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第八十八章

 この村も巻き込まれた。


 よし。


 ディスコルディアは丘の上に立ち、眼下に広がる小さな集落を見下ろしていた。


 人々は相変わらず生活をしている――薪を割り、水を汲み、乾いた洗濯物を家の中に取り込む。


 誰も知らない。自分の運命が、ほんの少しだけ揺さぶられたことを。


 彼女はもうポレモスの勧め通りに動き始めていた。


 もちろん、彼女は戦略だの大局だのには興味がない。


 ただ――この光景を見ると、かなり心が晴れるのだ。


 これが彼女が唯一、気兼ねなく能力を使える時だから。


 稲妻が指先から飛び出す。針のように細く、音もなく村へと消えていく。誰も気づかない。


 彼らはただ感じるだけだ――今日はなんだか苛立つ、隣人のあの一言がやけに耳に障る、自分の女房の目つきがいつもと違う、と。


 それで十分だ。誤解は自分で育っていく。カビのように、彼女がかつて見たあの――もう放っておけばいい。自分たちで道を見つけるのだ。


 彼女は背を向け、一筋の白光となって遠くへと飛び去った。


 風の音が耳元で鋭く鳴る。大地が足元に広がり、川は銀色の血管のように、町は盤上の駒のように見える。彼女は速く飛ぶ。影さえ追いつけないほどに。


 そして、彼女は止まった。


 あの道。


 彼女は空中に留まり、荒野の間を蛇行する土の道をうつむいて見つめた。


 長い年月が経った。しかしそれはまだある。


 雨水に削られた溝はより深くなり、道端の灌木は高く伸びたが、大まかな道筋は変わっていない。


 彼女にはこの道が分かる。地図も道標も必要ない。一度通っただけで、決して忘れない。


 あの頃、彼女はまだ小さかった。馬車の中に座り、車の簾の隙間から外を眺めていた。両親が前の方で話している。声は低いが、その口調にはめったに聞かない何かがあった。後になって、それは焦慮じょうりょと呼ばれるものだと知った。


 地震があった。地下から何かが這い出てきた。念のため、遠回りをしなければならない。


 遠回りでも構わない。あの頃の彼女は思った。両親に付いていけば、どこへでも行ける。


 それが死路しろだとは知らずに。


 ディスコルディアは空中に留まり、下へは降りなかった。彼女の指は微かに縮こまり、また開く。あの白光が指先で明滅する。まるで彼女に早く立ち去れと急かしているかのようだ。


 彼女は動かなかった。


 それらの記憶が潮のように押し寄せる。彼女には止められない。止めたくもないのかもしれない。


 幼い頃、両親は商人だった。


 行商の者に地図はいらない。道は足の下にあり、また代々伝えられてきた記憶の中にある。


 彼女の父はよく言った。道を間違えなければ、商品は高く売れる。道を間違えれば、命を落とすこともある、と。


 あの頃の彼女には分からなかった。ただ、両親に付いていけば、どこへ行っても安全なのだと思っていた。


 あの遠回りの道まで。


 地震の後、彼らは道を変えた。同行したのはもう一つの隊商。人数が多ければ、何かと安全だ。


 両親は金を出し合い、隊商と一緒に沿道の関所を「根回し」した。一度、二度、三度。金袋はどんどん痩せていくが、道のりはまだ長い。


 隊商の頭領は父の肩を叩いて言った。安心しろ、我々がついている限り、お前たちの安全は保証される、と。


 母は信じた。父も信じた。


 彼女は馬車に隠れ、車の簾の隙間から外を眺めた。父が金袋を差し出し、頭領が笑ってそれを受け取り、彼らの手が握り合うのを見た。彼女はそれを友情だと思った。


 後になってそれが取引とりひきだと知った。


 金が尽きた。隊商の頭領が言った。道はまだ長い、もう少しなんとかしろ、と。父は本当にないと言った。頭領の笑みが消え、仲間たちと何か打ち合わせた。


 そして彼らは車の扉を閉めた。


 彼女の耳に、外で言い争う声が聞こえた。押し合う音。母の声――彼女は許しを請うていた。


 それから父の声。短く、鈍く、何かが地面に叩きつけられたような音。


 そして何の音も聞こえなくなった。


 ただ血だけが、車の扉の隙間から染み込んできた。一滴、一片、一溜まり。


 彼女は車の隅に縮こまり、自分の口を押さえた。泣くことも、声を出すことも、息をすることもできなかった。


 彼女は思った。もしあの時、遠回りなんてしなければよかった、と。


 稲妻が彼女の指先で炸裂した。


 ディスコルディアははっと我に返った。


 あの白光が彼女の手から飛び出し、遠くの岩山を打ち、砕けた石が転げ落ち、鳥の群れを驚かせた。


 彼女はうつむいて自分の手を見た。まだ震えている。


 もう何年も経つのに、まだ震えている。


 彼女は深く息を吸い込み、込み上げる感情を押し戻した。


 そして彼女は背を向け、サンタリアの方へと飛び去った。


 彼女はあの道には一度も行かなかった。一度も。


 後になって彼女は知った。自分はある神に選ばれた欠片なのだと。商人たちの間で語り継がれるあの話は、本当だったのだ。


 彼女は能力に覚醒した。人を誤解させ、信頼を崩壊させ、最も親しい者同士を敵対させることができる。


 なんて好都合こうつごうなんだ。彼女は思った。


 彼女は相変わらず商人を続けた。両親と同じように。しかし彼女はもう誰も信じなかった。他人を信じる者は、死ぬのだ。自分の両親がその何よりの証拠だ。


 彼女は嘘を覚え、偽装を覚え、笑顔の下に刃を隠すことを覚えた。


 最初はただの自己防衛だった。やがてそれは習慣になり、さらにその後は――どれが本当の自分か分からなくなった。


 彼女は自分自身を誤解し始めた。


 私は本当にディスコルディアという名前なのか?両親は本当にあんな風に死んだのか?私は本当に……あんな経験をしたのか?


