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絶対音声  作者: 樒 七月
15/19

15.それは不協和音のようで

 水曜日の放課後、音楽室に二つの影があった。ピアノを弾いている千尋に近い席で、涼は演奏を聴いていた。歌いたいときに歌う、という言葉通り、涼は時折ピアノの音に合わせて歌っていた。ソプラノの曲だけではなく、普通の曲でも歌う。三オクターブは出る音域の広い涼の声に、千尋はいつも驚かされていた。曲一つ一つで表情がまるで違う声。

「その声、好きだよ」

 不意に漏らした千尋の言葉に、涼は口を噤んだ。前に千尋に言った言葉と同じだが、言われる側になると反応が出来なかった。

 歌うのを止めた涼に、千尋は指を動かしながら苦笑した。

「言われる気持ちがわかった?」

「…ああ」

 素直に頷いた涼は、気が抜けたように近くにあった椅子に座った。くすくすと笑いながらも、千尋は弾き続けた。

 終わりを知らせるチャイムの音が聞こえるまで、二人は音が溢れる空間にいるのが習慣になっていた。



「黒瀬」

 千尋は目の前に立っていた。名字を呼ばれ、仕方ない、という表情をした千尋は手を差し出した。握手を求めるその動作に、躊躇いながらも手を出した。

 前は自分から重ねた手を、今度は千尋が受け取った。前と同じ温もりが手から流れてくる。

「涼」

 夢で名前を呼ばれることが嬉しく感じる。現実では呼ばれることのない名前。

そして、呼べない名前。夢の中でも呼ぶことが出来なかった。

「…黒瀬」

 その言葉に、千尋は困ったように笑った。




 葛西の絵が完成するということを聞きつけ、千尋は普段より二十分早く登校した。靴箱を覗くと葛西はすでに来ていて、千尋は教室に寄って荷物を置いてから、美術室へと向かった。朝に新鮮な空気を肺一杯に吸い込み、吐き出す。そして、美術室のドアを開けた。油絵の具の臭いが充満している。

 千尋はその臭いが嫌いではなかった。

「おはよう、葛西くん」

 ドアの開く音には反応せず、掛けられた声に反応した葛西は振り向いた。千尋の姿を認めると、軽く挨拶を返し、再び絵に向かった。

 少し小さめのキャンバスに広がる色は、青や緑などの様々な寒色が混ざり合っているにもかかわらず、淡い感じになっていた。やはり、白が目立たない程度に曲線や筋を引いていた。前回の夕焼けではないが、こちらも完成が近いことが千尋にはわかった。

「あれ、雨の絵?」

「そう。さすがだな、コレがわかるなんて」

 口元に笑みを浮かべた葛西は、弾んだ声で言った。理解されれば嬉しい。雨を表現するのは難しく、抽象的ならば余計にわかりにくい。しかし、それを千尋は言い当てた。躊躇うこともなく、さらっと正解を言ったことが葛西は嬉しかった。

 葛西が色を重ねていくのを見ながら、千尋は首を捻った。

「前の夕焼けは?」

「あれは完成した。これも同時に描いていたんだ。これが完成したら、並べて見てほしいからな。今は見せられない」

 何かを企んでいるかのように忍び笑いをする葛西に、千尋は無言で頷いた。無理に見せてもらおうとは思わなかった。気にはなっていたが、いずれは見せてもらえるということがわかったのだから、それで良かった。

 千尋は葛西の背後に立ち、仕上がっていく様子を見ていた。

「黒瀬、お前だったんだな。泉水にCDを送っていたのは」

 葛西の指摘に、千尋の体は震えた。見られているとは思わなかった。誰もいないのを確かめて、細心の注意を払っていたのに、葛西には見られていた。

 千尋が苦い顔をしたのは、葛西には見えなかった。葛西は絵から視線を外さず、いつもの調子で言葉を続けた。

「安心した。あのCDが黒瀬からのものだってわかったからな。嫌な予感がしたんだけど、杞憂だったみたいだな」

 クックッと笑う葛西に、千尋は何も言えなかった。葛西は千尋を信用している。それがわかるからこそ、千尋は言えなかった。

 しかし、それ以上に黙ってはいられなかった。

「杞憂じゃないよ。あれは僕の我が儘だから。…全てを知ったら、きっと君も泉水くんも、僕を非難するよ」

 不吉な言葉を残した千尋は、別れも言わずに教室を出て行った。いつもと違う千尋の様子に、葛西は顔を顰めた。CDを自分の我が儘だと言った千尋。そして悪い結果を引き起こすと断言した。

 葛西は描きかけの絵を見ながら、CDを聴いたときに感じた嫌なもやもやが増えていくのを感じていた。

「あれ、葛西一人?」

 開け放されていたドアから涼は声を掛けた。その声に振り返った葛西は涼の姿を見て、ほっと息を吐いた。

「さっきまで黒瀬がいた。何か用?」

「絵を見に来たんだ。やっぱり黒瀬も来ていたんだな。教室に鞄があったから、ここかと思って」

 涼は先程まで千尋がいた場所に立った。葛西はその涼の位置を見て微妙な笑みを零し、筆を置いて片付け始めた。涼は葛西がいつものように明るく振舞わないことに首を傾げた。いつもとは何か違っている。噛み合わない歯車のように、何かがずれ始めていた。

 涼は、筆を洗いパレットを片付ける葛西に真剣な低い声で言った。

「何があったんだ」

「何もない。だからこそ、何かがあるのが怖いんだ」

 自嘲気味に笑った葛西に、涼は顎を引いた。葛西が何かを隠していることはわかる。しかし、涼は無理に聞こうとは思わなかった。言わないということは、それを確信しているわけではないからか、涼が知るべきことではないかのどちらかだった。

 涼は葛西が手に取った絵を見て、一言漏らした。

「雨の絵…ね」

 葛西はその声が聞こえなかった振りをした。

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