そのまま先生はうめき声を上げながら教室の床へと沈んでいった。


「一人だけじゃネェだろ!! 多くの生徒がイジメをしている事実を見落としている時点で、テメェはどこまでも救いようのないクズなンだよ!! 自覚しろよ、ボケェ!!」


 地面に転がる豚に興味を失った広樹はキッ、と教室全体を睨み付ける。そしてまだまだやるべきことは残っていると言わんばかりに、彼は声を上げた。


「本庄麻美、北原飛鳥、宮崎綾香、須原真理子」


 呼ばれた四人は驚き、そして恐怖した。何故なら彼女たちは桜庭弥生を中心として沢井広枝を弄っていたメンバーだったからだ。


「後藤久美子、水原沙紀、田上沙耶香、井上由香、渡辺美代」


 まさか自分たちまで呼ばれると思っていなかったその五人は、突然のことで顔を一気に引きつらせた。何故なら彼女たちは元々沢井広枝と仲が良かったが、イジメが始まると何も言わずに彼女から離れていった人達だったからだ。


「中野太一、村瀬悟、近藤義彦、加納俊介」


 呼ばれた四人の男子の顔には絶望の色しかなかった。何故なら彼らは特に広枝と直接何があったわけではなかったが、クラスの雰囲気に便乗して率先して彼女を弄っていた人達であったからだ。


「今俺に名前を呼ばれた奴は、何で俺に呼ばれたかわかるか?」

「……」

「おい、本庄」


 声をかけられた本庄麻美は、この日ほど自分の運のなさを絶望したことはなかっただろう。何故自分は一番前の席に座っていたのか。何故目の前にいる不良は会ったこともない私のことを知っているのだろうか。何故私は桜庭弥生と一緒に行動を共していたのだろうか。何故この学校に来てしまったのだろうか。なぜなぜなぜなぜなぜナゼナゼナゼナゼナゼ何故何故何故何故何故何故――


「イジメは良いことか?」

「……いえ」

「そうか。そりゃあそうだよな」


 そう言ってふっ、と笑った。


 たったそれだけ。


 たったそれだけ言葉を交わしただけで広樹は本庄麻美の心を真っ二つに折ってしまった。


「加納俊介」


 本庄麻美が一番前の席だったので安心しきっていたのか、後ろから二列目に座っていた背の低い軽薄そうな男、加納俊介は青天の霹靂に出会ったかのような顔で広樹の顔を見つめていた。


「授業中に消しゴムのカスを投げるのは楽しいか?」

「……」

「おい、そこでしれっと座ってるテメェに聞いてんだよ。さっさと答えろ」

「いえ……つまんないっす」

「あっそう」


 意を決して加納俊介は答えたが、そんなものに全く興味はないという感じで広樹は彼から侮蔑の眼差しを解いた。そして全てが凍り付いてしまったかのような冷たく静かな空間の中で、


「悪いとわかってんならさっさと全員で頭下げろや!!」


 この怒鳴り声で十人を越える女子が泣き出し、


 ほとんどの男子が唇を噛みながら下に俯いてしまった。


「本当に」


 広樹は圧倒的だった。


 世界の全てが彼に平伏し、


 彼の全てが私の世界を崩していった。


 これが、


 これが闘うということか。


 これが逃げないということか。


 簡単なことではない。


 意味があるようにも思えない。


 ただ、とても清々しかった。


 これこそが生きていることなのだと、そう思えることができた。


「あははは」


 教室全体がとてつもなく重苦しい雰囲気の中、私だけは不謹慎なほどに高揚した気分で最後の締めくくりを見ていた。広樹がさっき呼んだ十三人。その中に彼女の名前が無かったのはどう考えたって不自然だったが、それも最後だと思えばひどく自然な流れのような気がした。


「桜庭弥生」


 広樹はその名前を呼びながら教室の中ほどにある彼女の席まで歩いていった。学校でもトップクラスのお嬢様、このクラスのリーダーでもある桜庭弥生の下に不良の男が近付いていっても、もはや周りのみんなは何も言うことができなかった。


「何、私に何か用?」


 しかしこれだけの大惨事とそれを引き起こした張本人を前にして、まだいつもの平静さを保っていた桜庭弥生はさすがだった。あの獰猛な獣のような広樹に睨まれても、彼女は戸惑った気配や恐れた様子を微塵も見せずに、まっすぐと広樹の目を睨み返していた。そして、そんな強気な彼女を目の前にした広樹は、







「いや、お前はどうでもいいわ」






 くるっと踵を返しそのまま教室を出て行こうとした。最高だった。それは私が思い描いていた結末よりも一段も二段も上回る最高の結末だった。あまりにも傑作すぎて私は今まで出したことのないような教室中に響き渡る大音量で桜庭弥生を笑い飛ばしてしまった。その所為で今まで神妙な顔をしていたクラスメイト全員が私の方を振り返ったが、そんなことは私の知ったことじゃなかった。


「く、ふざけないでよ!!」


 私の笑い声とは裏腹に、妹だけではなく兄の眼中にも入らなかった桜庭弥生は今度こそ感情を剥き出しにして、その場から立ち上がって大声を出して怒鳴り散らした。


「沢井広枝といい、貴方といい馬鹿じゃないの! 私が誰だか知ってる? 私はね、あの桜庭グループの――」

「知ってるよ、お前のことも、お前のピアノの実力もな」


 桜庭弥生を一瞥した広樹の顔にはもう怒りは微塵もなかった。あったのは変わらぬ鋭い視線と、侮蔑を含んだ薄ら笑いだった。


「先日のコンクールの審査員の一人がちょっと『家の都合』で知り合いだったんで、お前の演奏の評価を聞かせてもらったよ。どうやらお前はピアノにおいては沢井広枝をライバル視しているようだから、参考程度にその評価を教えておいてやる」






