(7)
―――二学期。
始業式の朝。
沙夜が玄関を開けると、一人の少年が門にもたれている体を起こし、こちらに向き直っていた。
「おはよう!」
元気な声が沙夜の沈んだ心に響く。
「お……おはよ」
「迎えに来た。一緒に学校行こう」
沙夜は微かに笑った。
待っていたのは峻一。
彼と萌子の優しさに、沙夜はこの夏どれほど救われただろう。
沙夜は二人に颯とのことを大筋話していた。
あの日以来、沙夜は落ち込んでどこへも行かず、家の中ばかりにいた。
携帯電話も充電の切れたままになっていた。
たまには遊ぼうと連絡を入れる峻一と萌子だったが、いつ電話しても「電源が入っていません」のメッセージが流れるばかり。
自宅に電話してようやく話ができたかと思えば、ずっと家にいたという沙夜。
何かあったと直感した峻一は、同じく心配していた萌子を伴って沙夜の家に押しかけ、事と次第を聞き出したのだった。
それからといもの、峻一は沙夜がなるべく考え込まないように家から連れだし、色々な場所へ行き、気分転換を図ってくれていた。
海やプール。動物園や遊園地。近場ではゲームセンターやカラオケ、デパート巡りのショッピング。
もちろん萌子も一緒に。
二人の優しさが胸に染みた。
友達のありがたさを心底感じた。と同時に、沙夜は颯とは友達に戻れないことを改めて思い知った。
自分の心を隠し、笑顔で彼の傍にいることなど無理だと思った。
想いが溢れ、きっと涙が流れてしまう。
颯との思い出に触れただけで心が締め付けられてしまうというのに、本人を目の前に心を押し殺すような器用な真似はできないことだった。
『どこか遊びに行こうか?』
『ホント!? 私、遊園地がいい!』
『じゃあ遊園地に決まりだな。また連絡するよ』
遊園地で観覧車を見上げた時、心によぎった思い出。
叶わなかった約束。
本当なら初デートで二人観覧車に乗っていたはずだったのに……と思っただけで、あの時沙夜は泣いてしまい、峻一達を戸惑わせてしまったのだった。
「よかった。沙夜、ちゃんと学校出てきてくれて」
道を歩きながら、峻一が安心して言った。
沙夜は言葉にならず、ちょっとはにかむ。
今日学校へ行けば、颯の処分が発表されているのだ。
颯本人にはたぶん事前に通達されているはずなのだが、あの別れ以来、沙夜は颯と連絡を取っていなかった。
颯も何も言ってはきていない。
停学か。それとも―――退学か。
沙夜は知るのが怖かった。
(今日は颯、学校に来るのかな)
颯とどんな顔をして会えばいいのかも分からない。
普段と同じようにしようとは思うのだが、自分がどんな行動にでるのか、自分のことなのに予測がつかない。
そして処分を知った後、颯にどんな顔して会えばいいのかも分からない。
(颯は私に自分を責めるなと言ったけど、何事もなかったかのように私だけ普通に学校生活送るなんて、やっぱり心苦しいよ)
「松岡くん、お願い。颯の処分聞くとき傍にいて……」
小さく震える声で言った沙夜の心の内を悟った峻一は、隣にある沙夜の手を強く握った。
その強い力に、沙夜の心は頼りになる者を見つけたことで、少し安心感を得たのだった。
* * *
教室に入るなり、クラスの女子が沙夜に走り寄って来た。
「ちょっと和泉さん。本多くん、一週間の停学ってどういうこと!?」
沙夜は現実を唐突に知らされ、胸に鋭利な物が刺さったような衝撃を受けた。
「停……学? 一週間……?」
呟く沙夜の二の腕を、峻一はグッと掴み、顔を覗き込んだ。
「大丈夫か、沙夜?」
強張った表情が返ってくる。
「えっ……知らないの? 和泉さん、本多くんと付き合ってるんでしょ!?」
クラスメートは沙夜の様子に意外そうに言った。
「それ誰に聞いたんだ?」
峻一が尋ねる。
「職員室の前の掲示板に貼り出してあったのよ!」
それを聞いたとたん、峻一は沙夜の手を引っ張り駆けだした。
「ま、松岡くん?」
「確かめよう。本当に停学なのかどうか」
峻一に連れられながら、沙夜の心は乱れていた。
退学を覚悟していたくらいだから、停学ですんでよかったのかもしれない。
しかし停学という言葉だけでも、沙夜はその重みをひしひしと感じていた。
職員室へ来ると、その廊下は少し人が集まっていた。
峻一は沙夜を引っ張り、人をかき分け最前列へ出た。
(あっ……)
一枚の掲示物を見た瞬間、沙夜は声を漏らしそうになる。
『一年四組本多颯。右の者、一週間の停学に処す』
(事実だったんだ)
一瞬ふらついた沙夜を支え、峻一はその場から離れ、人通りの少ない廊下の突き当りまで移動した。
「沙夜、大丈夫?」
聞きながらも峻一は沙夜が動揺しているのを感じていた。
握り締めた手からは、沙夜の震えが伝わってきていた。
沙夜も一生懸命落ち着こうとはしているのだが、突きつけられた現実をまだ心の中で処理できないでいた。
「松岡くん。停学一週間って私の見間違いじゃない……よね?」
「……ああ」
峻一の沙夜に言ってきかせるような返事に、沙夜は目を閉じ、数回深呼吸を繰り返した。
「………少しは落ち着いた?」
「う……うん、たぶん」
まだ心拍数は高いが、深呼吸したら幾分ましになった気がした。
「沙夜。とにかく最悪の事態だけは免れたんだ。学校辞めなくて済んだんだ。今度はお前がしっかりしなきゃ。いつまでもお前が暗い顔してちゃ、本多だって辛いだろ?」
峻一の言葉に沙夜はうな垂れる。
(分かってる。……分かってるけど颯にどんな態度をとったらいいの?)
