第56話 湯けむりの街
街道を進み始めてから、しばらく。
森の向こうから白い煙のようなものが見え始めた。
「……火事?」
「違う」
隣を歩くセレーネが即答する。
「分かってるよ。言ってみただけ」
「つまらない」
「辛辣だな」
「朝陽、あれがユノハナなのか?」
少し前を歩いていたシウンが振り返る。
俺はガイドブックを開き、簡単な地図と前方の景色を見比べた。
「たぶん。ほら、山の麓に街があるだろ」
「ああ」
「あの白いのは湯気だと思う」
「随分な量だな」
「温泉街だからな」
近づくにつれて、街の姿がはっきりしてくる。
山あいに寄り添うように建物が並び、そのあちこちから白い湯気が立ち上っていた。
瓦屋根。
木造の建物。
道沿いに並ぶ提灯。
遠くからでも見える大きな暖簾。
「……すげえな」
思わず声が漏れた。
異世界に来てから半年。
色んな街を見てきた。
バルカンの街並みにも慣れたし、王都ルイの大きさには圧倒された。
けど、これはまた別だ。
懐かしい。
日本そのものではない。
よく見れば建物の造りも違うし、道を歩いているのは耳や尻尾を生やした獣人たちだ。
それでも、温泉街という言葉から想像する景色にあまりにも近かった。
「朝陽」
「ん?」
「嬉しそう」
「……まあな」
セレーネに言われて、自分でも気づいた。
「なんか懐かしいんだよ。こういう感じ」
「来たことがあるのか?」
シウンが聞く。
「ここにはないよ。俺がいたところに、こういう街があったんだ」
「故郷か」
「まあ、そんな感じ」
シウンはもう一度ユノハナを見る。
「なら、朝陽が案内できるのか?」
「無理に決まってんだろ。初めて来たんだから」
「似たような場所を知っているのだろう?」
「似てるだけだって」
「使えないな」
「出会って数時間の人にそこまで言われる?」
シウンが小さく笑った。
どうやら少しずつ遠慮がなくなってきているらしい。
悪い気はしなかった。
◇
ユノハナへ足を踏み入れて、最初に感じたのは匂いだった。
温泉独特の匂い。
それに、醤油みたいな香ばしい匂いと甘い匂い。
道の端には細い水路があり、湯気を立てた湯が流れている。
中心へ続く《湯けむり通り》には旅館や土産物屋、茶屋が並び、浴衣姿の観光客まで歩いていた。
人族もいる。
けど、やっぱり獣人の方が圧倒的に多い。
犬みたいな耳をした親子。
狐のような尻尾を揺らしながら土産物を選ぶ女の人。
大きな角を生やした男が、店先で酒を飲んでいる。
その間を浴衣姿の観光客が行き交っていた。
「うわ……」
思っていた以上に温泉街だ。
「朝陽」
「ん?」
「あれは何だ?」
シウンが指した先に、小さな店があった。
店先で何かを串に刺して焼いている。
「食べ物じゃない?」
「それは見れば分かる」
「じゃあ聞くなよ」
「何を焼いているのかと聞いている」
「最初からそう言えよ!」
「察しが悪いな」
「なんで俺が悪いんだよ」
近づいてみると、串に刺さっていたのは魚だった。
甘辛そうなタレが塗られ、炭火の上でじゅうじゅうと音を立てている。
「美味そう」
「買うのか?」
「せっかくだしな」
俺が財布を出す。
するとシウンも横から覗き込んだ。
「わたしも食べよう」
「おう」
「わたしも」
「セレーネも?」
「駄目?」
「いや、珍しいなと思って」
「朝陽だけ食べるのはずるい」
「食い意地張ってきたな、お前」
「張ってない」
結局、三本買った。
焼きたての串を受け取って、一口。
「熱っ」
思った以上に熱かった。
でも美味い。
表面は香ばしく、中はふっくらしている。
甘辛いタレも日本で食べたことがあるような味だった。
「美味いな」
「うん」
セレーネも小さく頷く。
シウンは――。
「…………」
黙っている。
