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第九十六章

 ポレモスの盤上で、黒方が先に動いた。


 灰色の炎が方格の間を逆巻き、傀儡たちは音もない足取りで前へ進む。


 8人の短槍を持つ歩兵が盾を掲げて列を成し、2人の重槌を持つ攻城者が焦げた溝を引きずり、2人の曲刀の戦騎が側翼を遊弋し、2人の灰色の炎の弓手が高所で弦を張る。


 カロンは白方の王の位置に立ち、流体の衣が身の周りで逆巻き、墨綠色の甲冑かっちゅうが幾重にも厚くなる。


 彼女は自分の脇にいる、同じ隊に強制きょうせいされたエルフ戦士たちを一瞥した――かつての死敵してきが、今は弓を握る手を震わせている。


 まったく皮肉だ。彼女は思う。昨日まで殺し合っていたのに、今日は肩を並べて戦えだと。


「ぼんやりするな!」彼女は叫んだ。「死にたくなければ、私の言う通りに動け!」


 エルフたちは歯を食いしばり、彼女の指揮に従った。


 ◇◇◇


 戦闘が始まった。


 カロンの心刺双刃しんしそうじんが手の中で回転する。振るうたびに、心臓が鎖に引っ張られる激痛が走る。


 彼女は黒方の陣線に突入し、双刃を左右に振るい、二人の歩兵の傀儡をどうから真っ二つに断つ。


 灰色の炎が断ち切られた箇所から噴き出し、傀儡は倒れる前に見知らぬ名前を叫んだ――それはどこかの戦場で実際に死んだ兵士の名前だった。


「黙れ」


 カロンは残骸を蹴り飛ばし、振り返って一人の戦騎の曲刀を防ぐ。


 金属がぶつかり、火花が散る。


 彼女の脊椎が輝き始める。蓄えられた苦痛が増えていく。


 それらの苦痛が滾る液体のように脊椎の中を流れ、解放の時を待っているのを感じる。


 ポレモスは盤の反対側で、長槍を横薙ぎに払い、白方のエルフ戦士一人を打ち飛ばす。


 彼の動きは速くはないが、一歩一歩が格子の上に踏み出され、何かに導かれるように正確だ。


 長槍の歯車が高速回転し、槍先が敵の体に突き刺さる瞬間、灰色の炎が傷口から炸裂する。


 まだ足りない。ポレモスは思う。カロンはまだ全力を出していない。


「カロン! お前の王が食べられそうだぞ!」彼は盤の中央に向かって叫んだ。


 カロンが振り返る――二体の戦騎が既に側翼を回り込み、彼女の王格に迫っていた。


「くそっ」


 彼女は目前の敵を捨て、反転して守りに入る。


 双刃を交差させ、二本の曲刀の斬撃を必死に防ぐ。


 鎖が張り詰め、心臓を掴まれたように痛む。


 彼女の脊椎の光が頂点に達し、そして彼女は蓄えた苦痛を解放した――双刃が彼女の脊椎と同じ光を帯び、威力が倍増する。


 一刀。二刀。三刀。


 二体の戦騎が灰色の炎となって消え去る。


 しかしカロンの脚はえ始めている。


 強大のきょうだいのいたみの代償――受ける苦痛が多ければ多いほど、解放した後の疲労は大きい。


 彼女の視界がぼやけ始め、流体の衣の厚みが減っていく。


 自分の力が指の間から砂のように流れ出ていくのを感じる。


 まだ倒れるわけにはいかない。彼女は歯を食いしばる。族人が見ている。


「まだ終わってない……」彼女は顔を上げた。


 女武神めぶしんが彼女の前に立っていた。


 他の傀儡より頭一つ高い、あの沈黙の影。手には双刃の長戟を携え、戟刃にはまだ灰色の炎が滴っている。


 彼女は盤上で最も致命ちめい的な殺手きるて――車の衝撃力、馬の機動性、象の遠距離脅威、歩兵の近接本能を全て兼ね備えている。


 カロンはあの虚ろな目を見つめ、ふと疲れを覚えた。


 身体の疲れではない。もっと深い、骨の髄から滲み出るような疲れだ。


 なぜ私はこの戦いをしているんだ? 彼女は自問する。復讐のため? 族人のため? それともただ……戦うこと以外に何をすればいいのか分からないから?