己を責めるなと言った颯。
何もなかったように振る舞えたらどんなに気が楽だろうか。
沙夜はやはり今回の一件で、己の責任を痛感せずにはいられなかった。
「松岡くん。私、颯に会わす顔ないよ……」
それを聞いた峻一は、沙夜の両肩をガッシリと掴んだ。
「そんな弱気でどうするんだよ。本多と付き合うって俺に言ってきた時のお前、どこいったんだよ。あの時のお前は辛いことから逃げずに立ち向かっていこうとしてたじゃないか。今は距離を置いてるけど、いつか元に戻れるって信じてるんだろ? 今頑張らないでいつ頑張るんだよ!」
峻一に叱咤され、沙夜にその時の気持ちが蘇ってきた。
過去の過ちの疵を抱え、乗り越えようとしているそんな颯を守っていきたいと誓った、あの互いの想いが通じた日の想いが―――。
守られたいんじゃない。
守りたい。
いつの間にその思いを忘れてしまっていたのだろう。
「ありがとう松岡くん。私が頑張らなきゃね。もう颯に心配かけちゃいけないよね」
(私が元気でいること。それが颯の望んでいることなら、今の私はそれを叶えるしかないんだね)
それで颯の心が救われるなら、自分が堪えるしかない。
沙夜は苦しい思いで決心したのだった。
* * *
颯の停学から三日目を迎えていた。
颯は二学期初日から一度も姿を現していない。
担任の英語の授業を受けながら、沙夜は周りの空気の重圧を息苦しく感じていた。
ちらっと主不在の席を見る。
沙夜は今日まで何度も心の中で問いかけ続けていた。
彼がここにいないのに自分はなぜここにいるのか。なぜ自分だけいつもと同じ毎日を過ごしているのか。今、颯は家で一人何を考えて、一日一日を送っているのだろうか―――と。
(私が颯の居場所を奪っちゃったんだ)
胸に鈍い痛みが駆け抜ける。
沙夜は痛みと、背にかかる岩を乗せたような重みに押し潰されそうだった。
クラスどころか学校中に颯の停学が知れ渡ってしまった。しかもその原因が喧嘩だということも。
噂に噂を重ね、いつの間にか颯が相手に大怪我させたなんてことにもなってしまっていた。
しかしその件に沙夜が関係していたことは一切知られていない。
そのことがかえって沙夜に罪の意識を感じさせていた。
知られていないはずなのに、自分を見る人の視線が怖かった。侮蔑されている気がした。
お前も同罪なのになぜ学校に来てるのかと思われ、白い目で見られている気がした。
いっそのこと面と向かって言われた方がいいとさえ思った。
クラスの雰囲気は明らかに今までと違っている。
原因が喧嘩だと広まった時、生徒は口々に言った。
「やっぱり見かけ通り怖い人だったんだ」と。
颯がやっとのことで心を開いて築き上げてきたクラスメートとの関係が、あっという間に崩れ去った瞬間だった。
皆、颯が登校しても入学当時の態度でしか接しないだろう。
また築きなおせばいいなんて簡単なこと、沙夜には言えなかった。
一度壊れたものを作り直すことの難しさを誰よりも分かっているのは、颯自身なのだから。
ゼロからのスタートではない。マイナスからのスタートだ。
(そうさせてしまったのは……私!)
