第五回
――こんな荒天た日には、こんな嵐には、
戸外で遊ぶ子はないのだけれど――
小栗虫太郎「完全犯罪」
第一楽章
東京を魔都だという。
ならば最もそれらしい街は何処かとなると、やはり新宿辺りに落ち着くのだろう。けれど小心者の私には、もとより闇の最深部をうろつき廻る勇気など最初からなく、区役所から花園神社にかけてが、分水嶺となっている。
ガード下の金券ショップから何とか横丁を通って東口へ抜け、スタジオアルタの裏側を浅くかすめ、区役所前で踵を返してゴールデン街へ飛び込む。そんな独り歩きが、最も私を慰めるようだ。
いわゆる若者の街には、若い頃から縁がない。田舎出の余所者なので、ちゃきちゃきの下町では疎外感を覚える。まして銀の字がつく、何事も高級そうなネオンの輝きを前にしては、即刻退散せざるを得ない。
どこから来て、どこへ行くのか。故郷を喪失した男の行き着く果て。地下通路に寝そべる流人たちと紙一重の存在を噛みしめながら、顔のない人込みに紛れて歩く。
魔都。
巨大な街の集合体に身を置きながら、居場所のごく限られていることに、我ながら驚きもし、呆れもする。
待ち合わせの時刻には、まだ間があった。
他人を待つのは嫌いだし、他人を待たせる度量はない。結果、時間ぴったりに参上するのが、私の流儀となっている。
宮仕えの身ではこうもゆくまいが、人付き合いが苦手で作家になった。なのに、気がつけば日々、他人の流儀に振り廻されているのは、流人にならず飯を喰うための哀しさか。せいぜいディレッタントを気どりつつ、金のかからぬそぞろ歩きに時間を費やすことで、せめてもの抵抗を試みる。
区役所前。またここへ出てしまったと、舌打ちするのもいつも通り。街の灯を反射する水面の上で、寂しげにたたずむブロンズの裸女に、そっぽを向かれるのもまた。
「人待ちか」
あまりにも存在感が希薄だったため、気がつくまで少なくとも三分間は要した。馬蹄形の水盤を挟んで、入り口近くに独り、腰をおろしている女がいる。東口近辺ほどでないにせよ、ここでの待ち合わせは珍しくないし、座り込んでいる者もよく見かける。
けれどもそれが「女」となると、覚えず注視せずにはいられなかった。
あらぬ方角を向いているし、ボブというのかおかっぱというのか、ショートヘアが頬にかかって、表情は全く判らない。秋も遅い、こんな季節にコートも羽織らず、濃紺か黒の、みょうに古風な厚手のワンピースに身を包んでいる。
誰を待つのか、それとも悩み事でもあるのか、微動だにせず、真っ直ぐに前方を見つめている。いや、見つめているように思える。
声をかけてみようか。
なぜそんな誘惑に駆られたのか、自分でも不思議だった。
服装はひたすら地味だし、蠱惑的な要素は皆無に等しい。強いて見出すならば、無造作なショートヘアの黒髪と、白い襟のコントラストが目を射たくらい。どんなご面相かも判らないし、厭な顔の一つもされれば、私の不利益になるばかりだ。もとより私は老若男女問わず、自分から声をかけるのが何よりも苦手である。
それでも私がその女に拘ったのは、やはり存在感の希薄さゆえだろう。もし声をかけたら、たちまち消えてしまうのではないか。跡には人工の泉が、七色の光を虚しく湛えているだけではないか。
そんな気がしてならなかった。
ポケットの中で電話が鳴ったのは、そのときだ。
幾つになっても、この電話というやつにだけは慣れない。しかもこの機械は、形態を進化させるにつれて、狂暴さを増してゆくらしい。私は時限爆弾でも止めるように、慌てて着信に切り替えた。
その瞬間だった。女と目が合ったのは……
睨まれているわけではない。ただ女は電話の音に反応して、こちらを向いたに過ぎない。その証拠に女の表情は、無感動一色に塗りつぶされているではないか。おまけに暗がりにいても、顔色がよくないと判る。それでも私が胸を突かれた気がしたのは、女の目から放たれる、云い知れぬインパクトに打たれたからではあるまいか。
女がいわゆる「三白眼」であったことだけが、原因とは思えないのだ。
半ば無意識に耳に当てていた電話機から、太い声が無遠慮に飛び込んできた。
「酒井くん、ちなみに今、どこにいるんだね?」
電話の主は、堀川秋海。別号、蒐怪。人呼んで文壇の妖怪。まことに不本意ながら、私のボスであることを認めなければなるまい。
「新宿ですが」
「そりゃそうだろう、きみ。今頃、富士山の天辺にいられてもこまるからな、がっはっはっは。時に酒井くん、すでにきみ以外の役者が揃ってると言ったら、どうするね?」
「えっ、でもまだ……」
腕時計を露出させるのに骨が折れた。文字盤を読むため、ぐっと顔を近寄せた。八時半を少し廻ったところ。秒針が動いているから、止まっているわけでもなさそうだ。
顔を上げた。そこにはもう、女の姿はなかった。
街の灯を反射する水面を呆然と眺めながら、耳を聾するような堀川の声を聴いていた。
「きみはなあ、サラリーマンにだけはならんほうがいいぞ。賓客のあるときは、最低でも待ち合わせの一時間前に来ておくものだ。それがこの日本とかいう国の、社会の不文律なんだよ。なあ、きみ。誰が作ったのか判らんが、じつにせせこましい社会じゃないか」
そう言って堀川は、また怪物じみた笑い声を張り上げた。