 ――もっと頑張りましょう まる






 それだけ言い残して彼はのらりくらりと歩いて教室を出て行った。


 このときを以ってようやく教室内には笑い、特に失笑が漏れることになった。


 まあ色々驚くべき事体が起きたわけだが、


 結局彼が教室に乱入してから出て行くまで、


 私と視線が合うことはなかった。




 ◇◇◇


 その日の昼休み。教室の中は午前中に乱入してきた金髪の男の話で持ちきりだった。彼はいったい誰だったのか。沢井広枝とはいったいどんな関係なのか。立石先生と弥生さん、なんだかダサかったねなどなど。私は一番後ろの席でチュッパチャプスのグレープ味を舐めながらそれらの話を楽しく聞いていた。すると、


 ダンッ


 ついに痺れを切らした桜庭弥生が思いっきり自分の席を叩いて立ち上がり、そしてつかつかと沢井広枝の下へと歩み寄っていった。いつもなら取り巻きの女子四人もそれに続くのだが、さすがに昨日の今日というか午前の午後のなので彼女に随伴していいものなのかと悩んでいた。しかし、取り巻きがいようといまいと今の彼女にとってそんなことは関係なく、とにかく自分に恥を掻かせた沢井広枝に一言言いたいという感じがひしひしと伝わってきた。


「相変わらず熱心ね、広枝さん」


 『ニーベルンゲンの歌』を読んでいる広枝に敵意を剥き出しにして話しかける桜庭弥生。いつもならこのまま一方的に桜庭弥生が罵詈雑言を吐きかけてそれを沢井広枝がじっと我慢するという構図になるのだが、やはりというか今日はそれが違った。


「弥生さん、邪魔しないで」


 まだ決して顔を上げるわけじゃなかったけれど、広枝は確かにそう言った。


「邪魔? 友達がいないだろうと思ってせっかく話しかけてあげてるのに、貴女はその私を邪魔だというの?」

「そうよ。それにそんな友達のいないだろう人間に喋るよりも、貴女は楽譜の一つでも眺めていた方がいいんじゃないの?」

「な!?」


 広枝にしては辛辣な言葉だった。午前中のこともあってまたクラスの笑い者にされた桜庭弥生の顔は見る見るうちに赤くなっていき、そしてついにキレて彼女に手を上げようとした瞬間、


「弥生さん」


 私がそう声をかけて立ち上がると、教室全体が静まり返った。冷泉学園唯一の不良。喋らずの蒼井。不動の都子。同じく学園トップクラスのお嬢様(自分で言うと怖気が奔るが)が動き出したのだから、まあ周りの人の反応はわからなくもない。わからなくもないけど、やっぱりそれでもわかるわけじゃないので、そんな沈黙はさっさと捨て置き私は争いの渦中へ飄々とした顔で乗り込んでいった。


「な、なんですか都子さん。貴女も何か私に文句でもあるんですか」

「やだなあ。そんなに睨まないでくださいよ。可愛い顔が台無しですよ?」

「だったら貴女も私の邪魔をしないでください」

「私が弥生さんの邪魔? まさか私がそんなことするはずないじゃないですか。ただ、私は親切心で少し貴女の耳に入れておいた方がいい情報があるからこの昼休みを待っていただけですよ?」


 私は自分でも気持ち悪いほどの笑顔を浮かべて彼女に近付いていく。近付いて、そしてわざと彼女の脇をすり抜け擦れ違いざまに小さな声で呟いてあげた。


「貴女のグループ、どうやら粉飾をやってるそうですね」


 ――あそこは、桜庭グループはもう駄目でしょう


 ――今度調査が入ると、私の元にそういう情報が入ってきています


 ――蒼井専務はあそこの株をお持ちだということを聞きましたので、この度は……


 昨日の怪しい会談の一部始終。


 まったく、広樹といい桜庭弥生といい、世界は狭いな。


「これから大変かと思いますけど、弥生さん」


 絶対に逃げないでくださいね。






 近くの窓から空を見上げてみた。まだまだ私の世界はセピア色だけど、空はいつもと変わらず澄んだ青色をしていた。なんだかそれが嬉しくて、なんだかイラついて、それでもなんだかこれから自分の頑張り次第で全てが何とかなりそうな気がしてきた。


「広枝さん」


 茫然自失となった桜庭弥生を押しのけて、私は初めて沢井広枝に話しかけてみた。彼女の方は私みたいな不良に声をかけられるとは思っていなかったみたいで、ひどく驚いていたが、ええいそんなこと私の知ったことか。


 きっと私はまだ大丈夫。


 まだ希望を取り返すことができるはずだ。


 逃げることをやめよう。


 闘うことを始めよう。


 そしてくだらないと言うことを封印しよう。


 そうすればきっと私の世界はまた色付いてくるはずだから。


「私と友達になりましょう」





 教室に突如乱入してきた一人の男がいとも簡単に私の世界を壊していった。


 けれど、


 新しく世界を作り直さなければいけないのはどう考えても私しかいないのだから。


 


終わりです。この話は二部構成で、都子編と広樹編に分かれるという構想だったのですが、作者の力不足で広樹編はお蔵入りになる可能性が高いです(汗)途中色々なことがあって書き切れるか不安でしたが、なんとか終わらせることができてホッとしています。やはり小説は、書ききってなんぼですからね。


次回作は未定ですが、また?兄妹ものを書きたいと思っています。


この稚拙な文、幼稚な物語を最後まで呼んでくださった読者の皆様には感謝しております。


感想等ありましたら、ぜひお願いいたします。


それではまた会えますことを願って……

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