颯が自分をかばってくれたからだ。彼一人に罪を被らせてしまったからだ。
沙夜は授業中であることも忘れ、己を責め続けた。
やがて授業の終わりを告げるチャイムが響き渡った。
四時間目が終わり、昼休みに入る。
「和泉、お昼食べ終わったら職員室まで来なさい。話がある」
担任が教室を出ていく前、沙夜のところへ寄って来てそっと沙夜に声をかけた。
「………はい」
沙夜は沈んだ声で一言返事した。
「沙夜、先生何だって?」
気遣うように峻一がやってきた。
「う、うん。何だろう…ね」
沙夜はとっさに分からないフリをした。
フリ。
そう。沙夜にはなぜ呼び出されたのか心当たりがあった。
休みあけ早々の課題テスト。
沙夜の答案は白紙も同然だったのだ。
夏休みの課題は全部やってあった。それしか気を紛らわせる手段が沙夜にはなかったからだ。
だがテストの時は違った。
颯の停学。クラスメートの態度、視線。心の重圧に、沙夜はテストを受けられるような状態ではなかったのだった。
沙夜はお弁当もそこそこに、早々に席を立った。
それを見た峻一が、男友達の輪から離れ駆け寄ってきた。
「職員室行くんだろ? 俺も一緒に行こうか?」
一瞬迷う沙夜。でもこれは自分の招いたことなのだから……と首を横に振った。
「一人で大丈夫、だよ」
どこか心細そうな沙夜の様子に、峻一は本当に大丈夫なのかと疑問に思ったが、ついていくのを思い止まる。
「じゃ、五時間目に遅れるなよ」
「うん」
沙夜はそう言って、教室を出て職員室へ向かった。
足取りは重かった。沙夜の心と同じように。
職員室に着くと、沙夜は真っ直ぐ担任の机に足を進めた。
「先生、あの……」
か細い沙夜の声に気づいた担任は、お茶を飲んでいる手を止め、湯のみを置き、沙夜に向き直った。
「来たか」
言うと担任はファイルを一つ手にして立ち上がる。
「今、隣の応接室空いてますよね?」
隣の学年主任に確認を取ると、担任は沙夜を促し応接室へ連れていった。
担任は入るとそのままソファーに座った。
沙夜はドアから二、三歩進んだところで躊躇いがちに立ち尽くしていた。
「和泉も座りなさい」
促され、沙夜は担任と向き合う位置におずおずと腰を下ろす。
「呼んだのは他でもない。この前の課題テストの結果のことだ」
前置きもなく、ストレートに担任は言ってきた。
沙夜は心の中で「やっぱり……」とうな垂れる。
担任はテストをテーブルの上に広げた。
「これなんだが他の先生方も心配していたぞ。和泉の成績なら平均点は取れるはずなのに、平均点どころかどの教科も一桁しか取れていないじゃないか。何か悩みでもあるのかと気になって、こうして来てもらったんだよ」
諭すような担任の言葉に、沙夜は膝に置いた手でスカートをギュッと握る。
(私の悩み。………悩みは)
頭の中に色んな光景がフラッシュバックのように駆け巡った。
胸は様々な思いで締め付けられる。
俯いた沙夜の瞳からは、大粒の涙が雫となって手の甲を濡らした。
「先生。……私も停学にして下さい」
沙夜は自分でも無意識のうちに口を開いていた。
「……和泉?」
言葉の意味を理解できず、担任は怪訝そうな顔をした。
沙夜はなおも続ける。
「颯が……、本多くんが喧嘩して停学になったのは私のせいなのに、私だけ何もなかったように普通に生活するなんて、やっぱりできない。そんな自分が許せないんです」
沙夜の言葉を聞いた担任は机の上に広げたテスト用紙をファイルにしまった。
「そうか」
その一言は何かを納得した響きだった。
「警察から女の子をかばって喧嘩して怪我をしたとは聞いていたよ。けれど本多に聞いてもそれが誰なのか、絶対に言おうとしなかった。和泉が本多と付き合ってるとは聞いていたが、まさかかばった女の子が和泉だったとは……な」
担任の言葉を聞いて、沙夜は口を手で覆った。
しかしなお、嗚咽を押さえることができなかった。
(颯が私を守ってくれてたんだ)
停学の原因が喧嘩だと知れ渡っても、自分が関わっていたと広まらなかったのは、颯が決してその名を告げなかったからだと、今沙夜は知らされたのだ。
(離れてても、颯は私を大切に想ってくれてる)
颯の想いを感じて、沙夜は溢れる涙を止めることはできなかった。
(なのに私は何も颯にしてあげられない。颯の立場を苦しめてばかりいる)