「どうした?」
「美味い」
「だろ?」
「もう一本食べよう」
「早くない?」
「問題でもあるのか?」
「ないけど」
シウンは本当にもう一本買った。
さっきまでの堂々とした雰囲気はそのままなのに、焼ける魚を待つ目だけが妙に真剣だ。
「……シウンって結構食べる?」
「普通だ」
「その普通、信用していい?」
「失礼な男だな」
そんなことを話しながら歩いていると、今度は甘い匂いが漂ってきた。
シウンの足が止まる。
「…………」
「今度は何?」
「あれは?」
視線の先には団子。
「団子だな」
「知っている」
「じゃあなんで聞いた」
「あれは美味いのか?」
「食べたいだけじゃねえか」
「せっかく来たのだ。土地のものを知るのも旅であろう?」
「急にもっともらしいこと言い出したぞ」
「朝陽」
「ん?」
「わたしも食べる」
「お前もかよ!」
◇
結局。
焼き魚を食べて。
団子を食べて。
温泉饅頭らしきものを見つけてまた買って。
気づけば、俺たちは完全に観光客になっていた。
「……目的地に着いて一時間も経ってないのに、食ってばっかりだな」
「旅とはそういうものなのだろう?」
「絶対さっき覚えただろ、その理屈」
「何のことだ?」
しれっとした顔で団子を食べるシウン。
セレーネも隣で甘味を食べている。
「お前ら仲良くなるの早くない?」
二人が同時に俺を見る。
「何?」
「何だ?」
「……なんでもないです」
女二人に挟まれて食べ歩きをする。
文字にすると妙に華やかな感じがするけど、実際の俺は二人が気になった店で財布を出しているだけだ。
「待て」
俺は足を止めた。
「なんで全部俺が払ってるんだ?」
セレーネが目を逸らす。
「おい」
「…………」
「セレーネさん?」
シウンは堂々と答えた。
「わたしはこの辺りの金を持っていない」
「堂々と言うことじゃないだろ!」
「必要なら後で返そう」
「いや、別にいいけどさ……」
「なら問題ないな」
「強い」
この人、強い。
色んな意味で。
そのまま湯けむり通りを歩いていると、道の脇に湯気の立つ小さな池のようなものが見えた。
何人かが縁に座り、足だけを湯につけている。
「足湯か」
「足だけ入るのか?」
「そう。服着たまま入れるし、歩き疲れた時とか気持ちいいぞ」
「ほう」
シウンが興味深そうに眺める。
「入る?」
「ああ」
「即答だな」
三人で空いている場所に腰を下ろした。
靴を脱ぎ、足を湯へ入れる。
「あっつ……」
最初だけ熱い。
でも慣れてくると気持ちいい。
「はぁ……」
自然と息が漏れた。
ここ数日ずっと歩き通しだった足から、疲れが溶けていく。
隣を見る。
セレーネは目を閉じていた。
そのさらに隣。
「…………」
シウンが自分の足元をじっと見ている。
「どう?」
「悪くない」
「その顔で?」
「どんな顔だ?」
「めっちゃ気持ちよさそう」
「そう見えるのか?」
「見える」
シウンは少し考えたあと、湯の中で足を伸ばした。
「なら、気持ちいいのだろうな」
「自分の感想だろ、それ」
「こういう入り方は初めてなのだ。少し面白い」
湯気の向こうで、シウンが街を見る。
人が歩き、店から声が飛び、子供たちが土産物を持って走っていく。
その横顔は、街道で男を片手で持ち上げた女と同じには見えなかった。
「外には色々あるのだな」
ぽつりとシウンが言った。
「そりゃまあ」
「知っているつもりだったが、実際に見るのとは違う」
その声は少しだけ楽しそうだった。
「シウンって、あんまり旅したことないの?」
「ああ」
「やっぱり」
「何だ。その『やっぱり』は」
「いや、なんとなく」
さすがに「悪質な勧誘に引っかかってたから」とは言わないでおいた。
「だが、悪くないな」
シウンが街を眺める。
