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第二十九回

  †

 堀川がタクシーを寄越すと云ってきたが、私は即座に断った。いざ、鎌倉へ馳せ参じるには電車に限る。それもできれば、南武線経由で。

 新宿から一本で南下できるのに、中央線でさらに西へ向かうのは、府中本町駅が東京競馬場と繋がっているからだ。千円ばかし希望を購い、人も疎らな朝のレースを一つ二つ観戦。馬券はそのまま文庫本のしおり代わりに、駅の売店で敗戦祝いの缶ビールを買うと、南武線に乗り換える。ちょっとだけ遠出したいときの、お気に入りの散歩コースだった。

 荷物は宅配便ですでに送ってあったから、小鞄一つ提げた身軽さ。土曜日の、この時間なら電車もまだ座れた。

 車が苦手になったのは、いつ頃からだろう。匂いが記憶を呼び覚ますのなら、タクシーのあの独特な匂いは、車に酔ってばかりいた幼い頃の体験と、直結しているのだろうか。

 当時、それぞれの理由で、遠足も運動会も厭わしかったが、とくにバスに乗っての「一日見学旅行」は地獄を見る思いがした。

 周囲の興奮とわめき声とともに、無理矢理バスに詰め込まれる恐怖。やがて山道にさしかかると、胃を素手で絞られるような感覚が、カーブごとに襲いかかる。唇を噛み、冷や汗を浮かべて、目の前にぶら下がる小型のポリ袋を睨みつけながら、おそらくそれと同じくらい、青い顔をしている自分……

 武蔵溝ノ口を過ぎた。

 さらにあと三駅、「武蔵」シリーズが続く。四番めの武蔵小杉でまた乗り換えるのだが、同じ駅とは信じられないほど、「動く通路」が延々と続く。勤め人なら煩わしい限りだろうが、無為な私はこの長い長い連絡通路が嫌いではない。

 横須賀線のホームは見晴らしが好い。そういえば今日から十二月だが、まだ温暖な日々の名残が、あちこちに張りついている。シベリアから、あのしつこい寒気が関東に襲いかかるのは、紅葉が完全に終わってからだ。

 木々は巨大な氷の爪で衣装を引き裂かれる前に、みずからの死化粧に余念がない。

 列車が来る。リュックと帽子。子供と外国人。ここら辺から、いかにもお出かけの装束が多く目につく。瞬く間に席が埋まるが、後は立ちっ放しでも構わない。なぜか私は、電車にはまったく酔わない体質だった。

 横浜を過ぎると、急に海の気配が濃くなった。とはいえ、例えば山陽本線の明石付近のように明媚な風光は望むべくもなく、かと云って江ノ電の情緒も期待できない。そもそも海なんて見えないにもかかわらず、戸塚や大船といった地名が連呼されると、小匣を連ねたような街の向こうに横たわる、広大な海が意識された。

 次は、北鎌倉……

 小旅行気分で浮ついていた私は、その名が車内で響き渡った途端、原因不明の眩暈に見舞われた。

 眩暈の中で、小川の向こうから押し流されて来る、大量の紅葉の幻覚を見た。

 深紅の、人、一人ぶんの血を、ぶちまけたような。

(酔ったのか……まさか)

 ドアの脇の手すりを、ぎゅっと握りしめた。向かい側に立っていた若い女が、怪訝な顔で電話型端末から顔を上げるのが判った。覚えず目を逸らすと、山の斜面が見事な紅葉に彩られていた。斜面の途中に、ぽつんと浮かんでいるような一軒家が、目に飛び込んできた。まるで尖塔のように急な破風を戴いた二階部分。煉瓦色の屋根の下で、窓ガラスが猫科の野獣を想わせる、殺意に満ちた瞳の輝きを帯びた。

 冷たい戦慄を意識する間に、列車はいかにもこぢんまりとしたホームへ、滑り込んで行った。

「酒井さまでいらっしゃいますね」

 駅舎とは反対側の臨時改札口から出ると、シャーロット・ブロンテの小説から抜け出したような「メイド」が待ち受けていた。

「お荷物をお持ちいたします」

「いや、だいじょうぶ。これだけですから」

 あまりに小柄だったので、最初、中学生くらいの少女なのかと思い、ぎょっとしたほど。肌は黒いほうで、瞳のよく動く、どこか齧歯類的な愛くるしい顔立ち。軽いとはいえ、荷物を持たせるなど、もっての外の所行に思えた。

 後で仕入れた情報によれば、彼女の名は出水円香、二十一歳。二年以上、有坂家に住み込みで勤めている家政婦である。見かけによらず腕力があり、またとてもしたたかな側面を持っていることも、私たちは後に思い知るだろう。

 いつの間にか眩暈は治まり、厄介な頭痛と化して居座ることもなさそうだった。

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