過去の話2
精霊を捕まえることは出来ても殺せるわけではない、そもそも世界の法則を司る精霊というのは基本的に不滅だ。
「(…で、俺を殺すのは決定事項なのか?)」
そして彼女を退けたとしても次の精霊が来て物理的に俺を排除しようとするなら俺はそれに抗う術を持たない、つまり詰みなわけで俺は内心どころか普通に冷や汗をかきながら水の精霊に話しかけた。
この時俺は…どうすべきだったのだろうか、いや今に問題があるというわけではないが合理的に考えれば俺よりも幼馴染であるマリアに付けばよかったのではないだろうか?世界の秩序になんらかの変調が起きそれを調整する為の何かがマリアであるのなら精霊たるネロがそれを守ればいい、俺が今その役目を果たせているのも彼女の存在が大きいのだからネロがマリアについた方が確実な筈だ。
だが彼女はそうしなかった。それがなぜかは精霊であり、合理の化身でなければならない彼女達に感情が生まれた時から確定していたのかもしれないし、ただの気まぐれか…それとも何か俺につくことで良いことがあるのか…彼女は曖昧に笑うだけだ。
だが俺は話しかけた。それはすでに確定した過去であり覆せない類の決定だった。そしてそれは水の精霊は戒めをかけられているとは思えないほどの笑顔を見せ反属性である土の戒めをそれを上回る水属性の魔力と魔法を持って打ち破ったという結果に繋がった。
その時の俺はそれを認識するよりも先に物理的な攻撃に備えこの世界の住人として魔力を引き出し肉体を物理的に強化し周囲に散らばる彼女の魔力を障壁に取り込む。
だがそんな風に備えた俺の予想とは違い襲って来たのは激しい激突でも魔法的な攻撃でもなく。水精霊である彼女の肉体のひんやりとした感触とそれが全身を包むような…いわゆる抱擁というものだった。
「うふふ…いいえ、私はそこまでしてあなたを殺したいわけじゃない、だけれどこのまま逃すというのはありえない…精霊と人間との諍いは決まって一つの答えになるでしょう?」
その後に小さく本当はやってみたかっただけだけどね?と付け加えた彼女の体が、魔力が急速に解けていくのを感じ俺は身を硬くするが時すでに遅し。
意識の切り替えが間に合わず魔力を拒絶出来ない、というか今初めて実践したが自分の中に魔力がある間はいきなり拒絶することは不可能なようだ。そんな冷静な思考はその時吹き飛んでおり俺は彼女と俺との間で循環され徐々にその身に刻まれていく魔法に、彼女の魔力から得た知識以上の複雑さと精妙さを持って発動させられていくその魔法に恐怖を覚えていたのだった。
「『契約を此処に、我水を司りし者にしてその秩序を敷く者、世界に告ぐ。我が悲願はここに成就された。』」
「(ぐっ…がっ!?)」
魔力が満ち、魔法が完成され水の戒めが俺を包み彼女はその戒めとなって俺にくくりつけられて行く。それと同時に俺の中へ俺以外の何かが流れ込んでくる。
それは俺を押し流すような濁流ではなかったが少し特殊で小賢しいだけの只人には些か恐ろしすぎた。
「ふふ…私、ずっと人間さんとおしゃべりしたいと思ってたのよ?」
俺の体に不可侵にして不可視の紋様が刻まれ精霊と人間による最低限の安全項目しか満たされていない不平等な契約は成された。俺は自身の中にあった魔力を吐き出しても尚内に存在する精霊の魔力にその存在に恐怖と畏怖が心を焼く。
『…申し訳ないとは思っているよ?…でも…これが一番私の願いを叶えるための近道だったんだ。』
「(ックハ…最高に最悪だぜ、精霊様。)」
幼子の肉体には些か急すぎた魔力放出や高位魔法の使用、脳に直接刻まれた膨大な知識、今までそれら全てを魔力によって押さえつけていた反動が魔力を吐き出した俺に襲いかかり空間の捩れが元に戻るよりも先に俺の意識は吹き飛んだ。
『…か…うなわた…の……ダメな…………てね?』
何かが聞こえた。今記憶を再生しても掠れた音以上の意味を持たないネロの声はだれか遠くの人間に、此処にはいない誰かに語りかけているようで徐々に暗くなって言った視界が見たのはあまりに人間らしい彼女の壊れそうな笑顔だった。
