15.それは不協和音のようで
水曜日の放課後、音楽室に二つの影があった。ピアノを弾いている千尋に近い席で、涼は演奏を聴いていた。歌いたいときに歌う、という言葉通り、涼は時折ピアノの音に合わせて歌っていた。ソプラノの曲だけではなく、普通の曲でも歌う。三オクターブは出る音域の広い涼の声に、千尋はいつも驚かされていた。曲一つ一つで表情がまるで違う声。
「その声、好きだよ」
不意に漏らした千尋の言葉に、涼は口を噤んだ。前に千尋に言った言葉と同じだが、言われる側になると反応が出来なかった。
歌うのを止めた涼に、千尋は指を動かしながら苦笑した。
「言われる気持ちがわかった?」
「…ああ」
素直に頷いた涼は、気が抜けたように近くにあった椅子に座った。くすくすと笑いながらも、千尋は弾き続けた。
終わりを知らせるチャイムの音が聞こえるまで、二人は音が溢れる空間にいるのが習慣になっていた。
「黒瀬」
千尋は目の前に立っていた。名字を呼ばれ、仕方ない、という表情をした千尋は手を差し出した。握手を求めるその動作に、躊躇いながらも手を出した。
前は自分から重ねた手を、今度は千尋が受け取った。前と同じ温もりが手から流れてくる。
「涼」
夢で名前を呼ばれることが嬉しく感じる。現実では呼ばれることのない名前。
そして、呼べない名前。夢の中でも呼ぶことが出来なかった。
「…黒瀬」
その言葉に、千尋は困ったように笑った。
葛西の絵が完成するということを聞きつけ、千尋は普段より二十分早く登校した。靴箱を覗くと葛西はすでに来ていて、千尋は教室に寄って荷物を置いてから、美術室へと向かった。朝に新鮮な空気を肺一杯に吸い込み、吐き出す。そして、美術室のドアを開けた。油絵の具の臭いが充満している。
千尋はその臭いが嫌いではなかった。
「おはよう、葛西くん」
ドアの開く音には反応せず、掛けられた声に反応した葛西は振り向いた。千尋の姿を認めると、軽く挨拶を返し、再び絵に向かった。
少し小さめのキャンバスに広がる色は、青や緑などの様々な寒色が混ざり合っているにもかかわらず、淡い感じになっていた。やはり、白が目立たない程度に曲線や筋を引いていた。前回の夕焼けではないが、こちらも完成が近いことが千尋にはわかった。
「あれ、雨の絵?」
「そう。さすがだな、コレがわかるなんて」
口元に笑みを浮かべた葛西は、弾んだ声で言った。理解されれば嬉しい。雨を表現するのは難しく、抽象的ならば余計にわかりにくい。しかし、それを千尋は言い当てた。躊躇うこともなく、さらっと正解を言ったことが葛西は嬉しかった。
葛西が色を重ねていくのを見ながら、千尋は首を捻った。
「前の夕焼けは?」
「あれは完成した。これも同時に描いていたんだ。これが完成したら、並べて見てほしいからな。今は見せられない」
何かを企んでいるかのように忍び笑いをする葛西に、千尋は無言で頷いた。無理に見せてもらおうとは思わなかった。気にはなっていたが、いずれは見せてもらえるということがわかったのだから、それで良かった。
千尋は葛西の背後に立ち、仕上がっていく様子を見ていた。
「黒瀬、お前だったんだな。泉水にCDを送っていたのは」
葛西の指摘に、千尋の体は震えた。見られているとは思わなかった。誰もいないのを確かめて、細心の注意を払っていたのに、葛西には見られていた。
千尋が苦い顔をしたのは、葛西には見えなかった。葛西は絵から視線を外さず、いつもの調子で言葉を続けた。
「安心した。あのCDが黒瀬からのものだってわかったからな。嫌な予感がしたんだけど、杞憂だったみたいだな」
クックッと笑う葛西に、千尋は何も言えなかった。葛西は千尋を信用している。それがわかるからこそ、千尋は言えなかった。
しかし、それ以上に黙ってはいられなかった。
「杞憂じゃないよ。あれは僕の我が儘だから。…全てを知ったら、きっと君も泉水くんも、僕を非難するよ」
不吉な言葉を残した千尋は、別れも言わずに教室を出て行った。いつもと違う千尋の様子に、葛西は顔を顰めた。CDを自分の我が儘だと言った千尋。そして悪い結果を引き起こすと断言した。
葛西は描きかけの絵を見ながら、CDを聴いたときに感じた嫌なもやもやが増えていくのを感じていた。
「あれ、葛西一人?」
開け放されていたドアから涼は声を掛けた。その声に振り返った葛西は涼の姿を見て、ほっと息を吐いた。
「さっきまで黒瀬がいた。何か用?」
「絵を見に来たんだ。やっぱり黒瀬も来ていたんだな。教室に鞄があったから、ここかと思って」
涼は先程まで千尋がいた場所に立った。葛西はその涼の位置を見て微妙な笑みを零し、筆を置いて片付け始めた。涼は葛西がいつものように明るく振舞わないことに首を傾げた。いつもとは何か違っている。噛み合わない歯車のように、何かがずれ始めていた。
涼は、筆を洗いパレットを片付ける葛西に真剣な低い声で言った。
「何があったんだ」
「何もない。だからこそ、何かがあるのが怖いんだ」
自嘲気味に笑った葛西に、涼は顎を引いた。葛西が何かを隠していることはわかる。しかし、涼は無理に聞こうとは思わなかった。言わないということは、それを確信しているわけではないからか、涼が知るべきことではないかのどちらかだった。
涼は葛西が手に取った絵を見て、一言漏らした。
「雨の絵…ね」
葛西はその声が聞こえなかった振りをした。