第十二回
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目の前で京林が急に手を叩いたので、「ジークフリート牧歌」の演奏が終わったことを知った。まともに弾けば二〇分を超えるはずだが、いつの間に時間が過ぎたのだろうか。
まばらな拍手の中、長篠明子はピアノの前から立ち上がっていた。周囲に笑顔をふり撒きながら、真っ直ぐ私たちのテーブルへ近づいてきた。京林がまた片手を上げてみせ、隣で蒲良はチェシャーキャットの笑みを広げた。
「雅晃さん、蒲良先生も。来てくださったのですね」
涼しげな、けれどかすかに妖艶な香りがした。どこか人を落ち着かなくさせる、早春の夜の匂いだ。ドレスのせいもあるのだろうが、遠目で見るよりもずっと肉感的で、口紅の赤が笑顔に好く映えた。
まともに私の目を覗きこむようにして、会釈されたときは、心拍数が跳ね上がった。京林だけ下の名で呼ばれたことが、もちろん気になっていたが。
「誕生日なんだって?」
横長の笑顔のまま蒲良が云うと、花が咲くように明子の頬が染まるのを見た。
「よくご存じですのね」
「それにちなんで今夜は、驚天動地の趣向が用意されていると聞いた」
「どうしてそれを?」
齧歯類のように瞳を動かし、両手で口もとを押さえる可憐な仕草。抜かりなく髪を掻き上げてから、京林が満を持したように口を開いた。
「世の中の情報通は、なにも週刊誌の記者だけじゃない。アキちゃんにも何度か話したろう。こちら、堀川秋海先生を紹介するよ」
「ご高名はかねがね……」
ぎこちなく握手に応えている彼女の顔に、ありありと怯えの色が浮かんだ。こんな「妖怪」を目の当たりにしたのだから、同情を禁じ得ない。
しかし彼女同様、何一つ知らされていない私もまた、ひたすら疑問符を浮かべるばかり。こんな小さな店で行われる「驚天動地の趣向」とは? あらかじめそれを堀川が嗅ぎつけて、今宵の一席が設けられたというのか。
「親しいんですね」
ついに自分だけ紹介されなかったことに、臍を曲げたわけではない。明子が立ち去ったあと、けれど私は、さっそく京林に尋ねずにはいられなかった。ショパンの「革命」に、うっとりと耳を傾けながら、かれは例によって髪を掻き上げた。
「藝大で講師をしている友人がおりまして。かれの紹介で、彼女が私の読者だと聞いたんです。演奏会をみせてもらったところ、線は細いが、なかなか侮れないってことで。蒲良くんともども、懇意にさせてもらってますよ」
「ふん、お目当ては彼女の『お姉さま』じゃないのか」
茶化す蒲良に、京林は露骨に厭な顔をしてみせた。「お姉さま」という、一種異様な響きに、私は覚えず反応していた。
「姉、ですか?」
「血縁的な意味ではないんです。長篠明子のカリスマであり、強大な壁でもあるのでしょうね。例の趣向とも絡んでるので、追々判ってきますよ」
蒲良准教授の曖昧な言い廻しを聞く間も、私の視線は長篠明子の周りをさまよっていた。
なるほど京林が評したとおり、ずっしりと横たわるグランドピアノに対峙する彼女は、いかにも細い。荒々しいフレーズを弾き出しながら、まるで髪を乱した彼女自身が「革命」に翻弄されているように見える。
けれどもそんな風情が、根底に優美さを宿すショパンの曲と、非常に似合ってもいる。
「ずいぶんと、お気に召したようだね」
堀川の声には、心を見透かしたような皮肉が籠められていた。どぎまぎする私を尻目に、かれは鞄から分厚い茶封筒を取り出した。酒杯と簡単なオードブルだけになっていたテーブルが、急に手狭に感じられた。
「さて、密談といこうじゃないか。酒井くんにはまずこれを、先入観なしで読んでもらいたいんだ。話はそれからになる。まあ、我々は美人の演奏を聴き惚れているから、ゆっくり読むといい」
封筒の中身はA4用紙に刷られたワープロ原稿とおぼしく、分量は短めの短篇小説ほどか……
Mへ
冒頭にそうしたためられた、書簡体らしい文章をざっと目にしただけで、私は云い知れぬ戦慄に見舞われていた。




