第十三回
予感。
たしかにそれは、予感だったのかもしれない。
嵐の来る前に、蜘蛛が高く巣を張るように。あるいは沈没する運命の船から、鼠が姿を消すように。本能レベルの恐怖に、瞬時、捕らえられたのかもしれない。
読み終えるのに、十五分もかからなかった。物語として面白く読めだが、事実と呼ぶにはあまりにも荒唐無稽。にもかかわらず、私は最後の一枚が「楽譜」でなかったことに、心から安堵していた。
顔を上げると同時に、パレルモの路地裏から新宿の場末へ引き戻された。明子の演奏は曲が変わっており、「月光」の旋律が、私の神経に冷たく絡みついてきた。
「読まれましたか」
蒲良が云い、堀川と京林がひそひそ話を止めた。なかば無意識に、私は冷水を咽に流し込んだ。
「これは、堀川先生の創作なのですか?」
文体が似ていることには、最初から気づいていた。けれどもそうであって欲しいという願いが、口をついて出たのだろう。堀川は破顔した。
「無理もない。ざっと説明しておくと、書簡の所有者は京林くんだ。ドイツ語で書かれていたのでね、蒲良氏に対語訳してもらい、さらにうん砕けた調子でおれが語り直したのが、この原稿というわけさ」
あまりにも粗略な説明だが、経緯は理解できた。
「つまり、オリジナルの書簡が実在すると?」
「その点は間違いありませんよ」
疑ったつもりはないのだが、京林の声には苛立ちが含まれていた。堀川が云う。
「かれは自他ともに認める本の虫でね、とくに稀覯本には目がないタチさ。また手刷りのパンフレットやら自筆原稿やらにもご執心らしく、怪文書の蒐集に余念がない。むしろ『蒐怪』の号が相応しいのは、京林くんのほうかもしれん。まあおれの場合、容貌に引っかけてのシュウカイ、なんだがね」
「薔薇十字運動の発端も、数冊の薄っぺらなパンフレットに過ぎませんからね」
赭ら顔の前で、蒲良がジンジャエールのグラスを振ってみせた。氷の音が、くぐもったカウベルのように響く。
「ローゼンクロイツとかいう怪人物の行状を綴った、小説なのか、はたまた狂人の夢か。そんな怪しげな小冊子が、やがてヨーロッパじゅうを席巻する神秘思想の起爆剤となるんだから、侮れませんよ」
「書簡や自筆原稿に紛れて、死海文書級の大発見が、古本屋の片隅に眠っていないとも限らない。そんな想いが、京林くんの安眠を夜な夜な、妨げているんじゃないか」
堀川に指さされ、フランス文学者はいかにも神経質に眼鏡の位置を正した。
「考古学的な発掘には、興味ありませんね。学術的な価値なんかどうでもいい。ぼくはただ、面白ければいいんです」
「その点は、おおいに賛同させていただくよ」
「酒井さん、でしたね。およそ一月前でしたか、懇意にしている洋書のブローカーから、電話がありましてね。いかにもぼく好みの書簡を手に入れたから、売りに出さずに取り置いてある。見るだけでも見てくれないかと云うんです」
やはり好きな分野なのだろう。京林は身を乗り出し、軽く前髪を弄りながら語るのだ。
「ハンガリーからの便に紛れ込んでいたとやらで、言語はドイツ語。それなら蒲良くんの領域なんですが、この男は吝嗇家で古文書には決して手を出さない」
「安月給なのでね、売れっ子のきみと違って」
「取り置きの期限は一週間。ぼくだから特別に安く出すのだと云いながら、二十万もふっかけてきましたよ。癪に障ったが、ふっかけられればそれだけ、食指が動いてしまうのもコレクターのサガ。そこでこの吝嗇家を護符代わりに連れて、『見るだけ見に』出かけた次第です」
ブローカー氏は店舗を構えていないため、都内の喫茶店で落ち合った。
十枚ほどの便箋に、細かい文字がびっしりと書き込まれていた。ペンが一気に走るさまが手に取れるようで、修正の跡もほとんどない。紙はすっかり黄ばみ、虫喰いや染みがあるものの、判読できない箇所はなさそうだ。
最後の数枚だけサイズが異なり、それが楽譜なのだった。
「喫茶店のすぐ前が銀行でしたよ。それでこの店を指定してきたんですね。隣で蒲良くんがざっくりと訳してくれるのを聞くまでもなく、ぼくは念のため用意していた書類ケースに、書簡の束を詰め込むことになると確信していました」
楽譜は別料金だと云われ、けっきょく京林雅晃は、三十万円をその場で投げ出したのである。




