第26話 少しずつ
勇者が召喚されたらしい。
そんな噂を聞いてから数日が経った。
王都ではまだその話をしている人も多かったけれど、俺の生活には特に何の変化もなかった。
勇者が何人いるのか。どこから来たのか。どれくらい強いのか。
聞こえてくる話は日によって違う。
王城でとんでもない魔法を使ったとか、すでに国王から特別な武器を与えられたとか、近いうちに国中へ姿を見せるとか。
最初は少し面白がって聞いていたけど、誰が本当のことを言っているのか分からないので、すぐに飽きた。
そもそも俺には関係がない。
勇者には勇者の生活があって、冒険者には冒険者の生活がある。
今日の俺にとって重要なのは、王城にいるらしい勇者より、目の前にいるこいつだった。
「うわっ!」
突っ込んできたアーマーボアを横へ避ける。
大きい。
ハウンドウルフとは比べものにならない。
全身を覆う硬そうな皮膚もそうだけど、何より突進の勢いが怖い。まともに受ければ、大剣ごと吹き飛ばされそうだった。
「正面から受けんな!」
「見れば分かる!」
「だったら余裕持って避けろ!」
「それができたら苦労しないだろ!」
ガイウスに怒鳴り返しながら、大剣を構え直す。
アーマーボアが向きを変える。
速さだけなら蒼牙狼の方が上だった。
ただし、こいつは止まらない。
地面を蹴る。
また突進。
今度はさっきより早く動いた。
ぎりぎりまで待たない。相手が走り出した時点で横へ動き、進路から外れる。
そのまま追いかける――のはやめた。
どうせすぐに振り返る。
だったら待つ。
「少しは頭使うようになったじゃねえか!」
「今まで使ってなかったみたいに言うな!」
案の定、アーマーボアがこちらへ向き直った。
次も俺を狙っている。
でも今度は、俺も準備できている。
大剣から片手を離す。
「《ファイアボール》!」
火球を飛ばした。
当てるつもりはない。
アーマーボアの少し右側。
地面へ着弾した火球を避けるように、相手が進路を左へ変える。
そこには《ブレイヴ》がいる。
「今!」
横から攻撃が入った。
アーマーボアの身体が揺れる。
倒れない。
硬い。
でも体勢は崩れた。
「朝陽!」
「分かってる!」
大剣を両手で握る。
走る。
狙うのは頭じゃない。
脚。
振り下ろした刃が食い込む。
手に重い感触が返ってきた。
「っ……!」
深くは入らない。
それでも十分だった。
アーマーボアの動きが鈍る。
そこへガイウスが踏み込んだ。
俺とは違う。
同じ大剣なのに、一撃の重さがまるで違う。
振り抜かれた刃を受けて、巨体が地面へ倒れ込んだ。
しばらく待つ。
動かない。
「……終わった?」
「まだ近づくな」
「はい」
前なら、倒れた瞬間に気を抜いていたかもしれない。
でも今は待つ。
ガイウスが確認してから、ようやく大剣を下ろした。
「ふう……」
息を吐く。
疲れた。
でも、怖くて何もできなかったわけじゃない。
蒼牙狼と戦った時みたいな、よく分からない動きも出なかった。
普通に見て、考えて、動いた。
その結果として倒せた。
そっちの方が、なんとなく嬉しかった。
「どうだった?」
ガイウスに聞く。
「何が」
「今の」
「普通」
「もうちょっと何かあるだろ」
「じゃあまあまあ」
「下がったじゃん」
「褒めてほしいなら最初からそう言え」
「別に褒めてほしいわけじゃないけど……」
「なら普通だ」
「腹立つなあ」
笑い声が聞こえた。
最近、《ブレイヴ》の連中にもよく笑われる。
最初は完全にガイウスのおまけみたいな扱いだったけど、今は普通に仕事仲間として混ざれるようになってきた。
昨日より今日。
今日より明日。
たぶん、こういうことなんだと思う。
◇
討伐を終えて王都へ戻ったのは、日が傾き始めた頃だった。
依頼の完了報告を済ませ、報酬を受け取る。
カードに表示された金額を見るのも、もう珍しくない。
最初は何も知らなかった。
ルクスの価値も分からない。
冒険者が何をするのかも知らない。
魔法の使い方も知らない。
魔物を見たことすらなかった。
それが今では、自分で依頼を選んで、必要な物を準備して、魔物と戦って、報酬を受け取っている。
