17.全ては偽物で
雨の絵が仕上がったと葛西から聞き、涼は放課後一人で絵を見に行こうとした。教室に千尋の姿はなかった。美術室へ向かう廊下の途中で、聞き覚えのある声を聞いた。
その声は一年生の教室から聞こえる。微かに漏れる声は、その教室にいるはずがない人物のものだった。
涼は消えそうなほど小さな声を、聞き逃さなかった。人物に検討をつけ、そっとドアを開けた。音楽室での出来事と重なる。
「…大丈夫みたい。そのせいじゃないよ」
ドアの隙間から見えたのは、思ったとおり千尋だった。携帯電話で話す声は親しみが込められており、どこか楽しそうだった。
涼は盗み聞きするつもりはなかったが、声を掛けるタイミングを外し、そのまま話を聞いていた。
「…うん、上手くいってる。もうすぐ叶う。次は何を入れよう…駄目だよ。姉さんだって共犯なんだ。悪くはないよね? CDで催眠効果が上手くいくって実証できたんだから」
息が出来なかった。涼は何を言われたか理解するよりも速く、体は反応した。頭が痛くなるのを感じながら、涼はゆっくりとドアを開けた。
その音に千尋は振り返り、涼を見て目を見開いた。そして、耳まで持ち上げていた携帯電話を持つ手を落とした。携帯電話からは相手の声が漏れていたが、気にする余裕はなかった。
千尋はボタンを押して強制的に通話を終わらせ、涼の顔を窺った。
涼は冷たい笑みを浮かべた。
「楽しかったか?俺がお前を好きになっていくのを見ていて。黒瀬を恋愛対象として見ていくのを見ていて」
「違う!そのためにやったわけじゃない!」
涼の感情のない声に重なるように、千尋は勢い良く言った。涼は表情を変えず、温度の下がっていく笑みを顔に貼り付けていた。
CDでの催眠効果。涼の夢に千尋が出てくるようになったのは、CDを聴き始めてからだった。すぐに千尋が出てきたわけではなかったが、今までの経緯から考えればそうとしか思えなかった。描写が細かいのも理解出来た。千尋が作っていたからこそ、眼鏡を取った顔さえも寸分違わず構成されていた。夢の中での千尋の様々な要求。それは自分をからかうためのものだと、涼は思った。恋愛対象として好きになるように仕向けられていた。そうとしか、思えなかった。
「じゃあ何のために?」
「声が聴きたかった。ただ、それだけだよ」
泣きそうに微笑んだ千尋に、涼は冷たい笑みを返した。怒りを表してくれれば対処できるのに、涼はそれを許さなかった。責めもせずに、突き放す。千尋はその距離が怖かった。
涼は調子を変えない、いつもの声で言った。
「それなら、ここまでする必要はなかったはずだろ。理由は明確だ。からかっていたとしか思えない」
「違う違う違う!」
「違わない」
きっぱりと否定した涼は、笑みを凍りつかせたまま腕を組んだ。品定めをするような涼の態度は拒絶を示していた。胸の前で組まれた腕は千尋を拒んでいる。
千尋は諦めたように顔を下に向け、机の上に置いていた鞄を手に取った。鞄の中から一枚のCDを取り出し、涼に投げた。それを涼は難無く受け取った。
「催眠を解除するCDだよ。これで、全てが終わる」
涼は頷き、体を反転させて出口へと向かった。廊下に足を踏み出すとき、後ろから声が聞こえた。
「ただ、名前を呼んで欲しかった」
千尋はそれ以外は何も言わず、動かなかった。
その言葉が涼の頭の中で響いた。
夢に千尋は出てこなかった。