(6)
翌日、一人の見舞い人が訪れた。
「中川さん!」
初老間近といった一人の紳士を目にした颯は立ち上がろうとする。
その男性は慌てて彼を止めにかかった。
「まだ打撲が痛むだろう。そのままでいいから」
言葉に温かみがあった。
颯ははにかんで元の位置に戻った。
沙夜は椅子から立ち上がり、一礼する。
(この人が颯の恩人の中川さんなのね。優しそうな温かそうな人)
沙夜も好感を持った。
中川もニッコリと、
「こんにちは」
と答えた。
「中川さん、すいません」
颯は申し訳なさそうに頭を下げる。
「また警察沙汰なことを起こしてしまって……。ご迷惑お掛けしました」
中川は、頭を下げ続ける颯の肩に優しく手を置いた。
「ハイ、これお見舞い。奥さんの手作りパン。好物だったよね」
思いもかけない、温もりのある言葉に、颯はキョトンとして顔を上げた。
それに答えるように、中川は優しく頷いた。
「分かってるよ。君はもう訳もなく人を傷つけたりはしないってこと。それに君が本気をだせば、君がこんな大怪我するなんてことないよね? 相手が大怪我するなら考えられるけど」
中川の言葉を聞いて、沙夜はちょっと驚いた。
実は颯がかなり喧嘩が強いと知ったからだ。
(ひょっとして颯は負け知らず……?)
そんな考えがふと横切った。
「君が戦ったのは相手じゃなかった。己自身と戦った。そうだよね?」
颯は中川に心を見透かされ、
「はい」
と一言力強く頷いた。
「それならば私に謝る必要はない。君が頑張っているって分かって、私は嬉しいよ」
颯も沙夜も、その言葉がとても嬉しかった。
結果だけではなく、過程もちゃんと見ていてくれる。そして認めてくれる。
その存在が二人には心強く感じた。
冷たい視線に晒され続けた苦しみが、癒えていくのを感じていた。
「それはそうと、このお嬢さんを紹介してくれないかな?」
部屋の雰囲気を変えようと、中川は話題を切り替えようとする。
中川の言葉に、颯も沙夜も忘れてた…というような顔をして視線を合わせ、互いに微笑んだ。
「彼女がお話した和泉沙夜さん。俺の大切な子です」
ストレートな颯の言葉にちょっと照れながらも、沙夜は中川に深々と頭を下げた。
「初めまして。和泉沙夜です。中川さんのことは颯から聞いてます。大切な恩人で、父親代わりの人だって」
「初めまして。君があの沙夜さんだね」
沙夜の言葉を聞いた中川は納得したように頷く。そして颯を見て微笑んだ。
「いい子に巡り逢えて良かったじゃないか」
颯は噛み締めるように頷いた。
「本当にうれしかったです。沙夜が俺の過去を知っても、真っ直ぐ俺を見つめてくれたことが。俺を愛してくれたことが。本当に嬉しかった」
見つめて言った呟くような熱い想いを、沙夜もまた胸が熱くなる思いで聞いていた。
(私も颯と巡り逢えて本当によかった。今ならはっきり言える。颯以外の人は考えられないって)
沙夜の脳裏に、初めて逢った入学式の様子が浮かんだ。
ぶつかった拍子に僅かに交わした視線。
漆黒の闇を湛えた双眸に心を奪われた一瞬。
あの時は想像もできなかった。
人をこんなに愛することになろうとは。
自分のことよりも、この目の前にいる人を大切にしたい。そんな思いを抱くことになろうとは。
「さあ皆でこのパンでも食べようか」
二人の想いを感じ、親心のように頼もしく思った中川が安心したように言った。
「じゃあ私飲み物買ってきます。何がいいですか?」
沙夜は鞄から財布を出そうとした。
「お金は私が出すからいいよ」
「え…でも……」
沙夜が申し訳なさそうに呟くと、颯も、
「俺が出しますから」
と言った。
「いいからいいから。ここは社会人の私にまかせなさい」
大らかな中川に言葉に、沙夜と颯はアイコンタクトを交わし言う。
「じゃあお言葉に甘えて」
「ごちそうになります」
沙夜は中川からお金を受け取った。
「中川さん、なに飲みます?」
「ではコーヒーお願いしていいかな?」
「コーヒーですね。えーと颯は……」
「俺もコーヒー」
ポツリと言った颯の言葉に、沙夜は口を尖らせる。
「だーめ、颯は牛乳。腕の骨ヒビ入ってるんだからカルシウムとらなきゃ」
苦笑いする颯を見て、中川から笑い声がこぼれる。
「ははは……っ、颯が尻に敷かれるとこ見れるとは思わなかったよ」
中川が言うと、沙夜の頬が赤く染まった。
そんなことはおかまいなしに中川は続ける。