 女武神は彼女に考える時間を与えなかった。


 長戟が横薙ぎに払われる。カロンは双刃でかろうじて防ぐが、全身が数歩後退し、片膝をつく。


 流体の衣は戟刃が掠めた場所に裂け目を生じ、墨綠色の流体が血のように滴り落ちる。


「カロン様!」


 遠くで誰かが彼女を呼んでいる。もはや誰の声かも区別がつかない。


 ステュクスか? 彼女はぼんやりと思う。それとも……


 女武神が長戟を掲げ、最後の一撃を加えようとする。


「彼女は私のものだ!」


 一団の粘ついたものが盤の端から炸裂し、生き物のように広がり、絡みつき、カロンと女武神を引き離した。


 触手――吸盤を備えた、深海の気配を放つ触手が、女武神の長戟に絡みつき、彼女の腕に絡みつき、彼女の首に絡みついた。


 ステュクスが盤の端を引き裂き、無理やり中に押し入った。


 カロンは顔を上げ、自分の前に立ちはだかるその影を見つめた。


 深紫色の肌、桃色の長い髪、真っ黒な瞳に輝く星の点。


 彼女はこれまで、ステュクスがこれほど……頼りになると思ったことはなかった。


 くそっ。彼女は心の中で自分を罵った。何を考えているんだ。


 ポレモスの瞳孔が収縮する。


「ありえない」


 彼の声が強張る。


「私の領域は……途中で他者が侵入することは絶対にない。これは最も公平な盤だ!」


 しかし彼はすぐに異常を感知した。


 その力はいかなる駒にも属さず、いかなる既知の欠片にも属さない。


 それは深海そのものだ――ルールの外にある、盤では定義できない存在。


 なぜだ? ポレモスは思う。なぜ彼女は入ってこれる? まさか私の領域には……最初からあながあったのか?


 ステュクスは彼の驚愕に構わない。


 彼女の触手が締まり、女武神を深海のような闇の中へと引きずり込む。


 女武神は戟を振るって何本かの触手を断ち切るが、断ち切られた箇所からすぐに新しい触手が生える。


 ステュクスは口を開けた――こんなに美しい顔には似つかわしくないほど大きく開いたその口で――女武神の戟の柄を噛み、そして力任せに振り回した。


 女武神が空中に放り投げられる。


 ステュクスの触手が四方八方から彼女の体に突き刺さる。


 彼女には女武神の「内核ないかく」――あの灰色の炎が凝縮してできた核――が自分の触手の間でもがいているのが感じられる。


 生命ではないのに、生きようとしている。


 しかしあなたはカロン様を傷つけた。


 ステュクスの目には憐れみはない。ただ深海の捕食者が持つ、冷たい集中力だけがある。


 灰色の炎が傷口から噴き出し、女武神は分解された操り人形のように四散しさんし、灰色の炎となって消え去る。


 その過程は十秒にも満たなかった。


 ステュクスは地面に降り立ち、触手を背後でゆっくりと揺らす。


 彼女は振り返り、あの真っ黒な瞳に星の点を瞬かせながら、地面に跪くカロンを見つめた。


「カロン様、ご無事ですか?」


 その声には、彼女が先ほど女武神を引き裂いた時の冷酷さとは一変いっぺんした、小心なほどのつくろいが込められている。


 カロンは荒い息を吐き、答えない。ただステュクスを見つめている。その眼差しは複雑だ。


 お前は一体何者だ? 彼女は問いたい。なぜ……私にこんなことを?


 しかし彼女は口に出さなかった。答えは分かっているからだ。ステュクスはもう何度も言っている。


 ◇◇◇


 盤の反対側で、ポレモスは振り返り、背後に浮かぶあの白光を見た。


「ディスコルディア」


 白光がゆっくりと収まり、ディスコルディアが人の形を現した。白い髪が風に揺れ、あの薄い霧を帯びた目からは感情が読み取れない。


「もうやめて、ポレモス」彼女は言った。


「なぜだ?」ポレモスの声には無念が込められている。「私はまだ負けてない!」


 私はまだ力がある。彼は思う。まだ戦える。


「負けてない?」


 ディスコルディアは盤上で消えゆく灰色の炎を一瞥した。


「あなたの手にはもう駒が残っていないよ、ポレモス。敗北はいぼくを認めなさい」


 ポレモスは周囲を見渡す――歩兵は全滅、戦騎はカロンに討たれ、攻城者はエルフたちの合力で倒され、弓手はステュクスの触手に粉砕ふんさいされ、女武神はついば消えた。


 黒方には、彼自身だけがポツンと王格の上に残されている。


 本当に……もうないのか?


「ありえない」


 彼の声は低く、歯車が噛み合わないかのようだ。


「戦争は決して負けを認めたりしない!」


 彼は長槍を握り締め、蹄がその場で一歩踏み鳴らす。


 私は負けを認められない。負ければ、私は何者でもなくなってしまう。


「それに――なぜお前は彼女たちを助けるんだ!」


「戦争に公平さなんてものは最初からないんだよ、ポレモス!」


 ディスコルディアの声に初めて感情の揺れが走る。


「私は誰も助けてなんかいない! もう執心しゅうしんするな!」


 私は誰を助けている? 彼女は自問する。ポレモスを? それとも戦争を終わらせたい者たちを?


 彼女には分からない。ただ分かっているのは、ポレモスが戦争にまれるのを、もう見たくないということだけだ。


 ポレモスは彼女を見つめる。あの歯車の嵌った目の中で、何かが揺れている。


 しかし彼はまだ長槍を掲げている。

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