第187話 疑念
国境の物見が、北の空に砂埃を見つけたのは、数日前のことだった。
ノルデンガルド軍が、グレーカレコ王国との国境に、兵を集め始めている——その報せは、瞬く間に、周辺諸国の間を駆け巡った。
ヴェスタ王国は、ノルデンガルドと国境を接してはいない。それでも、報せを重く見た閣議の間に、ノルデンガルドから、一人の使者が、はるばる訪れていた。侯爵位を持つ、その人物は、開口一番、こう告げた。
「戦を仕掛けるつもりは、ない。ご安心を」
「では、グレーカレコとの国境に集めている、あの軍は、何のためだ」
「北の魔王を討つべく、我が国の勇者たちが、南へ向かっております。国境の兵は、その後詰めに過ぎません」
もっともらしい説明だった。だが、いくつか、疑問が残る。
「後詰めにしては、些か、数が多いのでは?」
「ご懸念には、及びません。それより——貴国に、一つ、ご相談が」
侯爵は、そう切り出すと、支援の中身を語り始めた。物資は、望むだけ用意する。ただし、ただの厚意ではない。
「貴国の軍を、グレーカレコとの国境まで、進めていただきたい。それだけで、構いません。睨みを利かせていただくだけで、我が国の勇者たちは、格段に動きやすくなる——というわけです」
つまるところ、ヴェスタに求めているのは、共に戦うことではない。ただ、そこにいて、グレーカレコの目を引きつけておいてくれれば、それで十分だという話だった。
その物言いに、重臣の一人が、密かに眉をひそめた。
——国境を接してもいない、我が国にまで、わざわざ、そんな頼み事をしてくるとは。
グレーカレコとの国境に集めた軍勢、南下する勇者たち、そして、ヴェスタへのこの要請。三つの動きが、同時に進んでいることに、違和感を覚えずにはいられなかった。
だが、その正体を、この場にいる誰も、まだ掴めてはいなかった。
——実のところ、ノルデンガルドの真の狙いは、別にあった。
勇者たちによる、魔王討伐という大義名分。グレーカレコとの国境に集めた、軍勢という、目を引く駒。そして、ヴェスタにまで頼み込んだ、もう一枚の牽制。その全てに、世の耳目が向いている間に——グレーカレコ王国の飛び地、あの鉱山の街を、電撃的に占領する。それこそが、ノルデンガルド上層部の、本当の狙いだった。
ヴェスタへの支援は、いわば、その牽制を引き受けてもらうための、対価に過ぎない。ヴェスタが、実際にどこまで本気で動くかは、さして重要ではなかった。国境を接さぬ国にまで、わざわざ頭を下げてでも、駒を増やしておきたかった——それだけ、この計画に、余裕がなかったとも、言える。
表向きの「正義」の裏で、領土の切り取りという、生々しい計算が、静かに進められていた。
ーーー
その日、ガルドは商会の帳場で、妙な話を耳にした。
南へ向かう行商人が、道中で目にしたという勇者たちの一団について、世間話のついでに話していたのだ。
「北の魔王を討ちに行くんだと、息巻いてたよ。行き先は、なんでもグレーカレコ王国とか」
その一言に、ガルドの手が止まった。
聞き間違いではないかと、何度も、行商人に問い直す。だが、答えは変わらなかった。
父のいる場所を、勇者たちが、既に掴んでいる。
いても立ってもいられず、ガルドは噂の出所を辿ることにした。街道沿いの宿場を訪ね歩き、勇者たちの一団が、確かに南へ向かっていることを確認する。
残る疑問は一つだった。
彼らは、本当に、父の居場所まで、正確に掴んでいるのか。
それを確かめるために、ガルドは、行軍の跡を追い始めた。
ーーー
街道沿いの木陰に身を潜め、行軍の様子を遠目に窺う。
だが——
「そこにいるのは分かっている。出てこい」
鋭い声が飛んできた。
斥候が木陰に向かって、まっすぐに剣を向けている。
ガルドは観念して姿を現した。
「ただの旅の者です」
「旅の者が、なぜ我々の後をつけている」
誤魔化しは通じなかった。ガルドは、そのまま陣営へと連行された。
ーーー
連れて行かれた先には、五人が揃っていた。率いるのは、まだ若い、一人の勇者だった。
「何者だ。何のために我々を探っていた」
勇者が鋭い目で問いただす。
ガルドはしばし迷った。だが、ここで口を閉ざしたままでは何も変わらない。
「……お話があります。あなた方が追っている『魔王』について」
「知っているのか」
「はい。まず申し上げておきたいことがあります」
ガルドは深く息を吸った。
「私の父から聞いた話です。帝国で勇者と呼ばれている者たちの正体は、人の姿をした魔族だそうです」
その場に緊張が走った。
「戯言を——」
勇者が、すぐさま声を荒げる。
「戯言ではありません。それだけでなく」
ガルドは構わず続けた。
「私自身も、この目で見ました。ノルデンガルドの王城の奥で、重臣の一人が人の姿を保てなくなる瞬間を」
「……」
その場の空気が明らかに変わった。
「そして、もう一つ。私は竜人族です。魔族ではありません」
その一言に、一同は思わず顔を見合わせた。
「あなた方が魔王と呼び、討とうとしている御方は……竜人族の、王です」
ガルドは、自分がその息子であることまでは、口にしなかった。
「人族を虐げたことなど、一度もありません。むしろ、幾度となく——」
ガルドは、そこで言葉を選んだ。
「守ってきた側です。人族の侵略から」
沈黙が、その場を支配した。
迷いが、確かに、五人の間に広がっていた。
その時、支援部隊の中にいた一人の男が、ガルドの顔を、じっと見つめていた。
「……待てよ。この顔」
男は、そう呟くと、勇者に、耳打ちをした。
「隊長、お気をつけを。こいつ、行方不明になったとかいう、どこぞの王子に、よく似ていませんか」
「王子、だと?」
「ええ。竜人族などと名乗っていますが、何か企んでいるのかもしれません。魔族の手先が、我々を惑わそうとしているのでは」
その囁きに、勇者は、しばし押し黙った。
もっとも、誰一人として、ガルドが嘘をついているとは思っていなかった。
勇者だけが頑なに、その言葉を拒み続けている。だが、聖女・斥候・タンク・魔術師の四人は、はっきりと否定することはしなかった。
中でも聖女の一人は、耳打ちをしたあの男に対して、はっきりとした拒絶の色を、その胸の内に抱いていた。
言葉にこそしなかったが、心が、その人物を拒んでいた。