「その調子でこれからも颯のこと、頼むよ」
頼もしげに言う中川の言葉に沙夜は照れながら頷くと、そのまま売店へと足を向けた。
中川は空いた椅子に腰掛けると、穏かな表情を颯へ向けた。
「本当にいい子に出逢えたな。君の顔つきが優しくなったのは彼女のおかげのようだ」
颯は真っ直ぐ中川を見て頷いた。
「俺も驚いてます。……こんなにも誰かを愛する心がまだ自分にあったことに。そしてその人を守りたいと思う心があったことに」
颯は沙夜の顔を、彼女の眼差しを思い浮かべていた。
『私の心を熱くさせるのも切なくさせるのも、本多くんだけだってこと分かったの』
『私も好きになっても……いい?』
もう死んでもいいと思えるくらい、その言葉は颯の心を熱く満たした。
出逢った時には想像もつかなかった。
人を愛する想いが自分に湧き上がることになろうとは。
彼女の想いを泣けるほど嬉しいと感じることになろうとは。
そして一番の驚きは、この自分の想いを受け入れてくれた彼女の存在―――。
自分といたって彼女には何のメリットもありはしない。それでも彼女は自分を選んでくれた。
ならば自分は何にかえても彼女を守りたいを思った。
たとえ自分の過去の疵をさらけ出すことになっても、彼女の幸せを守りたいと思った。
それが自分にできる唯一のことだと思ったのだ。
「中川さん、本当に沙夜は俺にはもったいないくらいのいい子です。だからこそ時々思うんです。こんな俺が彼女の隣にいていいのかって。彼女の幸せを願うなら、俺が傍にいるべきじゃないんだって……」
中川は、重い声で呟くように言った颯の肩を励ますようにポンッと叩いた。
「自分を卑下してはいけないよ。過去の過ちはこれからとり返していけばいい。償っていけばいい。その心を忘れなければ、君は彼女の傍にいていいんだよ。それに見ていれば分かるよ。沙夜さんの君に対する純粋な想いが。彼女は損得で君を愛したんじゃない。ただ君が好きだから傍にいるんだよ」
だからこそ……と颯は迷う。
愛しているからこそ、彼女を守りたい。
なのに自分が彼女を傷つける存在になってしまうかもしれない。
―――共にいるがゆえに彼女を傷つけてしまう、その恐怖。
―――別れることで彼女を失う、その恐怖。
どちらかを選ばなければならないのかもしれない。
颯の胸の内は葛藤していた。
「沙夜を今回のようなことに巻き込んでしまったらどうしようって、俺怖いんです。今回は危害を加えられずに済んだけど、守りきれなかったら、沙夜を傷つけられたら、俺は自分を許せない。それに沙夜の心を傷つけてしまうんです。巻き込まれて怖い思いをしただろうに、俺を決して責めようとはしない。自分を責めるんです。俺が人を殴ったのは自分のためなんだって、俺を過去に立ち返らせてしまったんだって、真っ先に己を責める子なんです、沙夜は」
何に変えても守りたい大切な存在なのに、自分が苦しめてしまっている。
どうしたら彼女の笑顔を守れるのか。
どうすれば彼女の幸せを守れるのか。
答えを出すことを颯は恐れていた。
「君も沙夜さんも、まだ人を愛すること愛されることに慣れていなくて不器用のようだ。お互いがお互いを想い合って苦しむことがこの先もあるだろう。でも自分の心を大切に思うことも、おざなりにしてはいけないよ。いいね?」
中川の言葉の意図を、颯は何となく察した。
「そう……ですね」
颯は曖昧な返事しかできなかった。
沙夜の隣に、この先もいていいのか。
自分の想いに正直に、自分の想いを最優先にしたら、沙夜を離したくはない。
たった一人の唯一無二の大切な人。
彼女の代わりには誰にもなれない。この先二度とは出逢えない大切な存在。
しかし自分の想いだけで彼女を縛り付けてもいいのだろうか―――と。
しばらくすると、コンコンとドアをノックする音が室内に響いてきた。
そしてドアが開くと、ひょっこり沙夜が顔を覗かせた。
「ただいま~」
軽い足取りで沙夜が歩いてくると、中川は椅子から立ち上がり席を空ける。
「あ、いいですよ。座ってて下さい」
沙夜は中川に言いながらコーヒーを手渡した。
「じゃあ遠慮なく」
中川は沙夜に言われ、もう一度腰を下ろした。
「いえ、こちらこそごちそうになります」
沙夜は言って颯に歩み寄ると、パックの牛乳にストローを挿して手渡す。
「ありがとう」
「しっかり飲んで、早く治そっ」
