第一回
拍手を、諸君。喜劇は終わった。
ルードヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン
序曲
Mへ
代金、四十ドゥカーテンは、たしかに為替で受け取った。歳のせいか、近頃では目がかすみ始めてね、細かい仕事も覚束ないが、まだまだ工房の弟子どもに、すべて放り出すわけにもゆくまい。せいぜい睨みが効くうちは精進するつもりだから、今後とも宜しく頼むよ。
音楽の都のお株は、きみの国もとにすっかり奪われてしまった感があるね。どこぞの新興国なんぞ、よほど首ったけみたいだし。ヘンデルしかり、バッハの息子しかり、そしてハイドンしかりだ。煙臭い工場の親方連中が劇場に押し寄せては、帽子が宙を舞うほど喝采の嵐と聞く。
イタリアにはオペラがあるじゃないか。きっときみは、そう云うだろうな。なるほど最近は、ロッシーニとかいう胡散臭いやからが、のさばっているが。そうそう、歌劇といえば、こいつをオペラと呼べるかどうか疑問なんだが、ちょっと面白い話があってね。お礼がてら、きみの耳に入れておくのも一興かもしれない。
半月ほど前から、当地に旅芸人の一座が流れ込んでいる。
半分ジプシーみたいな連中さ。大聖堂の影もささないような、荒れ寺を小屋代わりに棲みついてね。あやしげな訛りのあるフランス語で口上をまくし立てるが、楽屋で囁かれる私語を聴いたら、きみもゾッとするだろう。
一言も意味の判らない言葉は獣じみていて、とても人間の会話とは思えない。まあ、正体は東欧あたりの少数民族がじゃないかと、おれは睨んでいるがね。
連中が興業を始めるやいなや、たちまち巷で評判になった。それも大きな声では云えないような噂が噂を呼んで、どこぞの貴族や坊さんまでが、破れ服に身をやつしては、薄汚いテントへ足を運ぶのだとか。小屋では、夜な夜な奇怪なオペラが上演されるのだとか。
所詮、旅芸人のやらかすことさ。まともなオーケストラなんざ、持ってるわけがない。どうせ大半のパートはバッハが焚き物にし損ねたクラヴィーアに、擦り切れたヴァイオリンで誤魔化されるんだろう。歌もカラスの合唱みたいで聴けたものじゃなかろうが、なに、おおかた一人だけ、とびきりの別嬪が混じっているという仕掛けさ。
ナポレオンのお后みたいなきわどい恰好でね、花形のソプラノ歌手が蝋燭の炎に浮かび上がれば、大向こうの紳士諸君に大受けなんだろう。
ほとんどおれの予想どおりだったことは、間もなく判明した。
ただ、予期に反して、連中の胡散臭さは、それだけではとどまらなかったんだが。
ジルフェと名乗る団長が、突然おれの工房を訪ねて来たのは、七日前。
グノームの間違いだろうってくらいの小男で、髭と燕尾服の裾ばかりが、立派にはためいている。髪粉たっぷりの鬘をつけて、化粧した様子なんざ、ルイ十四世の宮廷から化けて出たような御仁さ。
そいつが真っ赤な唇をべろりと舐めて、みょうな猫撫で声を出した。そのときもやはり、訛りのあるフランス語でね。
「どうかパレルモで名高いあなたの作品を一挺、譲っていただけませんか。あいにくと、当楽団の第一ヴァイオリン奏者の愛器が、すり切れてしまいましてな。もちろん、相場どおりのお代は支払わせていただきます」
持って廻った云い草だが、おれが贋作者だと見越した上で交渉するのだろう。表向きは椅子職人の看板を出しているし、周囲にもその顔で通ってるはずなんだが、どうして旅芸人風情に見透かされたのやら。ばかみたいに目を瞬かせていると、たたみかけるようにやつは云った。
「つきましては、お近づきのしるしに、今晩の公演にぜひご招待させていただきたい」
まるで裏金でも掴ませるように、ジルフェと名乗る小男は、一枚の紙切れを差し出した。入場券のつもりらしい。古拙な木版画で刷られているのは、いわゆる人魚だろうか、下半身が魚で上半身は裸の女が、しきりに髪を振り乱している。
修道院の写本みたいな飾り文字のタイトルは、
ウンディーネの嘆き
と、かろうじて読めた。
おまけに蒼いインクで変てこな判が捺されていてね。正三角形の中に一つ眼が収まっている。こいつはピラミッドのつもりじゃないか? そう気づいたときは、さすがにぎょっとしたよ。
ジプシーどもが例外なく、エジプト流れだとうそぶいているのは、きみも知ってるね。未来を予言するいう、やつらが操るみょうなカードも、もともとは秘儀が記されたエジプトの神殿の壁画だったとか。古代の大王国が滅亡するに及んで、連中の先祖が壁画をばらばらのカードに写して、持ち出したとか。
だが、そのときおれを震え上がらせたのは、そんな黴の生えた伝説じゃない。ある組織の名が、唐突に思い起こされたからだ。
ほかでもない、フリーメイソンだよ。