だからこそ、せめて同じ苦しみを与えて欲しかった。停学という名の罰を。
「先生……、私を罰して下さい。本多くんは決して自分のことで相手を殴ったりしてないんです。私をかばったからこんなことに……。だから本多くんが停学なら、私も同罪なんです。お願いします」
深々と頭を下げる沙夜に、担任はしばらく黙っていた。
やがて重い口を開く。
「和泉、それはできないんだ」
担任の言葉を聞いたとたん、沙夜は反射的に顔を上げた。
「確かにこの程度のことだったら普通なら注意で済んだのだろう。だが、本多の場合はちょっとそれだけでは済まされないことがあってな」
担任の言いたいことが沙夜には分かった。
自分はごく普通の平凡な一生徒。
颯は過去に過ちを起こした、問題視されている生徒。
自分と颯との間に境界線が引かれた気がした。
「それは本多くんが少年院にいたから……ですよね?」
ポツリと沙夜は呟くように言った。
「知っていたのか?」
担任は驚いた。
沙夜が颯と付き合っていると聞いた時も驚いたが、まさか彼の過去まで知っているとは思ってもみなかった。
再び沙夜は俯いた。
「はい、全部聞きました。過去に何があったのか……。それでも一緒にいたいと思ったんです。立ち直ろうと頑張っている彼の傍にいたかったんです。……先生、私今回の処分に対して学校を恨んでるわけじゃないんです。本多くんも退学を覚悟してても、学校を責める気はないって言ってました。問題を起こしたら退学だって言われてたのに、停学に留まってくれた学校側にはありがたく思っています。ただ自分が許せないんです。彼一人に全部押し付けて、自分が今までと何も変わらず生活してるのが苦しいんです」
もう沙夜には自分がどうすべきなのか分からなかった。
自分を見失いかけていた。
停学にされなくても、学校を休みたい。休もうという考えさえ、頭の中をよぎっていた。
「和泉、本多がなぜお前のことを話さなかったのか、よく考えるんだ。お前が自分も停学にしてくれなんて言ったって知ったら、本多が悲しむぞ。お前が元気に生活することが、本多の気持ちに報いることになるんじゃないのか? こんなテスト結果、本多が知ったら嘆くだけだぞ。頑張りなさい」
担任はなんとか沙夜を力づけてやりたいと思った。
真面目な分、思い込んだらどんどん自分を傷つけていきそうな沙夜を思い留まらせたかった。
その時、昼休みの終わりを告げるチャイムが校舎中に鳴り響いた。
「……教室へ戻りなさい、と言いたいところだが、その泣きはらした目が落ち着くまで、とりあえず保健室にでも行って休んでなさい。今はまだ授業を受けられる気分じゃないだろうしな」
担任はそう言って席を立った。
応接室から出ていく時、担任は振り返って再び口を開く。
「また何かあったらいつでも話聞くから、一人で悩まず相談するように。いいな?」
「……はい」
沙夜は担任の気持ちをありがたく思い頷いた。
担任が出ていくのに続いて、沙夜も応接室を後にする。
そのまま職員室を出て、担任の言う通り保健室に行こうとしたら、職員室を出たところで峻一が沙夜を待ち構えていた。やっぱり沙夜のことが気がかりだったのだ。
「何があったんだ、沙夜!?」
泣きはらした赤い瞳を見て、峻一は驚いた。
沙夜は何も言えず、無言で首を横に振る。
峻一の心配する気持ちは、一気に最高潮に達した。
「先生に叱られたの?」
峻一は顔を覗き込むが、沙夜は目を合わせず再び首を振った。
「じゃあどうして……?」
訳が分からず、峻一は戸惑う。
「私、次の授業休むね。先生に言っといてくれる?」
「お前、どうするんだ?」
「保健室に行く。先生がそこで休んでなさいって言ってくれたから……」
ただならぬ沙夜の様子に、峻一はこのまま沙夜を一人放っておくことはできなかった。
「俺も一緒に行くよ」
夏休みから今までだって、沙夜は元気なかった。
颯の停学を知ってからはなおさら沈んでいた。
だが、目をはらすほど泣いた姿を峻一に見せたことはなかったのだ。
「一人で大丈夫だよ」
峻一にこれ以上心配はかけられないと思った沙夜は言った。
しかし、今沙夜を一人にはできないと峻一は思った。
こんな姿の沙夜を見ておいて、授業なんて受けてる場合じゃないと思った。
「俺も行く。お前が何と言っても」
峻一は沙夜に有無を言わせず、沙夜の肩を抱いて保健室へ連れて行った。
