第二十八回
「靴はまだ脱がなくていいわ。女中部屋の入り口までは」
皮肉を籠めて云ったつもりが、またしても美架は眉一つ動かさない。
女中部屋。
そんな言葉すら、生易しく響く。奥様はあたしのことを、「婢」とすら表現した。
玄関ホールは南北に幅広く、緋色のペルシャ絨毯が敷かれている。これを土足で踏むことで、客はまず度肝を抜かれる。ステンドグラスの天窓しかないので、中心から銅製の鎖で吊されたアールヌーボー調のランプが、ぽつんと昼間もともっている。
太古の洞窟めいた暗さは、来訪者を秘教的な雰囲気に呑まずにはいないだろう。
廊下へのドアはない。北へ進むとただちに直角に折れ、三人横に並べるほどの広い廊下が、ずっと東方へ続いている。高い天井は細長いステンドグラスに覆われ、黒ずんだ、剥き出しの床板に、色彩のモザイクを描く仕組み。右側にドアが一つ、南に面した左側には二つ見える。
北側のドアは映画館のような両開きで、開け放されたまま。
「奥様が広間と云えば、ここのことだと覚えておいて」
古めかしいソファやテーブル。豪奢な絨毯が数枚、所々に敷かれている。壁に窓は一つもないが、広大な天窓から採光されるので、照明なしでもかなり明るい。
ひたすら空間をたっぷりとるという、贅沢なコンセプト。狭い空間を少しでも多く分割して身を寄せ合うことに慣らされた、私たちとは次元を異にする感覚だ。事実、ここはもともと大戦前に外国人が建てた別荘で、山中に放置されていたものを、奥様がたまたま見つけて気に入り、買い取った。法外な金をかけて大改修されたのは、云うまでもない。
妖女館と、当時は呼ばれた。
夜な夜なゲストを厳選して行われた、あやしげな饗宴の数々は、未だ人々の口の端に上って止まない。この度の来客は何十年ぶりか知れないが、かつての饗宴の名残を、有坂苫江は惜しむのか。
東北の角に据えられたグランドピアノを見て、あたしは眉を顰めた。黒光りするほど、あれを磨き上げたのは、あたし自身なのだけど。九星気学では広間の位置を、鬼門と呼ぶのではなかったか。
ならばあのピアノは、黒い鬼なのだろうか。
「こっちは全て寝室。奥にあと一部屋あるわ」
左手で指してそう云うと、さらに奥へ進んだ。少し狭まった廊下が逆T字を描き、東へ真っ直ぐ進めば、戸外へ突き抜け、離れ家まで続く。北へ曲がると右手がバス・トイレ。
その左側、すなわちトイレの目の前にドアがあり、物置小屋と見紛うような、何の飾り気もない一室に相棒を招き入れた。
「ここが女中部屋。間仕切りからこっち側が美架の城よ。ただし、入り口は一つしかないから、私が外へ出たい時は、どうしてもあなたの領域を侵さなくちゃならない」
アコーディオンカーテンを開いて、四畳半ほどずつ、平等に分割されていることを証明した。常に家政婦が入れ替わるため、あたしが奥に陣取っていたほうが合理的なのだ。北向きのカーテンを開けておいたのは、格子窓になっているのを示すため。
「盗品を持って脱走したりしないように、檻を嵌めたのかしらね」
ほかに窓はなく、お互いのスペースには学生寮を想わせる、簡素なベッドと机と椅子があるばかり。蒲団は持参しなくていいと伝えてあった。
いかにも無造作に、美架は板張りの床の上にバッグを置いた。脱いだコートを腕にかけると、格子の向こうの紅葉を眺めた。その表情からは、相変わらず感情が全く読めない。
ほとんどの家政婦が、あからさまに顔を曇らせ、あるいはわっと泣き出す者さえ、一度ならず見てきたのだが……あたしは云った。
「南向きにあれだけたくさん、広々と空いた寝室があるのにね。まあ、この度のお客さまで、すべて塞がっちゃうみたいだけど」
「出水さんが来てから、お客さまがあるのは?」
「円香でいいわ。泊まり客は初めてね」
「日頃の出入りは多いのでしょうか、円香さん」
なぜこれほど冷静なのか。しかもこの女、早くも巧みに情報を引き出そうとしてくる。舌を巻く思いで、あたしは答えた。
「さん、はつけないでね、お互いにそのほうが手っ取り早いから。名乗る前に出水と呼ばれたのは、美架の場合が初めてだけど。マスコミ関係者がたまに来るわ。九割は門前払いだけど、品の好い雑誌のインタビューは受けてるみたい。同じ北鎌倉に隠棲したのに、原節子のように完璧な雲隠れは不可能だったのかしら。あと、例外的に隣人の陶芸家が一人」
「三津田さま?」
「よく見てるわね。枯れた老人を装いながら、かなり好色だから、気をつけたほうがいいわ。時には腕力にモノを云わせることも必要よ。それから、階段の途中に木戸があったでしょう。郵便も宅配も、来られるのはあそこまで。荷物は私か、道雄が取りに行く」
「庭師ですか」
「道雄が庭師だと、なぜ判ったの?」覚えず目を見開いた。
「ポーチから庭を見ましたが、隅々まで手入れが行き届いているようでしたので」
「なるほど、しかもこの季節だし。棲み込みの庭師がいなければ、まるで龍安寺みたいに庭を整えることは不可能、というわけ。美架、あなたってさあ……」
言葉を継ぎながら、あたしはなぜか、背筋が凍る思いがした。
「シャーロック・ホームズみたい」