 記憶はぼやけていく。水に浸した字のように。彼女は時折真夜中に目を覚まし、天井を見つめ、自分がどこにいるのか思い出せなくなる。


 これは呪いだ。彼女は思う。能力なんかじゃない。呪いだ。


 彼女は大陸中を駆け回り始めた。


 ある町から別の町へ、ある集団から別の集団へ。


 彼女は立ち止まりたくなかった――立ち止まれば考える。考えれば痛むから。


 彼女は自分がどれだけ生きたのか覚えていない。


 あの白光が彼女の体内に入ったあの日から、彼女の時間は止まっている。


 鏡の中の顔は決して老けない。ただ髪だけが年々白くなっていく――こめかみから始まり、電流のようにゆっくりと広がっていく。


 彼女がサンタリアに来るまで。


 あの街はどこもかしこも違っていた。


 鋼鉄と歯車で積み上げられた都市。黒煙を吐き、蒸気を噴き出し、彼女が見たことのないもので溢れている。


 それは浮いていた。場違いで。


 まるで自分自身のように。


 彼女は城門の前に長く立っていた。長く、衛兵たちが奇妙な目で彼女を見るほどに。そして彼女は中へと歩いていった。


 彼女が科学技術総局かがくぎじゅつそうきょくでポレモスに出会ったのはその時だ。


 あの時、彼女はまだ彼が何者か知らなかった。ただ、あの蒸気人たちの主理者だということだけを知っていた――自分を半人半馬に改造した変態へんたいだと。


 彼は彼女に言った。「私はお前が何者か知っている」


 彼女は何も言わなかった。彼女の指はもう稲妻を放つ準備をしていた。


「傷つけたりしない」


 彼の声はとても低く、歯車が鉄の軌道を碾くようだったが、彼女には悪意は感じられなかった。


「じゃあ、何が欲しいんだ?」


「手助けしたい」


 彼女は笑った。


「手助け?私が何者か分かっているのか?」


「誤解」と彼は言った。「お前は誤解そのものだ」


 彼女の笑みが固まった。


「捕まえに来たわけではない」


 ポレモスは言った。その口調は平静で、とっくに確定した事実を述べるかのようだった。


「私は誘いに来たのだ」


「何の誘いだ?」


「私を手助けしてくれ」


 彼女は長く彼を見つめた。


「何を手助けする?」


「戦争だ」


 彼女は断るべきだった。分かっている。戦争は人を殺し、多くのものを壊し、無数の人々を流浪させる。彼女はそれを経験している。その味を知っている。


 しかし彼女は断らなかった。


 なぜなら彼女はあの道を思い出したからだ。あの強盗たちを思い出した。両親の血が扉の隙間から染み込んでくるのを思い出した。


 もしあの時、自分に能力があったなら――全ては変わっていたのではないか?


「いいだろう」と彼女は言った。


 ポレモスは彼女を見つめた。あの歯車の嵌った目に、何かが一瞬走った。


「私が守る」と彼は言った。「誰にもお前を傷つけさせない」


 彼女はそれが取引とりひきだと思った。自分を守る代わりに、彼女の能力を利用するのだと。


 後になって彼女は知った。彼が言っていたのは、別のことだったのだと。


「世界で最も美しい娘」


 彼女がこの言葉を初めて聞いた時、ポレモスが冗談を言っているのだと思った。彼女は声を出して笑った。


 騎士文学というものは全て嘘っぱちだ。あの紳士的な振る舞いも、忠誠の誓いも、侵略を正義に見せるための手段に過ぎない。


 彼女は信じない。一度も信じたことがない。


 しかし彼がその言葉を口にした時、彼女の胸は締め付けられた。


 なぜなら彼の目つきが違ったから――取引でも、利用でも、彼女が今まで見てきたいかなるものでもなかった。


 純粋だった。


 彼女は何と形容すればいいのか分からない。こんなものを感じたことは一度もなかった。


 彼女は断るべきだった。彼を嘲笑し、背を向けて二度と戻るべきではなかった。


 しかし彼女はそうしなかった。


 なぜなら彼女もまた、一人の人間だったからだ。


 自分はもうとっくに心は動かないと思い込んでいた、笑止しょうしな人間だったのだから。


 ディスコルディアはサンタリアの高台に立ち、眼下に広がる明かりの街を眺めていた。


 風は強く、彼女の白い髪を背後に舞わせる。


 彼女はあの道を思い出した。あの二度と通らなかった道を。


 もしあの時、道を変えなければ、両親は死ななかったのか?もし能力に目覚めなければ、こんな風にならなかったのか?もしサンタリアに来ず、ポレモスに出会わなければ——


 彼女は目を閉じた。


 もしも、などない。道はもう選ばれた。戻れない。


 彼女は背を向け、闇の中へと歩いていった。


 稲妻が彼女の指先で明滅する。決して消えることのない灯りのように。

こちらはディスコルディアの視点です。彼女は本来なら相互信頼できる人間だったのですが、ある出来事が原因で、誰も自分自身も信じられなくなってしまいました。もしかすると、ポレモスがこのすべてを変えてくれるかもしれません。

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