第二十七話 不釣り合い2
ゴロゴロと雷は鳴り響く。氷雪を見ていられなくて、蝶子は俯いた。すると、大きな長蛇の影が、蝶子を覆った。時刻は暮れ六つ。(十八時ぐらい)薄暗さのなか、四隅の行燈が揺らめく。
氷雪の影が、蛇になっていた。部屋に大きな影が落ちる。蝶子は喉をひとつ鳴らした。一歩。氷雪が蝶子に近づく。ただならない氷雪の様子に蝶子は身を強ばらせた。
その様子に、ひとには氷雪の前に立ちはだかる。
「雪。落ち着いて、力の使い過ぎだよ。感情が乱れてる。いつもの雪じゃないよ。正気になって」
「俺は正気だ」
目を血走らせて氷雪は、ひとにを避けて蝶子に近づいた。
怖い。
蝶子は一歩、下がった。氷雪の瞳が収縮する。
「っ……」
氷雪は指に力を入れると、爪が腕に食い込み、つと、一筋の血が流れた。
なぜ、これほどまでに氷雪は怒りをあらわにしているのだろうか。
「蝶子が……両親に殺されそうになったとき、俺が助けてやったのに、それなのに」
「えっ?」
氷雪の唐突な言葉に蝶子は混乱した。
確かに、蝶子は両親に殺されかけたことがある。しかし、あのとき。
と、ピシャリと雷が水池に落ちた。
蝶子は無表情で、外を見る。
両親。雷。雨。首に残る締められる感覚。否応なく思い出す記憶。
「違う。蝶子。今の雪は正気じゃないよ。雪は、そんなこと思って無いよ」
蝶子が混乱していると、ひとにが、必死で弁明する。
氷雪が蝶子を助けた。助けてやったのに。
雨音が五月蠅いほどに、屋敷の瓦を叩き付けていた。
(額が痛い)
何かが額で蠢くような。攻めぎあっているような感覚がした。
氷雪は荒々しく、蝶子へと手を伸ばした。
蝶子は、咄嗟に、ぎゅっと目を瞑る。
腕を掴まれ、爪が食い込むほど引っ張られ、死を覚悟した。
ふわっと柔らかな物が額を掠める。温かい物。蝶子は目を開く。氷雪の唇が、そっと蝶子の額に触れていた。怒りとは裏腹に、優しい行為。
額の痛みが、すっと消えていく。
氷雪は唇を離すと、とん、と蝶子を押した。蝶子は二、三、蹌踉めきながら、うしろに下がる。
「俺から、離れろ」
蝶子の血の気が引く。
「雪。もうダメ。ボロボロ。揺り篭に行こう」
童子たちが一斉に氷雪を止める。蝶子は身動きが出来ず、立ち尽くしていた。童子たちに支えられながら、蹌踉めき氷雪は蝶子を通り越し、屋敷の奥へと向かって行く。ひとに、だけが蝶子の傍に残った。
額が高熱を出したときの様に熱い。
蝶子は額を手で押さえる。
「蝶子。大丈夫? おでこ、まだ痛い? 氷雪が蝶子の中の邪気を払ったから、もう大丈夫だよ」
「どういうこと」
ひとには、ばっと口を押さえた。
痛みを伴う額の疼きは消えていた。気のせいではない。接吻する行為の意味。
「教えて」
蝶子が静かに聞くと、ひとには、しばらく唸り、渋々と口を開いた。
「蝶子の、おでこには、印が付いてるの、獲物の所有印。呪物だよ」
「わたし、呪われていたの!」
ひとには首を振る。
「呪いと言っても、マーキング。蝶子を自分の物だという証し、蝶子は嫁に来たとき、二つの呪いが掛かっていたんだ」
「二つ」
「ひとつは、おでこ。二つは、言葉の呪い。虐げられて発せられた言葉で、蝶子は、自分に価値が無いと思いこんでた。今もそう思ってるかもしれないけど。言葉は雪や、ぼくたちと接しているうちに、心のなかから祓うことは出来る。でも、印は、雪が、おでこに口づけをすることで、上書きしてたんだ」
蝶子は瞠目する。
「上書きするとは」
「言葉の通り、獲物の印を抑えて、雪の所有印とすることだよ」
そうやって蝶子を守っていたと。
神のお屋敷に来てから幾度と無く、額に接吻をされた。蝶子の唇が微かに震える。
「上書きするのは、そうとうな力を、お使いになるのでは」
「……うん」
呪いを抑えるのに力を使わない訳がない。
だから。
蝶子は、先日訪れた大鷹の言葉を思い出す。蝶子の額はどうしたのかと聞かれたあとに、大鷹はこう言ったのだ。
『なるほどな。それで神力が欠如しているのか』
力が欠如していたのは、蝶子のせい。
なぜ、あのときもっと深く聞かなかったのだろう。
力を欠かすほどの呪いなら、蝶子など捨て置けばいいのに。
「あのね。蝶子が悪いんじゃないよ。蝶子に勝手に印を付けた者が悪いんだから、あいつが、しつこく、蝶子を狙うから」
「でも、原因は、わたしで、わたしがここに来たから」
(狙う?)
