食事は皆で 賑やかに
長い一日が終わった。今日はおかしな一日だった、とラズウェルは思い返していた。原因は、父上に命じられてやって来た乳母とその子供達だ。
乳母が想像以上に若かったのにも驚いたが、まるで“女性”を感じさせない振る舞いにも驚いた。なんせ出会い頭に子供の首根っこを掴み上げるような女だ。あれは自分にも非があったが、それにしてもあんな事を躊躇いなくするのはシャーリルくらいだろう。子供達にはシャルと呼ばれていた。貴族や上民には考えられない以前に、女性のする事ではないと思う。
それに、あの子供達もちょっと変わっていると思う。クロウも、リアも、ミルーも。あと……確かサフィと、ティア。
誰もが生き生きとしていて騒がしい。大人しくみえたティアやサフィやリアも、シャーリル達と一緒になってああだこうだと言い合っている。騒がしいのに嫌な気分にならないのが、ひたすら不思議だった。
それにしても今日驚いたのは、自分が走った事だった。もちろん、走った事がないわけではない。自分が走った理由に驚いた。今までは大概逃げ回る時だった。
勉学が嫌で。謁見が嫌で。稽古が嫌で。父が、嫌で。
それなのに今日、リアとレヴェリーにつられて走った。本当に“つられて”走ったのだが、妙に足が軽かった気がする。それを思い出してくすりと笑うと、ルヴィスが不思議そうにこちらを見ていた。
「……走るのが楽しいだなんて、久しぶりに思った」
そう言うと、僅かに目を見開いた後、口を笑みの形にして小さく頷く。反応の乏しいルヴィスのこの反応は、ラズウェルには十分だった。それだけでとても嬉しくなる。
「それにな、クロウというのが、あの子息達をからかって逃げただけじゃなく、その後お茶をした時は全くそんな素振りがなかった。子息達もあんなに怒っていたのにな。忘れたようにクロウに絡んだりしなかったんだ。可笑しいだろう?」
くすくす笑うラズウェルに、ルヴィスは頷いて返す。
「リアというのも面白い。見た目では貴族の子息にしか見えないのに、口を開けばそんな気配が消えてなくなるんだ。それに強引だな。あのカロヴァ家の子息がえらく困り果てていた。」
ラズウェルがとても楽しそうに話すのを見て、ルヴィスは今までの緊張が溶けていくのを感じた。母君が亡くなってから今まで、約五年。まるで輝きを失った大切な子供が、久々に明るさを取り戻していた。
ラズウェルが話す事を嬉しそうにルヴィスが聞いていると、とんとん、と部屋の扉がノックされた。侍女とは違うノックに、ラズウェルが少し不安気な顔をするが、ルヴィスがのんびり構えているのを見て警戒を解く。
「誰だ」
すると少し困ったような声が返ってきた。
「シェイザードです、殿下。今よろしいでしょうか?」
「ああ、入れ」
何故かそっと扉を開けるシェイザードを不思議に思って眺めていると、一気にぱっと扉が開かれ、クロウ達がなだれ込んできた。驚くラズウェルとルヴィスにも怯まず、わらわらと側へやってきて笑いかける。これが貴族や子息達だったらすげなく追い返しているところだ。なんと言っても笑顔が心地悪い。けれどシャーリル達からは嫌な気配がしなかった。
「晩飯まだだろ? 一緒に食おうぜ」
「……ばんめし?」
「夕餉の事です、殿下」
「ラズだよ、ティア。礼儀正しいのはすごく良い事だけど、それじゃあちょっと他人行儀じゃない?」
「あ、そうか……すみませ——じゃなくて、ごめんね、ラズ」
「……」
「ラズ! 一緒に食べようよ」
ラズと呼んでいいと欠片でも言っただろうかとラズウェルが悩んでいると、やや下の方から可愛らしい声が飛んできた。きらきらと目が輝いているのを見ると、断るという選択が薄れていく。思わずうっと息を呑み込むと、すぐ隣にいたサフィがにやりと笑った。
「ミルーも一緒に食べたいって言ってるし、いいよね?」
「いや、食事はいつも一人で食べているから……」
大勢で食べる、というのが不自然な気がしてそう言うと、ぽん、と頭に手が乗せられた。驚いて見上げると、シャーリルが柔らかい笑みを浮かべて見下ろしていた。その笑みが温かくて、何故だか胸が熱くなった。
