第二十六話 不釣り合い1
──蝶子──
ふと氷雪に呼ばれた気がして、蝶子は顔を上げた。氷雪が飛びたってから一週間が過ぎようとしていた。
蝶子は、おもむろに立ち上がり、縁側に立った。瓦を叩きつける、激しい土砂降りの雨は、庭の土をも削り、茶色く濁らせ、幾つもの水溜まりを生んでいた。雨はすでに一週間降り続いている。蝶子のいた村の人々は、この雨を恵みだと喜んでいるだろうか。それとも、続く雨に嘆いているのかは、わからない。
ここいら一帯の雨を降らせることは、氷雪の任務だと童子から聞いた。
元来、神様の仕事は、人間の願いを聞くのでは無く。ただ、穢れた大地を浄化するものだと言っていた。
蝶子は、弾かれる雨音を聞いて俯いてしまう。
「寂しい……の、かな」
煙るほどの雨を見ながら、蝶子は呟いた。
どうも氷雪が近くにいないと違和感がする。声が聞こえない。体温を感じ無い。部屋のなかがガラリと広くなった気がしてならなかった。
「怪我をされていないかしら」
蝶子は頭を振る。
心がソワソワして右手の甲を鼻に近づける。すうっと嗅ぐと、甘い香りがしてホッとした。
勿体ないが氷雪から頂いた練り香水を、少量塗っていた。
「ちちち」
土砂降りの雨のなか、青雀が何かを咥えて屋敷に入ってきた。そういえば朝から見かけなかった。雨の日は、屋敷にいるようだったが、今日は紅雀がずっと、そわそわしている気がした。青雀を心配して、あっちこちと部屋のなかを飛び回っていたことに気が付く。案の定、青雀が部屋に入って来るなり、紅雀は飛んで来て、叱りつけている様子だった。蝶子はくすりと笑って手布を出して青雀を軽く拭いてやった。
「ちちち」
青雀は、羽をぶるぶるとして水気を飛ばすと、とんとん、と三度ほど廊下を飛び跳ね、口に咥えている物を蝶子に差し出した。
「なぁに。くれるの? まぁ綺麗な白牡丹ね」
小さいけれど、水にしっとり濡れた花だった。このところ、蝶子の元気が無かったのを見て、青雀が花を摘んできたようだ。
白牡丹は蝶子にとって、特別な花だ。嬉しい。笑みがこぼれた。
そういえば、こんな風に落ち込んでいたとき、あの人が花をくれたことがあった。
「懐かしいな。去年、啓太に貰った花なんだよ」
『綺麗な花だったから』と啓太が摘んでくれた白牡丹。村で唯一、親切にしてくれた男の子の、はにかんだ笑顔を思い出す。
「元気にしているかな。啓太」
花嫁として生贄にされるとき、逃げようと言ってくれた男の子。
喰われると思っていたから、少し、連れ出してくれようとしたことが嬉しかった。
「蝶子」
背後から、不安げな、童子の小さな声が聞こえた。
「えっと。さんね。ちゃんだったかしら」
さんねは、コクリと頷いた。着物の裾をぎゅっと握り締めている。
「蝶子は、雪のこと、どう思っているの?」
「どう? とは」
唐突な質問に蝶子は首を傾げた。さんねは、可愛らしいお顔を不満げにさせて、蝶子を見上げた。
「好き。嫌い」
「……好きだと思います」
「どんなところが」
蝶子は、しばし考える。
「自立されているところ、とか」
「それから」
「子供たちにも好かれているところ、とか」
「それから」
「他の神様からも信頼されているところ、とか」
「それは、恋として」
恋? 何か違う気もする。
蝶子は意味も無く、目を泳がせた。さんねは、それが気に食わなかったのか、目に涙を溜めて、地団駄を踏んだ。
「蝶子は雪のこと好きじゃなきゃダメなの」
急に癇癪を起こしだして蝶子は、おろおろとした。
「雪は絶対に、蝶子の嫌がることしないよ」
さんねは訴える。
「蝶子は雪を受け入れてよ」
受け入れる?
蝶子はすでに氷雪を受け入れているつもりだが、さんねは、蝶子にしがみつき、ポカポカと股を叩いた。
「蝶子が受け入れないと、このままだと、雪が、ボロボロになっちゃうよ」
「えっ」
さんねは急に、しまったっと顔をして、蝶子から離れると口を押さえた。
不安が過ぎる。
「ボロボロにとは、受け入れるとは」
蝶子の質問に、さんねは、首をふるふると振った。涙がホロリと流れ、蝶子を見据えた。
今まで童子たちのこんな姿を見たことがなかった。蝶子の知らないところで、氷雪の身になにか起きている。そう感じた。
さんねは泣きながら蝶子を見上げ聞いた。
「蝶子にとって、白牡丹は啓太との思い出しか浮かばないの。啓太のが雪より大事。啓太のことが好き?」
「……」
考えたこともなかった。この質問と氷雪の身に起きていることとの関連性が見いだせない。
(ここでの好きとは、恋愛対象よね)
首を傾げながらも、蝶子は、その問いを考えた。啓太は、幼馴染みでしかない。それ以上でも、それ以下でもない。
好き?
蝶子は恋を知らない。愛とはいったいなんなのか、わからない。困惑して言葉に詰まっていると、雷が近くで落ちた。
「きゃっ」
一閃が走り抜け、眩しさに目が眩む。激怒するかのように地が地響きし、震動で心が乱れた。雷鳴がする。雨音が激しくなる。
そこに、ドンと壁になにかが当たる音がして、蝶子は振り返った。
「氷雪様」
何時からいたのか、氷雪が壁に支えられながら立っていた。息遣いも荒く、体にうまく力が入らないのか、どこか、だらりとしていた。
「雪」
わらわらと童子たちが、心配げに駆け寄ってくる。氷雪の瞳孔は細く、獣じみて蝶子だけを見据えている。
「啓太とやらが、なんだって」
どこまでも低い声がして、蝶子の唇が震えた。
どうやら、さんねとの会話を聞かれ、怒っているようだ。とは言え、激怒する会話などあっただろうか。
啓太が好きかどうかなど、氷雪には、どうでもいいことだろう。
氷雪は片腕をぐっと掴みながら、ふらりとし、一歩、蝶子に近づいた。袖から素肌が見え、蝶子はぎょっとする。
氷雪の腕が、疎らに銀色の蛇の鱗になっていた。首も。顔もだ。
「俺が怖いか」
蝶子は首を振る。足が勝手に震えた。
氷雪の身になにかが起きているようだが、怒りは蝶子に向けられているようだった。