ひとにの、言葉に引っかりを覚えた。
(しつこく?)
ならば一度や二度ではないのだろう。
そこまで考えて、夜中に邪気が入り込み、氷雪が祓っていることを思い出す。
まさか。
「この神域には邪物は、よく入り込むのですか」
「蝶子。大丈夫だよ。ここに居れば邪物は、めったに入って来ないよ。心配しないで」
ひとには安心させるように諭した。けれど、蝶子は確信し、瞳が陰る。
「では、邪物が入り込もうとしていたのは、わたしが原因ですか」
「はぴゅ」
ひとには、変な息を吸った。あたふたとさせ、身振り手振りで違うと言っているようだが、咄嗟のことで嘘がつけないようだった。
今ならわかる。
蝶子が熱を出した夜。氷雪は蝶子に寄り添ってくれた。額の呪いを抑えるため接吻をしてくださり、そのあと、席を立たれ出て行かれた。
あのとき、邪物が入り込んでいたのだ。
蝶子は呑気に今からお出かけとは、と思った。
まだある。仙天横町から帰ってきた夜。蝶子は外で花火の光のような物を見た。
鬼門から邪な物が入って来たと聞いたが、あれも蝶子が原因だったのだろう。
思い当たる節が幾つか浮かび上がってくる。
きっと、蝶子が知らないところで、何度も、何度も、氷雪は蝶子が原因で戦っていた。
歯切れ悪く、「あう」と唸っていた、ひとには小さく頷いた。
「あ、蝶子。うん……蝶子のおでこを目印に、邪物が……来てたんだ」
(やはり、わたしが引き寄せていたのだわ)
「では、それを祓うには、かなりのお力を使うのでは無いのですか」
「それ程でもないよ」
「ですが、続けざまに祓っていては、お力が削がれてしまうのではないのですか」
「……」
言い逃れの出来ない言葉に、肯定を物語っていた。
氷雪の力が欠落した原因は、蝶子の額の呪いと、それによって引き寄せられた邪物が原因。
(氷雪様は、優しい方だから、助けて下さっていた)
そして……。
「力が欠如されていたのに、お役目の雨を降らせるのは……」
きっと、辛い。
蝶子は沈痛な面持ちで言葉を飲み込んだ。
先ほどまでのボロボロの氷雪の姿を思い出す。優しさを保てないほど、手負いな状況だった。
それなのに印を上書きするために、あんな状態に関わらず、蝶子に額に接吻をしてくれた。目頭が熱くなる。
「蝶子。氷雪は大丈夫だから、今、揺り篭にいるから。あそこは神力を回復させてくれる場所だよ。明日には、だいぶ、よくなってるから」
「いいえ。わたしは……」
必死で蝶子を元気づけようとする、ひとにに、蝶子は拒絶し頭を激しく振った。
(わたし、うぬぼれていたんだわ)
嫁と言う言葉に。甘えて。
優しくしてくれた。こんな価値の無い者に。
氷雪を傷つけた。
蝶子さえいなければ、あんな酷い姿にならなかった。
蝶子は害でしかない。氷雪にふさわしくない。
ずっと、嫁として自分に出来る事を探していた。
最初から無い。氷雪のためになる物など、何ひとつ存在しない。
居てはいけない。もう、傷つけたくはない。
(わたしが、いなければ)
離れよう。
氷雪もそう言っていた。離れろと。
お側にいない方がいい。
だって、蝶子など、神の嫁など、最初から分不相応でしかなかったのだから。