「…はぁ、最悪だ。」
気がつけば俺は珠のような汗を掻きその寝苦しさから目を覚ましていた。周囲の魔力が渦巻いているのを確認し俺は恐る恐る天井を見るが少し焦げたような跡がある。恐らく夢の中で繰り返していたネロとの出会いの時のストレスによる魔法の暴発だろう。溜息を吐きつつあまりに繰り返されたこの夢に嫌気がさす。常にこのことを警戒して毎日少ない魔力を貯めに貯めて夜だけ強力な障壁を張り巡らせている自分に少しだけの賞賛と自己嫌悪を浴びせつつ自分と布団をネロから送られてくる少量の魔力で持ってクリーニングする。
『どうしたの?アビス。怖い夢でも見たの?』
その怖い夢というのが彼女との出会いにまつわる俺の精神的な変調であるというのなら正しいのだが、残念ながら人というのは慣れる物だしそもそも彼女に対する恐怖と言うのは彼女自身に対する恐怖では無い。
「お前のお仲間…いや、世界からの嫌がらせだよ、いつも通りのね。」
俺がおどけながらそう言うと彼女は少しだけ申し訳無さそうにして身を小さくするような気配を出す。別に一人しかいない部屋だ彼女の化身が出てきても問題はないが万が一ということもあり半径1キロ以内に人がいるときに彼女が実体化できないようにあの後に少しだけ契約に付け足したのだ。
『…ダメだね、やっぱり私一人が君を隠しても…』
「そんなこと言うなよ、お前にとって俺は便利な依り代で俺が此処に居られるのはお前のおかげ、そう言う風な契約だろう?」
それは俺にとってあまりに残酷で、不平等で、不誠実な契約、彼女はあいかわらず優しすぎるためかそれとも数年を一緒に過ごし上が湧いたのか…彼女にとって依り代の精神状態が安定しなければ不利益があるからなのか困ったように、申し訳なさそうにさらに縮こまる。
異世界から流れ着いた俺の魂は世界の循環に直接的な支障きたさない、それは世界という規則そのものが生半可な強度のシステムではないということの証明だ。
だがしかし、支障はなくとも問題はある。黄金比も一つ足せば崩れるように循環するエネルギーである魂が一つ増えただけでも世界は過敏に反応する。俺に夢を見せるのもその心を折ろうとするのもひとえに俺という異物を排斥するための嫌がらせだ。
「…はぁ、キッツイな。」
定期的に歪む視界はこの世のものとは思えない地獄を写し揺れる思考はネガティブな方に引かれていく。魔力を受け入れた量が多ければ多いほどに拒絶した時の排斥は強くなる。
世界は、精霊達はそれを利用して俺に悪夢を見せ、それを現実と誤認させるのではなく夢を現実にして実際に魔力を消費させたり発動させたりして俺に負荷をかけていく。
一社会人として、人間としてそれなりに苦しい思いも辛い思いもしてきたが所詮人間の心はガラス細工の割れ物だ。
人間という生物が生物の本能に従って環境に順応すると言ってもそれは他の生物と比べれば難しく。どちらかといえば順応する環境の方を改変したりもしくは物理的に頑強になることで環境を屈服させると言う様な方法をとりがちだ。だが俺の場合はそうはいかない、常に新しい苦痛を、常に忌々しいものを、常に邪悪で凄惨な世界の闇を直視させられているようなそれは世界に刻まれていく生命の叫びだ。内面を改革するとかそういうレベルではない、世界中の苦痛を杭を打つように撃ち込んでくるのだ。それには順応など許されずすればするほどに慣れれば慣れるほどに心が壊れていく。
『安心して…愚かな貴方は私の虜、勝手に壊させはしない。』
「はぁ、それが一番辛いんだよ。壊れたくても壊れないっていうのは死にそうで死なない絶妙なラインを常に経験させられ続けてるってことだぜ?」
それにネロも精霊だ。どうなるかはわからない、頼り切るのは無理だしそもそも信用できない…ああ、早く誰か俺に癒しをくれ…
異世界というのはファンタジーが叩きつけてくるリアルは何故こうも俺に厳しいのだろうか。