着いたが、保健医はあいにく部屋にはいなかった。
峻一はとりあえず沙夜をベッドに寝かせると、その脇に椅子を持ってきて自分も座った。
「気分が悪かったりはしない?」
「うん。大丈夫」
沙夜は深く一度呼吸した後答えた。
しばらくの沈黙の後、峻一が沙夜を気遣いながら口を開く。
「沙夜。……泣いてたわけ、聞いてもいいかな?」
その一言に、沙夜の表情が一瞬固まる。
それを見た峻一は戸惑う。
「無理に話さなくていいから」
言いかけた時、沙夜の瞳からまた涙が零れ落ちたのを見て、峻一は椅子から立ちあがり沙夜の顔を見つめた。
「沙夜、俺を頼ってよ!」
沙夜の心が壊れそうで、何とか助けたくて峻一は言った。
峻一の思いが、沙夜の胸に染みた。
(いつだって松岡くんは私を助けてくれる。松岡くんを好きになってたら、こんな苦しい思いしないで済んだかもしれないのに)
それでもやっぱり、沙夜の心は颯への想いが溢れる。
人を愛する思いの強さが、沙夜を苦しめる。
「……私も停学だったらよかったのに。颯と同じように罰して欲しかったの。学校に来てても、授業もテストも何も考えられなくて、先生にはそれを言われただけ」
「お前、まさか自分も停学にしてくれなんて言ってないよな?」
「………言った」
峻一はガクリと力を落とし、椅子に崩れるように座った。
「お前、それが本多を苦しませるだけだって分かってないのか!? 俺が本多の立場だったら、たとえ自分がどうなろうと沙夜を一番に守るよ。お前が笑顔で過ごせるなら何だってする。それが俺にとって誇りでもあるんだ」
峻一は何とか沙夜に分かって欲しかった。
愛するからこそ守りたいという、本多の想いを。
「守られてるからこそ苦しいの。一緒に背負っていきたかった。でも颯には逆にそれが負担になってしまうのが分かってるの。でも……私も辛いの」
沙夜の言葉を聞いて峻一は思った。
こんなにもお互いのことを大切にして、自分を苦しめてる恋人同士が他にいるだろうか……と。
そして沙夜はその苦しみに堪えられなくなっているのだ。
いつ解消されるか分からない苦しみ。その苦しみを和らげてやれるのは、もはや颯にしかできないことなのだと峻一は痛感した。
再び沙夜の隣に颯が並んで立つこと。それしか沙夜を救ってやれないのかもしれない……と。
峻一は立ち上がり、なだめるように沙夜の髪を撫でる。
「沙夜、今は頑張って堪えよう。本多も頑張ってるんだ。一緒に頑張ってるんだって思ったら、少しは堪えられるだろ?」
峻一は言っていて、こんな言葉では沙夜を力づけてやれないと思った。
そんな峻一の懸命に自分を励ましてくれる姿に沙夜は感謝し、小さく頷くのだった。
* * *
ピンポーン!
峻一はその日の学校帰り、沙夜を家まで送り届けた後、一軒の家のインターホンを押した。
「……どうしてお前が?」
しばらく後、インターホンから意外そうな男の声が返ってきた。
「話がある。出てきてくれないか?」
「…………分かった。すぐ行く」
インターホンの切れる音がして約一分後、玄関が開き、颯が姿を現した。
門を開け、峻一を迎え入れようとする。
「ここでいいよ」
峻一は颯を引き止める。
颯は峻一の目をじっと見た後、峻一のただならぬ覚悟を感じて、自分も門の外に出て、後ろ手で門を閉めた。
颯は俯き、ずっと気がかりだったことを口にする。
「沙夜は……元気か?」
「何とか学校には来てるよ。……元気には程遠いけどな」
「……そう……か」
颯は低い声で自分に納得させるかのように呟いた。
峻一はそんな颯の様子を見て、彼もまた沙夜と同じように相手のことを想って心を痛めているのだと知る。想いの強さに比例するかのように。
「沙夜とよりを戻すつもりはないのか?」
「戻りたくても……戻れない」
「今、沙夜を救えるのがお前だけだとしても、か?」
「…………ああ」
峻一は颯の心が葛藤しているのが分かった。
「それはお前が少年院に入ったようなヤツだからなのか?」
颯は少年院と聞いて目を見開いた。
「それ、……沙夜が話したのか?」
颯は自分が少年院に入っていたことを、沙夜が簡単に人に言ったりしないと思っていた。言わざるを得ないくらい、沙夜が苦しんでいるのかもしれないと思った。
「いや逆だ。俺が人から聞いたことを沙夜に話したんだ。まあその後本当のことは沙夜から聞いたよ。付き合い始めた時も、別れた理由も聞いた」