「慣れたなあ……」
思わず呟いた。
「何が?」
受付の人に聞かれた。
「あ、いや。最初ここに来た時、何にも知らなかったなって」
「そうでしたね」
「結構迷惑かけた?」
「それはもう」
「そんなに?」
冗談っぽく返されて、少し笑う。
最初にこのギルドへ来た時のことを思い出す。
冒険者登録。
カード。
ランク。
依頼。
一つ説明されるたびに質問していた。
あの頃の俺が今の自分を見ても、たぶん同じ人間だとは思わないだろう。
「Dランクにもなったしな」
カードを見る。
そこにある文字はD。
二か月ほどでここまで来たのは早いらしい。
でも、別に俺がすごく強くなったわけじゃない。
今日だってガイウスたちがいたから安全に戦えた。
一人なら受けない依頼も多い。
それでいい。
今はまだ。
「朝陽!」
後ろから声が飛んできた。
振り返るとガイウスが酒場の方から手を上げている。
「飯行くぞ!」
「行く!」
カードをしまい、そちらへ向かう。
今日は何を食おう。
そんなことを考えながら歩いている自分に、少しだけ笑った。
この世界へ来たばかりの頃は、明日どうするかすら分からなかったのに。
◇
日々は思っていたより早く過ぎていった。
依頼へ出る。
戻る。
大剣を練習する。
魔法を練習する。
暇があれば王立図書館へ行く。
たまに何もしない日も作った。
朝から市場を歩いたり、見たことのない商品を眺めたり、食べたことのないものを買ってみたり。
失敗もした。
値段を見間違えて思ったより高い物を買ったこともあるし、頼んだ料理が想像していたものと全然違ったこともある。
依頼先で雨に降られて、泥だらけで王都へ戻った日もあった。
ガイウスに大剣の使い方を怒鳴られ、その日の夜に一人で練習して筋肉痛になったこともある。
魔法の練習で服を焦がした時は、本気でへこんだ。
日本から持ってきた物は、もう簡単には代わりが手に入らない。
充電が切れて使えなくなったスマホも。
そのスマホを充電するための充電器も。
学生証も。
財布の中に残った日本の金も。
今のムンドゥスでは役に立たない。
それでも捨てる気にはなれなかった。
スマホだって壊れたわけじゃない。
充電さえできれば、また電源が入るはずだ。
いつか充電する方法が見つかるかもしれない。
そんな期待がまったくないわけでもないけど、それ以上に、俺にとっては日本から持ってきた数少ない物の一つだった。
だから大切にしまっている。
その一方で、こっちの物は増えていった。
冒険者として使う装備。
着替え。
日用品。
この世界で買った物。
気づけば荷物の中は、日本から持ってきた物より、この世界で手に入れた物の方がずっと多くなっていた。
それに気づいた時は、少しだけ変な気分になった。
嫌ではない。
寂しくないわけでもない。
ただ、本当にここで生活しているんだなと思った。
◇
王立図書館へ通う理由も、最初とは少し変わっていた。
最初は魔法を知りたかった。
七属性。
魔法の仕組み。
どんな魔法があるのか。
どうすれば上手く使えるのか。
そういう本ばかり読んでいた。
でも、この世界で暮らしていると、それ以外にも分からないことが増えてくる。
依頼で知らない土地の名前を見る。
酒場で知らない国の話を聞く。
市場には見たこともない地域の商品が並んでいる。
冒険者同士の会話に、知らない歴史上の人物が出てくる。
そうすると、気になる。
ある日、魔法の本を棚へ戻したあと、俺はそのまま別の棚の前で足を止めた。
歴史。
以前にも、この世界について知るために簡単なものは読んでいる。
でも、あの頃は書かれていることの半分も実感できなかった。
国の名前を読んでも場所が分からない。
王都と書かれていても規模が想像できない。
魔物と書かれていても、実際に見たことがない。
今なら少し違う。
一冊手に取ってみる。
適当な場所を開いた。
前より読める。
文字が、という意味じゃない。
書いてあることが頭の中で形になる。
街道。
冒険者。
魔物。
国。
宗教。
自分が実際に見たものと結びつく。
「面白いな」
気づけば、そのまま椅子へ座っていた。
