第三十一回
蒲良は内ポケットをまさぐり、煙草を取り出した。風体に似合わぬメンソールは、くしゃりと先が潰れていた。
「エカテリーナ二世よろしく、絢爛たる玉座の前にでも呼びつけられるのかと思いきや、陛下直々に降臨されましたよ。一分間にも満たない会見でしたがね」
「有坂姉妹は?」
「やはりそこが一番気になるところですな。晩餐には間に合うという話です。長篠明子が、すでに手伝いに入ってますよ」
「彼女も今夜は泊まるのですか」
我知らず、胸の高鳴りを覚えた。一重咲きの野性的な薔薇。人工的に丹精されたような、完璧に等しい姉妹の美しさを見せつけられた後でも、明子の女学生めいた清楚さが、心に引っかかっていた。要するに、好みなのだろう。
「いや、彼女はホテルから通うようですよ。さすがに空き部屋がありませんからね。ふふ……それにしても、京林くんは隅に置けない」
意外な素早さで、蒲良は私にすり寄ってきた。そうして薄荷の匂いとともに、耳元でこう吹き込むのだ。
「新宿の店で会ったとき、私たちと有坂姉妹は、初対面という触れ込みでしたよね」
「ええ、あなたと京林さんが、長篠明子とお知り合いというツテで」
息を止めたい思いで答えた。以前は吸っていたから、煙草の匂いは苦にならないが、粘液質の囁き声には閉口する思い。
「ところがあの白面郎のフランス文学者は、あの時点で、とうに有坂美月を知っておったのです」
「えっ」覚えず目を見張ったのだろう。満足げに見つめる、蒲良の横長な笑顔があった。
「いかにも、意味深長な云い廻しでしたな。何をどこまで『知って』いたのか、それは私の『知る』限りではありませんが。逆に云うと、哀れなピアノウーマン、長篠明子は少なくとも誕生日の夜の時点で、二人が『知りあって』いることを……」
「『知らなかった』」
「左様」
世に云う二股というやつか。珈琲の生豆を噛み潰したような味が、口の中に広がるのを感じた。
なるほど京林雅晃は、整い過ぎるほど顔立ちの整った美男であり、まだ充分若い男で通じる。さっき「白面郎」と蒲良は云ったが、これは青二才と同じ意味で、用語としては正しくない。にもかかわらず、妖怪の一種であるかのような語感が、蝋細工じみた京林の美貌を的確に云い表してもいた。
堀川蒐怪の周りに集うのは、妖怪ばかりなのか。酒井謙作とかいう、極めて凡庸な三文文士も含めて……ひとしきり首を振って、私は尋ねた。
「どうして蒲良さんが、そのことを」
察するに、かれはまだ新宿の時点で、京林と美月の関係に気づいていない。このいかにも非活動的な准教授が、変装して雑踏の友人を尾行ている姿など、あまり想像したくなかった。
「蒲良肇もまた、見かけによらず、隅に置けんということかもしれませんなあ」
思うさま言葉を濁して、かれは笑うのだ。
つまり、かれもまた、美月から「聞いた」ということなのか。明子同様、清楚そのものの肖像画のようなピアニストは、バビロンの魔都の闇で妖怪どもと戯れているのか。
だが、しかし――
平衡感覚を失う思いで、チェシャーキャットめいた笑顔から目を逸らした。気配はまったく感じなかった。にもかかわらず、ティーポットを載せた盆を手に、入り口に立っているメイドと目が合った。
出水円香ではない。
もっと背が高いし、同じストレートのショートでも、髪型はずっと古風なボブ。と云うより「お河童」である。にこりともせず、薄暗がりから蒼い顔で、恨めしそうにこちらを睨んでいるさまは、この世のものとは思えない。もしも真夜中であれば、百パーセント悲鳴を上げていた。
「失礼します」
盆を支えたまま器用に頭を下げると、第二のメイドは広間に入ってきた。硬そうなパンプスを履いているのに、足音一つたてない。やはり微笑すら浮かべなければ、明るい所で見ても顔色がよくない。
睨まれたように感じたのは、特徴的な三白眼のせいだと知れた。
たしか、どこかで行き逢ったような気がしたが、ちょっと思い出せない。
勅使河原美架という、一風変わった名前を後で知ったが、聞き覚えはなかった。