「じゃあ俺が沙夜と付き合えない理由も知ってるんだろ?」
苦い思いで颯は峻一に言った。
そんな颯に、峻一はあえてもう一度聞く。
「知ってる。本当にもう元には戻れないのか? 諦められるのか? 忘れられるのか?」
颯の表情が苦痛に歪む。
その瞳には溢れ出る沙夜への想いが見て取れた。
「お前に分かるか!? 自分の過ちのせいであいつを危険に巻き込むかもしれない恐怖が!! 俺だって手放したくなんかなかった。後にも先にも命を懸けてもいいと思うくらい大切な人はあいつ以外いない!」
感情をあらわにした颯に峻一は少々驚いたが、なおも颯に詰め寄る。
「守りぬく自信ないのか?」
「俺はどうなってもあいつを守るつもりだった。けど、いくら俺が喧嘩慣れしてるからって、大勢でこられたら俺だってあいつを無傷で守り抜けないさ。俺の傍にいないことこそがあいつの安全なんだ!」
荒げた声は、まるで自分に言い聞かせるようだった。
何度後悔しただろう。過去の過ちを。
何度思っただろう。沙夜ともっと早く出逢えていたらと。
その度に思い知る。
自分に押された烙印の重さを―――。
「身の安全は守っても、あいつの気持ちはどうするんだよ。今、あいつが学校でどう過ごしてるか知ってるか? 心細そうに、まるで周りに脅えるように、一人でお前のことばかり考えて苦しんでる。そんなあいつをこのまま放っておくのか!?」
男の立場として、颯の気持ちも分からないではなかった。
だが沙夜の姿を目の当たりにした峻一は、ただ沙夜を助けたかった。
「あいつ、今日先生に自分も停学にしてくれって言ったんだ」
峻一のこの一言に、颯は衝撃を受けた。
「本当……か?」
「………ああ」
颯は額に手を当て、俯いた。
「あいつ、ずっと堪えてたよ。お前の気持ちを考えてちゃんと学校にも来てた。それでも言わずにいられないくらい追い詰められてたんだ。別れた現実があいつを追いこんでるんだよ。お前があいつの心を殺してるんだ。それが分からないのか!? 俺じゃダメなんだよ。悔しいけど、今あいつの心を救えるのはお前だけなんだよ!!」
峻一は颯の肩を強く掴んで揺すった。
(俺が沙夜の心を……殺してる?)
颯は心の中で繰り返した。
別れることが沙夜の安全だと思った。だからこそ、どんなに辛くても自分の心を押し殺し、その手を離した。
だが今度はそのことで沙夜の心を殺しているのかと、颯は愕然とした。
(俺はどうしたらいいんだ?)
すぐには答えが出せない。
「本多、頼む。沙夜の心を助けてくれ。このままじゃあいつの心、壊れちまうよ」
峻一の悲愴な呟きが、颯の胸に突き刺さる。
(あいつの身も心も守るには、俺はどうしたらいいんだろうか)
「松岡、少し時間をくれ。よく考えて頭ん中整理して、きちんと答えを出したいんだ」
颯の迷いが峻一にもよく分かった。
すぐ答えを出せという方が無理なのかもしれない。
別れることだって一大決心だったはずだ。よりを戻すにしても、このままだとしても、改めて固い決意が必要だろうと思った。
「分かった。お前が戻ってくれることを信じて待つ。今日は帰るよ」
峻一は颯の出す答えが自分の期待する答えと同じであるように……と思いながら、その場を後にした。
残された颯は、峻一の言葉を思い返していた。
(俺は沙夜を苦しめる存在でしかないのか!?)
自分の不甲斐なさに、颯は拳を壁に叩きつけた。
そしてそのまま壁に寄りかかる。握ったままの拳は震えていた。
(俺は沙夜に何かしてやれるんだろうか?)
颯は空を見上げた。
心の中には沙夜の泣き顔が浮かんでいた。
颯はずっと長い時間、その場にたたずんでいた。
* * *
「沙夜、明日学校来るよな?」
帰宅途中の電車の中で、不安げに峻一が尋ねた。
「……うん」
迷いを含んだ沙夜の返事が返ってきた。
行きたい。行きたくない。……行かなければ。
そんな思いが渦巻く。
明日は颯の停学が解ける日。
颯が登校してくる。
あの夏の別れ以来、颯と顔を合わせるのだ。
颯が学校へ戻ってくる姿を見たい。
しかしどんな顔をして会えばいいのか、今だに分からない。かといって休んだりしたら、それこそ颯に心配をかけてしまう。
沙夜は心と体がバラバラになってしまう気がした。
そんな沙夜を、峻一が隣で気遣う瞳で見ていた。
(……本多は答えを出したんだろうか?)