無垢な笑顔を見せて言う沙夜の顔を見つめる颯の表情は、どこか浮かない色である。
「どうかしたの?」
気づいた沙夜が尋ねた。
「何でもない」
聞かれた颯は心に残る迷いを悟られまいと、何でもないフリをして答えた。
沙夜はどこか腑に落ちないものを感じながら、でもたいして気にもとめることはなかった。
そうして三人で見舞いのパンをほおばりながら、数十分の談話の後、中川が帰宅のため席を立った。
「お大事に。何かあったらいつでも家に来たり、電話くれていいからね」
「はい。ありがとうございます」
「それじゃあ、また」
颯は一礼して中川を見送る。
「私、玄関までお送りします」
沙夜は、病室を出ようとしていた中川に駆け寄って、一緒に病室を出た。
隣を歩く女の子に中川は話しかける。
「これからも颯のこと、よろしく頼むね。普通なら悩まなくていいことも、君達には振りかかるかもしれない。ぶっきらぼうなとこもあるし、本音をあまり言わないあの子が君にだけは心を開いて優しい顔を覗かせる。あの子にとって、君は何にも代えがたい存在だってことよく分かったよ。だからこそこれからもあの子の傍で、あの子を支えてあげて欲しい」
ふと沙夜は歩みを止めた。
「沙夜さん?」
沙夜は思い詰めた顔をして中川を見上げる。
「私、颯の傍にいていいんでしょうか? 私のせいで彼にムチャさせているんじゃ……。中川さんみたいに颯を支えてあげられるのか、自信ないんです。今日中川さんに初めて会って、なかなか会えない二人だけど、中川さんが颯のこと信じてるってこと分かって、二人の絆を感じて……。私もそんな存在になれるのか、颯の負担になるだけじゃないのかって不安なんです」
中川は、沙夜とそして颯の内に秘めた想いを知って、心の奥で二人の強い想いに人としての温かさを感じた。
好きだからこそ相手のことをまず第一に考えてしまう。
それゆえお互いのことを想いあって苦しくも不安にもなる。
二人とも優しい。優しすぎるのかもしれない。
自分の想いを最優先にするような人間だったら、こうも悩まなかっただろうに……と中川は思った。
「沙夜さんの存在は、颯に力を与えることはあっても、決して負担になったりはしないんだよ。颯はね、自分のことで君が苦しむのを、己を責めるのを見るのが辛いんだ。君がそれだけ颯のことを想っていてくれるってことだけど、どうか颯の想いを汲んで、まず二人で乗り越えていくことを考えていって欲しい」
(二人で乗り越えることをまず考えて……)
沙夜の心に中川の言葉がこだました。
起こってしまったことをいくら後悔したって仕方のないこと。
そこから同じ過ちを繰り返さないよう、二人でどうすればいいのか考えていくことの方が大事なのだと、沙夜は中川の言葉を受け止めた。
「中川さん、今日は本当に色々ありがとうございました。私、中川さんに相談できてよかったです。颯と二人で苦難を乗り越えていけるよう頑張ります」
玄関先で別れる時、沙夜は中川に言った。
中川はその言葉を聞いて、頼もしげに微笑んで頷き、病院を去って行ったのだった。
* * *
次の日。退院を翌日に控えた日でもある。
重い表情をしていた颯が、一晩考えて決心したことを切り出した。
「別れよう、沙夜」
「………え?」
信じられない言葉に、沙夜は耳を疑った。
颯は真っ直ぐに沙夜を見つめた。
「ただの友達に戻ろう」
沙夜の表情が凍りつく。
(颯は冗談なんか言う人じゃない)
「いや……。そんなのやだよ。どうして急にそんなこと、言うの……?」
口も手も震えが止まらない。沙夜はそのくらい動揺していた。
颯はその震える手を右手で握り締めた。
「ずっと考えてた。沙夜を幸せにできるのか……。俺は沙夜を苦しめるだけの存在なんじゃないんだろうか……。どうすればいいのか分かってたはずなのに、結論を出すのが怖かった。俺は沙夜の隣にふさわしくないって」
颯の言葉を聞いて、沙夜はハッと気がついた。自分も颯と同じことを考えていたことに。
自分が彼の傍にいてもいいのか。
それは沙夜の疑問でもあったのだ。
「昨日ね、中川さんに相談したの。私は颯の傍にいてもいいのかって。颯の負担になったりしてないかって。中川さんは起こってしまったことを悔むよりも、二人でそれをどう乗り越えていくか考えていって欲しいって言ってたよ」
颯は沙夜を抱き寄せた。