魔法とは違う面白さがある。
この世界がどういう場所なのか。
どうして今の形になったのか。
誰が国を作ったのか。
昔は何があったのか。
日本にいた頃、歴史の授業が特別好きだったわけじゃない。
テスト前に年号を覚えるのなんて面倒だった。
でも今は違う。
自分がその世界の中にいる。
外へ出れば、読んだ場所へ実際に行ける。
それだけで本の中の話が急に近く感じた。
しばらく読み進めてから、本を閉じる。
「……そういえば」
ふと、思い出した。
俺が最初にいた場所。
あの遺跡。
今まで忘れていたわけじゃない。
むしろ、何度も考えた。
でも王都へ来てからは、生きることを覚えるので精一杯だった。
冒険者になって。
金を稼いで。
魔法を覚えて。
大剣を教わって。
毎日が忙しくて。
いつの間にか、考える時間が減っていた。
俺は、どうしてあそこにいたんだろう。
そもそも。
あそこは何だったんだろう。
少し気になった。
でも、すぐに本を閉じることはしなかった。
今から飛び出して調べに行こうとも思わない。
場所だって遠い。
あの頃とは違って、今は生活もある。
受けている依頼もある。
ガイウスとの約束もある。
だから、その日はただ頭の隅に残した。
次に図書館へ来たら、少し調べてみよう。
それくらいだった。
◇
「最近、お前また図書館ばっか行ってんな」
数日後。
ガイウスと飯を食いながら、そんなことを言われた。
「またって何だよ。前から行ってるだろ」
「最近は長え」
「そう?」
「この前なんか朝から夕方までいただろ」
「よく知ってるな」
「依頼誘おうと思って探したんだよ」
「言ってくれれば行ったのに」
「図書館から引きずり出すほどの依頼でもなかったからな」
「で、何してた?」
「普通に終わった」
「ならいいじゃん」
肉を一口食べる。
「最近は魔法だけじゃなくて、歴史とかも読んでる」
「歴史?」
「うん」
「また何で」
「何となく」
本当に、最初は何となくだった。
「この世界のこと、俺ほとんど知らないからさ」
「まあ、そうだな」
「冒険者やってると知らない場所の名前とかいっぱい出てくるし。せっかくなら知っとこうかなって」
「悪いことじゃねえな」
「ガイウスは詳しい?」
「何に」
「歴史」
「俺に聞くな」
「だと思った」
「殴るぞ」
笑いながら避ける。
こうして話していると、少し前まで命の危険がある仕事をしていたことを忘れそうになる。
それくらい、この生活に慣れてきた。
「そういや」
ガイウスが肉を切りながら言った。
「お前、どこ出身なんだ?」
手が止まった。
「何だよ」
「いや」
どこ出身。
答えようと思えば、日本。
でも、この世界に日本なんてない。
「遠いところ」
「雑だな」
「本当に遠いんだよ」
「バルカンの外か?」
「もっと遠い」
「どこだよ」
「説明しても分かんないと思う」
「何だそりゃ」
ガイウスは笑った。
俺も笑う。
それで会話は終わった。
ガイウスは深く聞いてこなかった。
でも、その日の夜。
宿へ戻ってから。
俺は久しぶりに、しまっていた学生証を取り出した。
そこには日本にいた頃の俺がいる。
制服を着て。
少し緊張した顔で。
カメラを見ている。
「真白、朝陽……」
自分の名前。
当たり前だ。
俺は真白朝陽。
十七歳。
日本で高校生をしていた。
それは変わらない。
ただ。
じゃあ、どうして俺はこの世界にいるんだろう。
なぜ、あの遺跡だったんだろう。
勇者みたいに誰かに召喚されたわけでもない。
少なくとも、俺はそんな話を聞いていない。
気づいたら一人でいた。
あの暗い遺跡に。
答えは出ない。
今までだって、何度考えても分からなかった。
でも、前とは違うことが一つだけある。
あの頃の俺には、調べる方法すらなかった。
今は。
王立図書館がある。
この世界の文字も読める。
多少なら歴史も分かる。
冒険者として金もある。
一人で王都の外へ出ることだってできる。
「……調べてみるか」
帰る方法を探すためにも。
自分がここへ来た理由を知るためにも。
まずは。
あの遺跡が何なのかくらい。
知っておいてもいい気がした。




