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第102章

 瀕死ひんしのヘマリスは、それでも外の声を聞くことができた。


 カリオペの声が聞こえた。とても慌てていて、悲しそうだった。その理由が彼女には分かった。


 元々、二人はアイセロン城内の、戦火にまれていない庭園ていえんを散歩していた。カリオペは「これってロマンチックだ」と言って、少し気乗きのりしないヘマリスを無理に連れて行ったのだ。


 それから、ヘマリスの鼓動が突然一拍止まった。続いて、もう二度と動かなかった。彼女は倒れ込んだ。カリオペが彼女を受け止めた。


 なぜだろう? ヘマリスは思う。自分はなぜこんなに呆気なく死んでしまったのか。


 暗闇の中で、一つの記憶が浮かび上がる。彼女がもう二度と見たくないと思っていた記憶が。


 ◇◇◇


「私だけを愛していると言ったじゃない! なぜ他の皆にもそんなことを言うの!」


「だって私は愛神あいしんだからね、ベイビー。愛を一人だけに注ぐことなんてできないの。博愛はくあいでいなければ、私の烙印が大人しくならないの」


「博愛? あなたの人渣ひとでなしじみた振る舞いを美化しないでよ。もうあなたに会いたくない!」


 ――私とカリオペだ。なぜあんなに辛かったんだろう?


 記憶が閃回せんかいし始める。


 彼女は愛神が最初に告白した相手であり、最も長く愛し続けた相手だった。しかし愛神は満足しなかった。他の神々に告白し続け、彼女たちと同じような親密な振舞ふるまいをし、ヘマリスと一緒にいる時よりもさらに楽しそうだった。


 あの頃のヘマリスはとても辛かった。彼女は記憶女神きおくめがみだったからだ。他の神々は時が経てば愛神の告白も、彼女の不誠実も、この感情も忘れてしまうかもしれない。


 しかしヘマリスは忘れられなかった。


 旧神の計画では、彼女は一つの欠片を残す必要があった。そして彼女は欠片にただ一つの名前だけを残した。


「あなたは自分が誰かを覚えていればそれでいいの、愛しい私。私はただ、あなたにこの全てを忘れてほしいだけ。それらは絶え間なく私とあなたを傷つけている。忘れてしまえば、もしかしたらあなたは幸せになれるかもしれない。そうでなければ、歓喜かんきさえも、どうやって私を喜ばせればいいのか分からなくなってしまう」


 だから、今のヘマリスの能力は「忘却」になったのだ。


 これは彼女自身の意志いしだった。あの感情の苦痛を永遠に銘記めいきし続けるくらいなら、忘れてしまった方がまだ実際的じっさいてきだ。


 しかし忘れるということは、口で言うほど簡単ではない。


 ヘマリスはそれでもあの烙印を覚えていた。誰かを探しに行きたいという思いを覚えていた。


 そして、彼女は愛の欠片であるカリオペをやはり見つけ、そして愛してしまった。


 愛神はヘマリスを憎んでいた。ヘマリスもまた愛神を憎んでいたからだ。


 彼女たちは皆、この感情の帰結きけつを憎んでいた――それはどちらの思いも満たしてはくれなかったのだ。


 ◇◇◇


「もう少し待って……彼女は、彼女は目を覚ますはずだ」


 見知らぬ少女の声が、格別かくべつに優しい。


 苦痛の記憶の深淵しんえんおちっていたヘマリスは、突然一筋の光を見た。


 彼女は目を開けた。目の前には、涙で幾筋もの筋を刻まれたカリオペの顔があった。


「よかった、ヘマリス。ようやく目を覚ましたね」


「私は一度もあなたを憎んだりしなかった」


 カリオペの声が震えている。


「あなたが私を憎むべきだ。私はまさに人渣だ。『博愛』という言い訳は、ただ自分を欺くためのものだったと、もちろん分かっている。かつて私はあなたをどれほど傷つけたのだろう……ごめん」


「もう過去のことよ、カリー」


 ヘマリスの声はとても軽いが、確かだ。


「あなたはいつだって、私の心の中にただ一人だけ住んでいる人」


 二人は周りをかえりみず、抱きしめ合って口づけを交わした。


「ん、ふん、すぐ近くに人がいるんだよ」


 ステュクスの声が脇から漂う。少しからかうような調子だが、触手はもう自覚的じかくてきおさまっている。


 ヘマリスはカリオペから離れ、光を自分の心の中にれてくれた少女を見た。


「私を救ってくれてありがとう。あなたは?」


「私は……エレ」


 少女の声は少しどもっているが、とても真剣だ。


「私がここに来たのは、ある人を感知かんちしたから」


「誰?」ヘマリスが尋ねる。


 エレは振り返り、少し離れた場所に立つモーリガンを見た。


「彼女」エレが言う。「モーリガン」


 モーリガンの眉が微かに寄る。


「私を感知したのか?」


「はい」


 エレはうなずいた。


「あなたの左目……それはフィトゥーラ様の目です。私、私はかつて自分の能力で彼女を助けました。その目が…私の光を覚えている。あ、あなたが近づいた時、私……感じました。あなたの身にはとても重い苦痛がある。私……あなたの分を少しだけいたい」


 モーリガンはしばし沈黙した。


 彼女は左目を通して見たあの少女を思い出した――いくつかの光球が彼女の脇に浮かび、その顔はぼやけているがどこか見覚えがあった。


 それがエレだった。


「あなたがあの時、フィトゥーラのそばにいた……」


 モーリガンが言った。


「はい」


 エレの声が軽くなった。


「彼女は私が初めて救った人です。あの時、私は自分の能力がうまくいくかどうか確信が持てませんでした。でも私は試しました。彼女は生き延びました」


「だから私も救いたいと思ったの?」ヘマリスが尋ねる。


 エレは首を振った。


「『思った』じゃない」


 彼女は言った。


「『必要』なの。私は感じるの……誰かが私を必要としているって。あなただけじゃない、たくさんの人が。でもあなたは私に最も近かった」


 モーリガンは彼女を見る。


 その身体はほとんどき通っていて、しかしそれでも光り輝いている少女を。


「あなたは来るべきではなかった」モーリガンが言う。


「分かっている」


 エレは笑った。


「でもそれでも私は来た。だって……それが私の存在する意味だから」


 モーリガンはそれ以上言わなかった。


 彼女はただ手を伸ばし、そっとエレの手を握った。


「ありがとう」と彼女は言った。


 エレは首を振り、少し疲れたが、とても温かい笑顔を浮かべた。


「いいえ。私……それが私のすることだから」

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