あの日以来、峻一も颯に会ってはいなかった。
颯からの連絡は一度とてない。
本当にこのまま沙夜と戻らないつもりなのだろうか……という不安がよぎる。
停学が解けたといっても、学校での颯への風当たりは想像できた。
それを同じクラスで見続けなければならない沙夜の心を思うと、峻一の胸は痛む。
きっと己を責め続けて苦しむだろう彼女の心が心配でならなかった。
できる限り、沙夜の支えになろうとは心に決めている。
だが、本当の意味で彼女を救えはしないことも知っていた。
救えるのはただ一人。
本多颯だけなのだ。
彼が沙夜の傍にいることで、彼女の心の疵は癒えるだろう。
周りの言葉や態度で、これからも苦しんだり疵ついたりするだろう。
でも隣に想いを寄せる人がいれば、それだけで心強い支えとなるのだ。
互いの疵を癒すことができるのだ。
(本多、……戻って来いよ)
峻一は切実に心の中で呟いた。
峻一は今でも沙夜が好きだった。
好きだからこそ、彼女のために何かしたかった。自分が彼女に大したことがしてやれないからこそ、なおさらに思った。
彼女の幸せのためだったら、自分の想いが通じないことなどどうでもいいとさえ思えたのだ。
二人はそれからずっと無言だった。
やがて電車は二人の地元の駅に到着した。
何を話していいのか分からず、ただ周りの声がザワザワと二人の耳に届く。
無言のまま、二人は改札を出た。
数歩足を進めた時、沙夜が急に立ち止まった。いや立ち尽くしたのだ。
「……沙夜?」
一点を見つめ息を止める沙夜に、峻一は戸惑い、沙夜が見つめる先に視線を移す。
(あっ!)
峻一も目を大きくした。
その時二人の視線の先にいる人影が、柱からもたれた体を起こしこちらをじっと見つめた。
(あ、足が動かない)
その人影が誰なのか悟った沙夜の体は硬直した。
どうして彼がここにいるのだろうか。
彼に何を言えばいいのだろうか。
沙夜の頭の中は混乱した。
初めは彼がそこにいることが信じられなかった峻一も、こちらを見つめてくる彼の瞳が自分の願う決意を湛えているのを感じ安堵する。
「沙夜、行ってこいよ」
峻一は沙夜の背中を優しく押した。
沙夜は戸惑い、不安を隠し切れずに振り返り、峻一を仰ぐ。
「ちゃんと自分の気持ち、本多にぶつけてきな」
「……松岡くん」
微笑んで自分に語りかけた峻一を見て、沙夜は後戻りできそうにない雰囲気に躊躇した。
峻一はもう一度颯をじっと見た。
颯も峻一を見て、深く一度頷く。
沙夜を颯に任せようと、峻一は沙夜の肩を掴み、彼女を颯の方へ向かせ前にそっと押し出した。
「本多のところへ行きなよ」
言うとそのまま自分は駅の出口へ歩み出した。
取り残された沙夜は、颯を見つめながらもどうしていいか分からず、ただ鞄を持つ手に力が入るばかり。
鼓動がやけに大きく聞こえる気がする。
(どうしよう。颯に何を言えばいいの?)
硬直した手が微かに震えた。
一歩も踏み出せないでいる沙夜のもとへ、颯がしっかりとした足取りで歩み寄ってきた。
颯の表情は何かを吹っ切ったように、清々しさを漂わせていた。
「沙夜」
久しぶりに聞く颯の自分の名を呼ぶ優しい声に、沙夜の心に愛しさが込み上げた。
「急に会いに来て驚かせてごめんな。でもどうしても明日学校で会う前に、沙夜に伝えたかったんだ」
前と変わらない颯の声の響き。
沙夜の胸は恋しさで締め付けられる。
ずっとどんな顔して颯に会えばいいのか分からなかった。
だが今こうして彼を目の前にして、真っ先に感じたのは颯への愛だった。
「ずいぶん辛い思いさせてしまったんだな。本当にごめんな」
颯は自責の念を湛えた瞳で沙夜を見つめ、そっと彼女の髪を撫でた。
沙夜の瞳に涙が滲む。
「ううん。……私こそごめんなさい」
首を振ると、涙が一筋頬を伝って流れ落ちた。
沙夜の胸の内を、颯は痛いほど感じていた。
沙夜を守るつもりでしたことが、自分が停学になったことで彼女を苦しめていた。
思いあがっていたことに気づいたのだ。
自分がどうなろうと彼女さえ守れればと。
守ったつもりだった。
しかしそれは自分の独り善がりの考えにすぎなかった。
その結果が自分も停学にして欲しいと言った彼女の言葉であり、この彼女の涙なのだ。
「…………沙夜」
颯は切なく彼女の名を呼び、彼女の頭を自分の胸に引き寄せた。
沙夜は颯の温もりを感じ、その胸にしがみつく。
「……颯、……颯」
沙夜は夢中で名前を呼んだ。
辛かった思いをこの温もりが消し去っていく。
そんな沙夜の頭を、颯は愛しそうに撫でていた。
駅には次の電車が到着し、乗客達が次々に電車から降り、改札口に向かってきていた。
それに気づいた颯は、沙夜の肩を抱きその場を離れる。
駅から出て、その壁の裏側の人通りの少ない所へ移動した。
その間も、沙夜は颯にしがみついた手をその胸から離そうとしない。
離してしまったら、颯とは一人の友人という関係に戻らなければならないと思っていたからだ。
今はまだ颯の温もりを離したくはなかった。離した時、心にまた苦悩が蘇ってきそうで怖かった。
「沙夜、俺のわがまま聞いて欲しい」
颯は沙夜を抱く腕を解き、頬に触れ、その涙が光る瞳を見つめた。
「わが……まま?」
不思議そうに沙夜は聞き返した。
颯は大きく頷く。
迷いのない真っ直ぐな瞳に、沙夜はその瞳に吸い込まれた。
颯は、まだ自分の胸の服をギュッと握っていた沙夜の手を掴んだ。
「俺と一緒にいて欲しい。戻ってきて欲しいんだ、沙夜」
沙夜は息を飲み、目を見開いた。
一瞬彼の言葉の意味が分からなかった。
自分の都合のいいように、そう聞こえただけだと思った。
(……元に戻れるの? 颯の隣にいていいの?)