「知らない土地へ行き、知らないものを食べて、知らないものを見る」
「旅、気に入った?」
「まだ分からん」
そう言いながら。
口元は少し笑っていた。
◇
日が傾き始める頃。
俺たちは今夜の宿を探すことにした。
「ガイドブックだと……ここかな」
開いたページに載っている名前を確認する。
《月見屋》。
ユノハナでも古くから続いている旅館らしい。
湯けむり通りから少し外れた場所にあり、木造の大きな建物の前には立派な暖簾が掛かっていた。
「うわあ……」
思わず見上げる。
「高そう」
「朝陽」
「なんだよ」
「顔に出てる」
「だって高そうじゃん」
「入らないの?」
「入るけどさ」
ここまで来て安宿を探すのも違う。
せっかくの温泉街だ。
一泊くらい贅沢してもいいだろう。
そう自分に言い聞かせて暖簾をくぐる。
「いらっしゃいませ」
中へ入ると、すぐに獣人の仲居が頭を下げた。
磨かれた木の床。
畳の匂い。
奥には小さな庭まで見える。
「…………」
懐かしい。
日本にいた頃、家族旅行で一度だけ泊まった温泉旅館を思い出した。
「朝陽」
「ん?」
「また嬉しそう」
セレーネが言う。
「そう?」
「うん」
「……まあ、ちょっとな」
横を見ると、シウンが玄関から中を見回していた。
「宿とは、どこもこのようなものなのか?」
「いや。ここはかなりちゃんとしてる方だと思う」
「そうか」
仲居が俺たちのところへやってくる。
「三名様でございますね?」
「あ、はい」
「お泊まりでしょうか?」
「お願いします」
仲居が笑顔で頭を下げる。
「かしこまりました。お部屋をご用意いたします」
手続きの間、シウンは周囲を眺めていた。
飾られた花。
庭。
畳。
行き交う仲居。
何か一つに大げさに驚くわけじゃない。
ただ、見るもの一つ一つを確かめるように目で追っている。
「気になる?」
「宿に泊まるだけで、ここまでするものなのだな」
「観光地だからじゃない? 泊まること自体を楽しむっていうか」
「なるほど」
シウンが頷く。
「面白いな」
その一言が、妙に素直だった。
◇
案内された部屋へ入る。
「……おお」
畳敷きの和室。
低い机。
窓の向こうには山が見え、その下にユノハナの街並みが広がっている。
湯気の向こうへ沈みかけた夕日が差し込み、街全体が橙色に染まっていた。
「すげえ」
窓際まで歩く。
昼間とはまるで違う景色だった。
「二人とも、見てみろよ」
セレーネが隣へ来る。
シウンもその横へ並んだ。
三人でしばらく外を見る。
「綺麗」
セレーネが呟く。
「ああ」
シウンも頷いた。
遠くで鳥が飛んでいる。
通りでは少しずつ提灯に明かりが灯り始めていた。
「朝陽」
「ん?」
「ここへ来て正解だったな」
シウンが言う。
「だろ?」
「ああ」
その顔には、もう街道で見せた警戒もなかった。
出会ってから、まだ半日も経っていない。
名前を知ったのだって、ほんの数時間前だ。
なのに三人で同じ部屋から夕日を眺めている。
旅っていうのは、本当に変なものだと思う。
「よし」
俺は立ち上がった。
「せっかく温泉街まで来たんだ」
「うん」
「飯食って、温泉入って、今日は思いっきり休もう」
セレーネが頷く。
シウンも立ち上がった。
「異論はない」
「じゃあ決まり」
「朝陽」
「ん?」
「夕食には、先ほどの団子も出るのか?」
「出ねえよ」
「そうか」
明らかに残念そうな顔をする。
「そんなに気に入ったなら明日また食えばいいだろ」
「……それもそうだな」
一瞬で機嫌が直った。
俺は思わず笑う。
「シウンって、思ったより分かりやすいな」
「何がだ?」
「なんでもない」
「妙な男だな」
湯けむりの向こうで、夕日が山へ沈んでいく。
こうして三人になって最初の夜が、ユノハナで始まった。