「皆で食べた方が楽しいし、美味いぞ?」
「……」
思わずシャーリルを見つめていて、慌てて視線を逸らすとルヴィスと目が合った。すると、僅かに頷いたのだ。言っておいでと背中を押されているようで、目頭が暖かくなってしまって、慌てて頷いた。
「そうだな。皆で食べよう」
さも当然のように頷いてみせて、涙目になったのを悟られないようにさっさと歩き出した。すると背中越しにとんでもない台詞が聞こえた。
「あんたも一緒に食べようぜ」
何!? と振り返ると、言われたルヴィスが驚いて固まっていた。その様が珍しくて、面白くて、気付けば笑っていた。
「あははっ! ルヴィス、同席を許す。一緒に食べるぞ!」
主にそう言われてしまったらもう断れない。ルヴィスは苦虫を噛み潰したようなひどい顔で、シェイザードにくすくすと笑われながら主の後を追って王子の自室を後にした。
いつもは一人で食べていた食卓。十人程がかなりゆったりと座れる卓が、今晩は実に有効に使われていた。
ラズウェル付きの侍女達が異様な光景でも見るように戸惑っているが、いつもシャーリル達の給仕をしていた者達は楽しそうにしている。宮に仕えている者で楽しそうに仕事をしている顔は見た事がなかったから、正直驚いた。けれど、シャーリル達の会話を聞いていると自然と頬が緩む。
ラズウェルの右隣にルヴィスとシェイザードが座り、さらにティアとミルーが。そして左隣にシャーリルとクロウ。さらにリアとサフィが座り、円卓で賑やかな食事が始まった。
——たくさんで食べる食事は何時ぶりだろう?
「あ、この肉美味いっ!」
クロウが嬉々として厚めのお肉にかぶりつくと、すぐさまティアが注意した。
「クロウ、ラズの前なんだから……」
「大丈夫だよティア。言葉遣いや所作は専門の教師がついてる筈だし」
リアがそう言うと、ティアはしぶしぶ頷いた。
「それは……そうでしょうけど……」
「殿下はどうお思いになりますか?」
「え?」
突然シェイザードが話しを振ってきて、ラズウェルは驚いて瞬きした。しかも自分でも思ってもみないほどするりと言葉が出てくる。
「気にする事はない」
言ったところでクロウと目が合って、にっと嬉しそうな笑顔が向けられた。
「飯はかぶりついた方が美味いからな!」
「それを言うなら、“クロウは野生児だから”だよ」
リアが笑いながらそう言うと、クロウがにやりと危ない笑みを浮かべる。さっとクロウが身を乗り出してフォークをリアのお肉に突き刺そうとするのと、リアがクロウの襲撃を察知してお皿を避けたのとはほぼ同時だった。
ちょっと野菜がこぼれたのは仕方がないだろう。
「リア! こぼしてるわよ」
すかさずティアが言うと、リアが笑って手で摘む。ラズウェルは驚いてリアを凝視してしまった。手掴かみなど、しかも皿から零れたものを摘むなど以ての外だ。
「あ、ほんとだ。ごめんごめん」
さらにリアが摘んだ野菜をそのまま口に入れるので、ラズウェルはぽかんとしてしまった。
「ティアは良い嫁になるよな、きっと!」
にやにやとシャーリルが言うと、ティアはぴしりと言い返す。
「ごまかさないの。机の後片付けはいつも私じゃないの!」
「でも今は侍女さんや給仕さんがやってくれるよ?」
サフィがそう突っ込むと、ティアはにこりとサフィを脅した。
「誰かが片付けてくれるからって、汚していい理由にはならないの。分かるでしょ? サフィ」
「うっ……(女って怖い)」
「なあに?」
「いや、そうだよね。汚さないようにしないとね」
「あ、こぼしちゃった……」
神妙に頷くサフィの横でミルーが呟いた。見ると、スープを飲もうとして盛大にこぼしてしまったようだ。思わず絶句する全員。すると——。
「あははっ、やるなぁミルー!」
シャーリルが大笑いし出した。お腹を抱えて。それに唖然としたのはラズウェル、ルヴィス、シェイザードだ。
「ほんとだ。ミルー、そんなに慌てなくてもいいんだよ?」
リアがそう言いながらナフキンでさっと拭いていると、サフィがくすりと笑った。
「クロウに食べられると思って急いだんだよね、ミルー」
