第三十三話 決戦1
「どこに行く」
降りしきる雨に打たれながら、険しい目付きの氷雪が、木々の間に佇んでいた。息を乱し、肩を上下させて、今しがた駆けつけて来た様子に蝶子は目を疑った。
「氷雪様……どうして」
「! どうしてだと」
氷雪は、ぎりっと奥歯を噛み、ずんずんと地面の青草を踏みつけながら近づき、蝶子の正面に立ち、ずいと、触れそうなほど顔を寄せた。憤った目が、血走っている。
「蝶子を迎えに来た」
蝶子は息を詰める。
「なぜ、来られたのですか」
「愚問だな」
氷雪は、そっと指で蝶子の頬に触れ、肩を撫でた。
「どこも怪我は、ないな」
氷雪の表情が、ほんの僅かに和らぐ。
氷雪は万全では無いはずだ。まだ数刻しか経っていない。そんな簡単に癒えるはずがない。それなのに、蝶子を追って、自分の身よりも案ずる。蝶子の目に涙が溜まる。喉に熱い物がせり上がった。
(なぜ、ここまでしてくださるのですか)
同じ、疑問が繰り返される。
氷雪はじっと蝶子を見ていた。瞬く間、見つめ合っていると、黒煙が焦れ、背後から声を荒らげた。
「蝶子に近づくな。それは僕のものだ」
「蝶子は、お前のものではない」
「神なんぞに、渡さない」
「ふん。たかが生き霊の分際で、俺をこれ以上、怒らせるな」
氷雪は射るような視線を黒煙に向け、体を回転させ、蝶子を背に庇った。
(生き霊)
あの異常な黒煙姿は、啓太の生き霊だったのか。どうやら、啓太の負の感情が投影したものらしい。
黒煙は怒りで震える。
「それは、こっちのセリフだ。今まで蝶子を守って来たのは僕だ。それなのに横から出しゃばりやがって」
「守る? 苦しめてきたの間違いだろう」
「うるさい」
「お前がいなければ、蝶子の両親は、貶められることも、死ぬ事も、無かった。ただの武家の娘でいられたんだ」
「黙れ。蝶子のことは僕が一番わかっている。僕のことも蝶子が一番理解している、神に……蝶子と僕の間の絆がわかってなるものか」
絆?
蝶子にとって啓太へと絆とは、幼馴染みでしかなかった。
ならば、今の氷雪との繋がりは、なんと言うのだろうか。
蝶子は大きな氷雪の背を凝視した。当たり前のように啓太から守ろうとする行動に蝶子は言いようのない疼きを感じた。
氷雪は鼻で笑う。
「勘違いも甚だしい。お前のは、ただの固執だ」
「蝶子は僕を好いている。僕と一緒になるのがいいんだ」
「阿呆が、蝶子の優しさを、温もりを錯覚するな」
「僕は特別なんだ」
蝶子は、氷雪と啓太の応酬を聞きながら釈然としない気持ちが、胸の奥底に痼りになっていた。
なぜ氷雪も啓太も、蝶子を側に置きたがるのだろうか。こんなちっぽけな命。必要ないだろう。損はあっても、得るものはない。
「特別? ふん。違うな、ただ、孤独なだけだろう」
「違う」
「孤独のなかは辛いからな。所詮、俺もお前も、ひとりなんだよ」
蝶子は驚いた。
氷雪は孤独だったのだろうか。童子たちがいる。屋敷がある。大鷹という友もいる。それでも数千は生きる神とは、孤独な生き物なのかもしれない。
蝶子も両親が亡くなってから天涯孤独だ。啓太も、母親を亡くして孤独を感じているのかもしれない。
だからとて、人を呪い、殺し、人を手に入れるのは間違っている。
氷雪はふいに蝶子を見て、顔を戻した。その瞳にどこか憂いが含まれているように思えた。
「温もりをくれたから蝶子が欲しい。俺と同じで、お前は側にいて欲しいだけなんだよ」
「えっ……」
(蝶子が欲しい?)
氷雪の言葉に、蝶子は息を、一瞬、止め、瞬きを忘れるほど、氷雪を凝視した。
「うるさい」
啓太は怒り黒煙が膨れる。膨れた黒煙から、幾つかの老若男女、大人に子供の悪霊が飛び出して来た。
蝶子は氷雪が言った意味を考える余裕もなかった。
「悪霊を飼っていたか。末恐ろしいな」
啓太の才能を賞賛し、氷雪は蝶子を背に庇い、クルリと立ち回りして、腰に下げていた刀を、スラリと鞘から出した。
啓太は悪霊を捕まえて懐柔させていたようだ。
ザンバラ髪、鋭い牙に、長い爪、青白い肌、すり切れた衣。股から下は煙で浮遊する悪霊。男の悪鬼が飛びかかる。流れ星ほどの早さで。氷雪は悪鬼を刀で突いた。弾け、四散した。
氷雪は蝶子の腰に手を回し、クルリと回りながら、右から左から悪霊が襲い掛かられ、切りつけた。みるみるうちに悪霊は退治されていく。氷雪には余裕すら感じられた。蝶子は氷雪にしがみつくしか出来なかった。
氷雪は最後の悪鬼を切りつけて倒す。惜しむ様に蝶子の腰から、そっと手を離し、啓太を睨んだ。
「随分と力をつけたな」
「今の世は、疫病や災厄が蔓延っているからなぁ」
疫病、災害で怨みを持った人が悪霊となり、啓太はそれを使役した。
死霊をも利用して蝶子を奪いに来た啓太。執念に恐怖する。
と、氷雪の腕がぴしりと音を立てて裂けた。
「氷雪様」
衣の裾の合間から垣間見えた、鱗模様の腕に蝶子は動揺する。どうやら力を消耗したようだ。氷雪の手が微弱に震えていた。
「大丈夫だ」
氷雪は衣をあげて隠す。
「わからんな。なぜ蝶子を欲する?」
啓太は怪訝そうな声で聞いた。
「お前は神だろう? なぜ、そこまでする。なぜ、嫁にした」
「……」
「人で無い神が、なぜ、人間である蝶子を得ようとする。神とは人の願いを叶えるためにあるものだろう」
「笑止。神とは均衡を保つだけの存在だ。穢れた大地を、雨や自然摂理を持って浄化する。そこに人の願いなどない。必要ならば災害も起こす存在だ」
「ならば、蝶子はいらないだろう。蝶子は人間だ。神ではない。神が必要とする理由など無い。僕といるのが正しいことだ」
「正しいとはなんだ。そもそも蝶子は物ではない。最終的に選ぶのは蝶子だ。強要するな。だが、お前だけには渡せない。蝶子を不幸にだけはさせたくない」
「はは。不幸にさせたくないだと、ふざけるな。神よ。お前はなんだ。蝶子に恋慕してるとでも言うのか」
「……」
氷雪は言葉を詰まらせた。




