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絶対音声  作者: 樒 七月
16/19

16.物語が進んでいく

 千尋は美術室を出た後、当てもなく歩いていた。何処へ向かうでもなく、足は動く。千尋は葛西に言われたことを思い出し、胸が締め付けられるのを感じた。

「黒瀬!」

 後ろから掛かった声に、千尋は振り向いた。涼が廊下を走ってくるのが見えた。千尋は思わず目を逸らしたが、一度目を閉じてから涼に向き直った。

 涼は千尋の前に立った。

「何かあったのか?」

「…別に何も」

 突き放すように笑った千尋に、涼は怪訝な顔をした。千尋と葛西は共に何もないと言ったが、二人の様子から何もなかったはずはない。

 涼は問い詰めようと口を開いた。しかし、声は出ずに、体が前へと倒れた。

「泉水くん!?」

 千尋の声が聞こえた後、涼の意識はなくなった。

 千尋は倒れ込んできた涼を受け止め、暫く放心していたが、状況を理解すると、涼の腕を肩に回して引き摺るように保健室へと運んでいった。



 風が頬を撫でる感触で、涼は目を覚ました。薬品の臭いが鼻を掠める。そして、微かに風が淡い旋律を乗せてくる。涼はそれがどこから聴こえるのかと顔を動かしたところに、千尋がいた。

 千尋は涼が寝ているベッドの横の椅子に座り、窓を開けて外を眺めていた。千尋の口から紡ぎ出されるのは、涼との接点だった。

「マザー・グース…」

 涼の声を千尋は聞きつけた。千尋は窓から視線を涼へと移し、柔らかく笑った。

 涼は夢の続きかと思った。

「気がついた? 寝不足で倒れたんだよ」

 千尋はそのままの表情で、涼の顔を覗き込んだ。千尋は眼鏡を外しているため、遮るものがない。涼はまだはっきりしない頭で、千尋を見た。

「黒瀬って歌、上手いんだな…」

「泉水くんには及ばないけどね。これも嗜みの一つだよ」

 千尋は薄く笑い、横に用意してあった水差しからコップに水を注いだ。千尋の動作一つ一つが丁寧で、優雅に見えた。涼は体を起こし、コップを受け取った。

「黒瀬って動作が丁寧だよな」

「躾られたからね。母親が茶道を嗜んでいて。丁寧に見える動きは、そこから来ているんだよ。食べ方とか、歩き方とか」

「綺麗だな」

 あっさりと言った涼に、千尋は動きを止め、その後に悔しそうに涼を睨んだ。心なしか、頬が赤く染まっていた。

「…なんでそう言うかな」

「本当のことだから。自分に出来ないことを出来る黒瀬が凄いなって」

 嘘ではないと言うように涼は簡単に言い、水を口に含んだ。冷たい水が喉を通る。それを心地良く感じながら、涼は千尋を見た。

 千尋は諦めたように息を吐き、口元を緩めた。

「有難う。そう言われたのは初めてだよ。いつもは優等生とか、嫌みだとか言われてたから」

 素直に褒めるのは大人だけだった。同年代は、自分に出来ないことを羨む。そして、酷いことを平気で言う。千尋はそんな反応に慣れていた。傷付いてはいないと言えば嘘になるが、気にしないことくらいは出来る。千尋は涼から空になったコップを受け取り、元に戻した。

 穏やかな空気が流れる中、ドアを開ける音が大きく響いた。

「大丈夫か、泉水。倒れたって聞いて…」

「大丈夫。寝不足で倒れただけだからさ。こっちだ」

 葛西は声の聞こえた方の、カーテンで仕切られたベッドへと向かった。葛西がカーテンを引くと、涼は楽しそうな顔で、千尋は眼鏡を外した笑顔を浮かべていた。

「元気そうだな。安心した」

 葛西は気が抜けたようにベッドの端に座った。葛西の手には紙が二枚あり、それを涼は見咎めた。

 千尋も涼の視線から気付き、指でそれを示した。

「何? それ」

「ああ、コレか。まだ途中だけど、あの絵の写真を撮ってきた」

 千尋が示した紙は写真で、ポラロイドカメラで撮られた写真は絵が浮かび上がってきているところだった。葛西が写真を撮って急いで保健室に来たのがわかる。

 葛西はベッドに二枚の写真を置いた。

「並べて見て欲しい理由、わかるか?」

 千尋は雨の絵の写真を取り、涼は夕焼けの写真を取った。二人がそれぞれ手に取った写真を見て、葛西は含み笑いをした。

 その葛西の笑いに涼は気付き、千尋は気付かなかった。千尋はまだ仕上がっていない方の雨の絵を見入っていた。

 涼は千尋の様子に苦笑し、写真を人差し指を中指で挟んで葛西の目の前に掲げた。

「寒色と暖色…対極の位置にあるけど」

「それでも、互いに優しい」

 涼の言葉に、千尋が続けた。葛西は正解、とでもいうように指を鳴らした。そして涼から写真を受け取り、ひらひらと振った。

「それ、お前らなんだ。ちょうどそれを持ってた通りに、夕焼けが泉水で、雨が黒瀬。綺麗だろ?」

 してやったり、とニヤニヤ笑う葛西に、涼は溜息を吐いて笑った。千尋は照れたように葛西を睨み、写真を返した。

 絵は確かに綺麗だった。しかし、それが自分だと言われると、千尋には歯痒かった。涼は特に気にせず、ベッドの上で背に枕を挟んで凭れていた。

 千尋は苦笑した。

「嬉しいけどね…」

「恥ずかしいだろ? 前に一回、雪を俺のイメージだって描かれたから、免疫が付いた。でもまあ、悪くは思われていないみたいだからいいけど」

 涼の投遣りな言い方に、葛西はそれを思い出して可笑しそうに笑った。こんなときはいつも千尋は取り残される。二人の過去は知らない。しかし、葛西はその話題を続けようとせず、表情を改めて涼に真剣に向き合った。

「寝不足で倒れたって言ってたよな? なんでだ?」

 葛西の疑問に、千尋も後押しするように頷いた。二人の視線を受けて、涼はふっと破顔した。

「大した理由はないよ。ただ、小説を読んでいて、止まらなかっただけ」

 下らない理由に葛西は脱力して顔を下に向け、千尋は安心したように失笑した。

 このとき、涼は何かの意味を含んだ笑いを浮かべていたが、二人にはその真意を知ることが出来なかった。

 涼は、夢で千尋に逢うことが怖かった。自分の気持ちが嫌でも変化するのを感じてしまう。しかし、それ以上に楽しみにしていた。今、現実に眼鏡を外している千尋を見て、胸が高鳴っている自分がそこにいた。

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