「サぁ〜フィ〜」
にじり寄るクロウからさっと逃げてミルーを盾にする。その間に侍女達が綺麗に片付けてくれていた。
「クロウはミルーの分食べたりしないよ。ね」
ミルーがにっこり笑ってそう言うと、クロウはうっと呻いてサフィを追いつめるのを止めた。ちょっと頬が赤くなって、うーっと唸る。
「良かったなークロウ」
にやにやしながらシャーリルがそう言うと、クロウはすごすごと席へ戻る。
「うるせーなぁシャル」
席へ戻ると同時にシャーリルがクロウの頭をぐしゃぐしゃ撫でる。驚いて見守る三人の前でも、クロウは特に嫌がらずにされるがままでむくれていた。その顔をまじまじと見てしまっていたラズウェルは、クロウと目が合ってかなり焦った。が、言葉が出て来ない。
「……なんだよ」
とクロウが言えば。
「あ、いや……」
とラズウェルが口ごもる。お互いしばらく黙りこくって、シャーリルとシェイザードの忍び笑いで緊張が溶けた。
「何笑ってんだよシャル!」
「シェイザード……」
子供二人にそれぞれ睨まれ、一瞬目を合わせた後、余計に笑いが抑えられなくなった。
「殿下がそのように気まずそうにされるのを初めて見たもので、つい」
「ついとはなんだ。見て面白いものではない」
「そうだぞシャル。人の顔見て笑うなよ」
二人が息ぴったりで睨むものだから、シャーリルはツボにはまって大笑いが止まらない。それを見て怪訝そうな顔をしているのはルヴィスだけで、後は侍女や給仕の者達でさえ、控えめにだが笑っていた。
果たして宮内でこれだけ賑やかな食事があっただろうか。王妃が亡くなって約五年。笑顔を無くし、会話らしい会話もしなくなった幼い王子を見て、心を痛めてきた者達、その一握りではあるが、今夜その心が癒されようとしていた。
クロウと子息達の追いかけっこから数日後。
貴族であるエーセル家の朝はちょっと騒がしくなっていた。
慌ただしく家を出る準備をする息子を見つめ、シセル=エーセルの母、リピスは息子に問いかける。
「離宮で何かあるの?」
問われてシセルはびっくりした。
「え? どうして?」
動揺も露に焦る息子に、リピスは思わず微笑む。
「だって、とっても急いでいるから」
数秒目が泳いだ後、シセルはいそいそと準備を再開した。とは言っても、後は身なりを鏡で確認するのみだ。さっと確認したら無理矢理笑顔を作って玄関へ向かう。
「そんな事ないですよ。殿下より遅れるなんて粗相をしたくないだけです。じゃあ行って参ります、母上」
「あっ……」
いってらっしゃいと言う前にシセルは屋敷を飛び出していった。侍従を置き去りにして。
同じ日。後宮の与えられた部屋で、ラルセーナ=エーセルは一通の手紙を読んで首を傾げた。ふわふわの金髪を緩く結わえ、首を傾げた拍子に後れ毛がするりと流れる。
「ララ様? いかがなさいました?」
ラルセーナの侍女であるアルラは、連日届けられる手紙を読む度に首を傾げている主を見て、思わずそう問いかけた。すると主人は悠然と微笑み、手紙をていねいに畳んで机へ置き、すっと立ち上がる。
「この間から、シセルが離宮へ行くのを楽しみにしているそうなの」
「まあ、シセル様が?」
アルラは主人が出かける気配を察知して、すぐに身支度を整え始める。主人の青い瞳とふわふわの金髪と、柔らかな白い肌とたおやかな身体つきが引き立つような装いにしなければ。
「離宮には最近、乳母が入ったでしょう?」
「下民の乳母だという噂ですわね」
不服が顔に出ていたのだろう。しかしラルセーナも苦笑した。
「フェルセイル様が離宮からお帰りになる度に機嫌が悪くていらっしゃるから、とんでもない乳母だというのは察しがつくのだけれど……」
さっと着替えを済ませて軽く化粧をし直すと、主人はゆっくり部屋を出る。それに当然付き従う。
「そんな離宮にいるシセルが、楽しみにしているようだ、なんて言われては心配になってくるわ」
「……左様ですね」
控えの間を通り抜け、廊下へ出る扉をくぐりながら、美貌の主人は嘆息した。
「悪い影響を受けていなければいいのだけれど」