沙夜は口を開くが、何も言葉にならない。
「苦しみも悲しみも……喜びも、一緒に分かち合っていきたい」
颯は峻一と話をした時から、ずっと考えてきた。
どうすれば沙夜のためになるのか。
何か彼女の心も体も救える方法はないのだろうか。
そして自分はどうすべきなのか。
何も手につかないほど、毎日同じことを繰り返し考え、悩み抜いた。
そしてある時、ふと思ったのだ。
自分が沙夜の立場に立った時、どうして欲しいと思っただろうか、と。
相手にすべてを背負わせて、平静でいられるわけがなかったのだ。
背負わせた分、自分の身を挺して守った分、彼女はその重さに苦しんでいた。
もし自分が沙夜だったら―――。
守って欲しかったんじゃない。
共にその苦しみを分かち合い、二人で乗り越えていきたい。たとえそのために自分の身が傷ついたとしても。
中川が沙夜と自分に言ったことを、颯は思い出した。
起こってしまったことを悔むよりも、二人でそれをどう乗り越えていくか考えていって欲しいと。
自分の心を大切に思うことも、おざなりにしてはいけないと。
そしてその言葉で颯は気づいた。
自分達はお互い相手のためと思って、相手に迷惑はかけまいと、負担にはなるまいと、自分の心を閉じ込めようとしてきた。
しかしそうではなかったのだ。
本当に相手のことを思って気持ちを考えていれば、自分の心を殺すことはなかったのだ。
自分の想いを大切にしてこそ、相手のその本当の想いを知ることができるし、どうして欲しいかも感じることができるのだ。
その時颯はやっと自分の心を見つめ直し、自分の考え、行動が浅はかだったことに気がついた。
離れお互いを想い悩み苦しむなら、共にいてその苦しみに立ち向かっていこう。
颯は数日かけてようやくその決意に辿りついた。
「沙夜。俺はもし何かあった時、お前を命懸けで守るだろう。お前を傷つけてしまうかもしれない。だけどもう迷わないし、恐れない。俺はお前を巻き込むことにしたよ」
颯は目を細め、微笑んだ。
漆黒の闇を湛えた瞳が、その呪縛から解き放たれたように光った。
沙夜は震える唇を噛み締める。
だが堪えきれずに涙は溢れ、颯に抱きつき、その背中にギュッと手を回した。
「………………」
何も言葉にならない。
(颯が戻ってきてくれた!)
嬉しかった。
颯とまた一緒にいられることが。
そして颯が自分を認め、己の抱えるものを一緒に背負い、乗り越えていこうと思ってくれたことが。
「沙夜ももう一人で苦しむな。俺は沙夜に辛い思いをさせると思う。だから沙夜も、沙夜の苦しみを俺に分けて欲しい。二人ならきっとそんな思いにも立ち向かって乗り越えていくことができると思うから」
沙夜は颯の言葉に、彼の胸の中で何度も頷いた。
一人では堪えられなかった苦しみも、二人一緒なら頑張れると思った。
もう心細さはなかった。
「沙夜……」
颯の愛おしそうな声に、沙夜は彼を見上げた。
彼の穏かな顔に、沙夜も頬が弛み、自然と笑顔が浮かんだ。
「もう二度と、決して離さない」
「私も……もう離れないよ」
二人はどちらからともなく唇を重ねた。
以前のような悲愴に満ちた思いはなかった。
とても満ち足りた、前向きな思いがそこにはあった。