乗り越えれることなら乗り越えていきたい。取り戻せるものなら取り戻したい。でももしやりなおしのきかないことが起こったら、悔んでも悔みきれない。
沙夜の幸せを考えるのなら、この方法が一番彼女にとってもいいことなのだと颯は自分を納得させる。
「沙夜。俺が一番恐れているのは自分の過去が露呈することじゃない。沙夜を巻き込んでしまうこと、沙夜に危害を加えられるのが一番怖いんだ。……沙夜を失うのが一番怖いんだ。分かって欲しい」
沙夜を抱く腕に力がこもる。
(震えてる。……颯の手が震えてる)
颯の苦悩を感じ、沙夜もまた颯の胸に置かれていた手でギュッと服を握っていた。
「好きなの、傍にいたいの。……それだけじゃダメなの?」
彼を二度と一人には、孤独にはさせたくはなかった。
何より自分が彼の傍にいたかった。
なのに自分の存在が、誰よりも大切な人を苦しめている。
「沙夜。お前の真っ直ぐに俺を見つめてくれる瞳が好きだった。温かな心がいつも俺を包んでくれていた。俺の凍った心を溶かしてくれたのは他の誰でもない。沙夜、お前だ。何に代えても守りたかった。身も心も……。今度のことで思い知ったよ。お前を守るには離れるのが一番の方法だと。……皮肉にもね」
沙夜は颯の胸の中で首を振って否定した。
それでももう分かっていた。
颯の頑なな決心を。颯の苦しい思いを救うには、別れるしかないと。
そしてその思いを受け入れようとしている自分の心を―――。
悟った時、沙夜の瞳から涙が溢れ出した。
(好きだけじゃダメなことってあるんだね。颯の心を救うには、私は友達に戻るしかないのかも……。友達として彼を孤独から救うことしかできないのかもしれない。でももう友達に戻れないよ……)
沙夜は知ってしまっていた。
人を想うことの心の熱を。その強さを。
一度湧き上がった熱い想いは、そう簡単には冷めはしない。一度想いが通じたのなら尚更に。
お互い今も心は変わらないのに、その心を押さえて友達として向き合う自信が沙夜にはなかった。
そしてそれは颯も予想したことだった。
真っ直ぐに想いをぶつけてきた沙夜に、心を曲げる真似はできないと。
口では「友達に戻ろう」とは言いながら、別れはイコール他人になることを意味していた。
友達ではなく、ただの知り合い。
颯は想いを押さえ、口を開く。
「沙夜。俺のことは忘れて、他の誰かと幸せにな。……沙夜ならもっといいヤツと巡り会えるよ」
颯の言葉に、沙夜は涙で充血した目を見開いて彼を見上げた。
彼の言葉が信じられなかった。
(颯は忘れられるの? ……私にはできない)
時が解決してくれるとはよく聞くが、沙夜には無理なことに思えた。
見つめていると、颯の瞳が切なく揺れていることに沙夜は気づいた。
その瞳からほとばしる想いが、痛いほど沙夜に伝わってくる。
(颯はいつだって私のことを一番に考えてくれる。私のこと想っていてくれる)
苦しまないように選んで言った颯の言葉を、沙夜は静かな心を受け止めていた。
「颯の気持ち、分かった。颯の言う通りにする。……友達に戻るよ」
一言一言、やっとのことで沙夜は言葉を口にした。
颯もまた、静かにその言葉を受け入れた。
「ありがとう。ごめんな、辛い想いばかりさせて……」
「ううん……」
この心は変わらない。
たとえ今一緒にいられなくても、他の人を愛することはないだろう。未来に共に歩める望みがあるのなら、この想いは冷めはしない。
(私は颯のこと、今もこの先も……ずっと好き)
颯も心の内で思っていた。
この先沙夜が誰と付き合おうと、自分のことを忘れようと、沙夜を見守っていこう。この想いはずっと胸の内に秘めたままになろうとも―――と。
(もう二度と言えないかもしれない。沙夜……愛してる)
颯は沙夜を抱く腕を解き、その手で彼女の頬に触れた。
見つめあう二人の想いは、愛しい者へ注ぎ込まれていく。
(愛してる、……愛してる)
二人はただもうその言葉を胸の内で呪文のように繰り返していた。
やがて、颯は静かに沙夜の唇に自分のそれを重ねた。
生まれて初めての、愛する人との口付け。
颯は初めて知った。心の通ったキスが、こんなにも心に響くものだということを。
唇から痛いほどの想いを受けた沙夜の瞳からは、新たな涙が一筋頬を伝って流れ落ちた。
(忘れない。この切ないファーストキスも、颯の想いも、心に刻みつけておくの……)
いつの日か再び笑顔で彼の隣にいる、その日がくることを沙夜はただ祈っていた。




