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第四十三話 最終話

「氷雪様」


 蝶子が呼んだとき、氷雪は門扉を開いたところだった。

 ふわりと、風に乗って花の香りが鼻孔を掠める。白い花弁が、ひらりと何枚か飛び出してきた。その香りは、氷雪と同じ匂いだった。


「蝶子、どうして。寝ていたのでは」


 目をぱちくりさせている氷雪に構わず、蝶子は駆けつけた。


「氷雪様、お加減はいかがですか」

「大丈夫だ」


 蝶子は氷雪の体を凝視した。その姿を見てからホッと胸を撫で下ろす。そこで、ようやく氷雪が入ろうとしていた門の向こうに、目をやった。その光景に驚く。一面に花畑が広がっていた。


 真っ白な花弁が何層も開き、おしべはうっすらと黄色かかり、花を包むように緑の葉が囲う、白牡丹。


「なぜここに、こんなにも白牡丹が?」


 蝶子はぽかんっと口を開いて見入った。

 ずっと、ここはお屋敷の宝物庫だと勘違いしていた。まさかこんな立派な門の先に、白牡丹が咲き誇っているなど、思いもしなかった。

 氷雪はチラリと蝶子を見て、花畑に足を踏み入れる。


「この花は、蝶子がくれた、白牡丹だ」


 優しく、撫でるように氷雪は白牡丹の花に触れていった。花は嬉しそうに揺れる。氷雪の銀髪が朝日に透けて、蝶子は眩しさに目を細めた。


(わたしがあげた、白牡丹?)


 氷雪に白牡丹をあげたのは六歳のころだと聞いた。十年も前のことだ。その花がここにあること自体、可笑しい。それにあげたのは摘み取った白牡丹一本だ。こんなにも沢山の花ではなかった。

 蝶子が考えあぐねていると


「幼い頃、蝶子がくれた白牡丹を、神力を使って種にして、ここまで育てた。枯らしたくなかったんだ」


 と氷雪は、ぼそりと言った。蝶子は驚き、じっと見つめる。氷雪の頬が微かに赤く染まり、そっぽを向いてしまった。

 蝶子の体が、ぽかぽかと温かさが広がった。


(気まぐれであげた、白牡丹を) 


 蝶子は一面の花畑を見回した。花のひとつひとつが生き生きとしている。大事に育てられたのを物語っていた。

 蝶子も花畑に足を踏み入れた。真っ白い花に囲まれる氷雪に近づく。目の前に立ち、顔をあげた。


「白牡丹、とても綺麗です。まるで、氷雪様みたいです」


 氷雪は、ぴくりと指先を弾ませ、ぎゅっと握った。


「俺は……こんな綺麗な存在じゃない。心の中は真っ黒だ」


 蝶子は首を振った。蝶子は懐から、宝物の栞を出した。


「氷雪様。この栞の白牡丹の花弁は──わたしが悪霊になった両親に殺されそうになったときのものです。この白牡丹を贈ってくださったのは氷雪様ですね」


 氷雪は無言だった。確信した。やはり、氷雪だったのだ。

 蝶子は栞を胸に抱いた。


「打ちのめされていたときに、くださった白牡丹。わたしは、これがあったから、ここまで生きていられたのです。すべてを諦めていても、白牡丹の純真に、いつも救われてきました。それに、ここに来てから、わたしの止まっていた時間が、動き出した気がします。氷雪様の優しさに触れて、真っ白なお心に触れて、だから、氷雪様は白牡丹の様な、お方なのです。高潔で、微かに甘く、温情のある方です」

「恥ずかしげもなくよく言える。純真無垢なのは、蝶子の方だろうが」

「ふふ。いいえ」


 氷雪は眩しそうに蝶子をチラリと見てから、俯いた。


「俺は、大蛇だ。人も殺めた。蝶子が怯えるような存在だ」


 蝶子はツキンと胸を痛めた。大蛇の姿を恐れていた。それを酷く恥じた。咄嗟に、氷雪の冷たい手に触れて握り、両手で包む。氷雪は手を引こうとしたが、蝶子はそれを許さなかった。


「蝶子、俺は……穢れている。触れてはいけない」

「いいえ。とても綺麗な手です」


 氷雪は苦しそうに唇を震わせた。


「俺は、お前の幼馴染みだという啓太の魂を切りつけた、たぶん、もう奴は……」


 蝶子は泣き出したい気持ちを抑え、氷雪の手を、宝物のように己の額で触れた。


「いいえ。とても綺麗な手です」


 氷雪は言い淀む。


「蝶子は、もう自由だ。もしも人界に帰りたいなら──」

「いいえ、行きません」


蝶子はたまらず、顔をあげた。


「わたし、ここにいたいです。未だに嫁とはなんなのかわかりません。でも、わたしは氷雪様を、好いています」


 この切ない気持ち。これが恋なのだろう。

 一陣の風が、ざざっと吹くと、一斉に白牡丹が揺れ動き、花弁が舞う。香りが立つ。蝶子は瞬きも忘れ、氷雪を見上げた。


「わたしは、あなたの側にいたいです。本当のお嫁には、してくださりませんか」

「つっ……意味わかってる」


 蝶子は頬を染め、コクリと頷き、柔らかく微笑んだ。

 氷雪は一瞬、泣き出しそうに顔を歪めた。

 そのまま、綺麗な顔が蝶子の顔に近づいてくる。お互いの吐息がかかる。


 氷雪はそれでも幾度が躊躇っていた。蝶子の唇に触れる。柔らかな感触がして、胸が締め付けられた。


「蝶子」


 唐突に、唇を貪られるように激しくなり、頭に手を回され、驚いて逃げそうになる蝶子に構わず、蹂躙された。


「んっん」


 鼻に掛かった声が漏れると、さらに激しさを増した。むせ返るほどの、白牡丹の甘い香りを嗅ぎながら、蝶子の胸はざわめき、何とも言えない気持ちが広がった。


「もう、我慢はしないからな」

「えっ」


 唇を離され、ぽやっと蝶子がしていると、氷雪は蝶子をひょいと横抱きに抱えた。


「え、ええええ。ええっと。氷雪様、その、お体は……」


 綺麗な顔が、間近で柔らかく笑った。


「ふふ」


 ちゅっと、触れるだけの接吻をされ、蝶子の頬が、さらに赤くなる。


「あの、あの、続きは……夜に」

「待てない」


 満面の笑みをして言い切る氷雪は、有無を許されず蝶子を部屋に連れていった。布団に寝かされ、帯に手が伸びる。心臓が破裂しそうで、顔をそむける。部屋のなかの障子が少し開いていた。隙間からは、綺麗な蝶が羽を広げて、青空へ飛んで行くのが見えた。蝶子は幸せなのに泣きたい気持ちが押し寄せてくる。


 それからは、タガが外れた氷雪に、求められるだけ求められた。初めて逢瀬を交わした。

 蝶子は、その日、白神様の本当の妻となった。


おわり


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