2話
地下の薄暗く、湿った牢。
「ほら、さっさと入れ」
看守に押し込まれる様に牢の中に足を踏み入れる。
すぐに格子扉が閉められる。
振り替えると看守が威圧感の有る声をかけてきた。
「今からお前の名前は3751番だ。いいな。問題を起こせば容赦無く懲罰を与える。大人しくそこで反省していろ」
それだけ言って看守は去って行った。
うつ向くも目に入るのは、両手の自由を奪う大きな手枷だけだった。
「お前さんは何をしでかしたんだい」
牢の奥から声がした。入るときは暗さと動揺で気にもしなかったが、牢の奥の暗がりに数名の人が居た。
彼等の視線は全て私に向けられていた。
「盗みを、運悪くすぐに憲兵に見つかってしまって」
「ほら、予想通りじゃねえか。俺の勝ちだな」
私の言葉に半ば被せるように、一人の囚人が勝利を宣言する。
当惑する私に他の囚人が説明してくれる。
「すまないな。ここに居るとこれぐらいしか娯楽が無くてな。
次に来るのが盗みをした奴か憲兵を殴った奴かをかけてたんだ」
「ここはその程度の軽犯罪者が入れられる牢だからな。
お前さんがうなだれて入ってきた時点で、勝ちを確信できたぜ」
当惑する私に彼等は優しく話しかけてくれた。
この牢が軽犯罪者用という事も有るかも知れないが、その雰囲気は予想していたものとは別物だった。
「では、皆さんも同じような理由で捕まったのですね」
「ああ、ほとんどの奴は盗みだ。生きていくためには食わなきゃならん。お前さんもその口だろ」
「そうです。ああ、でも、私の空腹なんかどうでも良いのです。妻と娘がお腹を空かせて私の帰りを待っているのです。私は、私は、パンを持って帰らなければならないのに、それが、どうして、」
言葉尻が切れ切れになっていく。更にうつむき、しまいには崩れ落ちてそこにしゃがみこんだ。
私はなんと愚かなことをしてしまったのだろうか。パン屋の店主相手に後払いの交渉が失敗した時点でパンを諦めていれば、空腹は満たされないがそれでも妻と娘の所に帰れたのに。
「そいつは難儀だったな」
一人の囚人が優しく声をかけてくれた。
「確かに奥さんや娘さんの事は心配だろう。だが、人は以外と強い。お前さんの奥さんはきっとうまくやっているさ」
「そうで、しょうか、」
「ああ、きっと大丈夫だ。今はそう信じて釈放されるのを待つだけだ」
「釈放ですか。そう言えば、どれぐらいで釈放されるのでしょうか。その辺りを全く聞いていません」
「本来は軽犯罪言えどそこそこの日数を牢の中で過ごさなきゃいけないわけだが、今じゃ街で犯罪者が溢れかえっているからな。
みんな生きるために必死だ。そりゃあ盗みを行う奴なんかそこら中に居るさ。
次の新しい囚人を入れるため、一番古株から釈放されていく。
つまり、どれぐらいここに居るかは、どれだけ多くの人が憲兵に捕まるかによる」
囚人は不敵な笑みを浮かべながら皮肉を言う。
誰だって憲兵に捕まりたくない。だが、誰かが捕まってくれればそれだけ自分たちが早く外に出られる。
自分勝手なひどい話だが、事実に変わりなかった。
「なるほど」
「だからお前さんもそんなに嘆く事は無い。順繰りですぐに出られるさ。
そしたら奥さんと娘さんの所に戻ってやれば良い」
「そう、ですね」
優しい言葉に動揺していた私の心は、少しだけ落ち着いた。
牢の中での暮らしについて聞いているうちに、一人の囚人が看守に呼び出される。
「どうやら俺もここから出れるようだ。じゃあな」
残される私たちにそう言い残し、その囚人は牢の外に出ていった。
しばらくして、別の人が牢に入れられる。
こうして牢は常に満杯のまま、新しい囚人を入れるために古い囚人から抜けていく。
本当に数日の辛抱で外に出られそうだ。
一晩、二晩と日にちと時間が過ぎていく。
やることが無い牢の中では、会話ぐらいしかする事が無い。
そんな会話も、看守近づく足音がしたら止める。看守に会話していることが知られれば、懲罰の暴力が待っている。
だからみんなひっそりと聞き耳をたてながら、会話をしていた。
「ああ、さっさとここから出たいぜ」
もうすぐ出る順番が回ってくる囚人が、待ちきれない様子で呟く。
「もうすぐだろう。外で憲兵サマがきちんと働けばすぐに出られる」
他の囚人が軽口で答える。
「そうだな。だが、革命グループが今すぐにでもこの上の役所を襲撃してくれれば、俺たちはみんな外に出られるんだがな」
地方庁舎を襲撃したとされる革命グループ。
一部の人からすれば、その存在は希望にもなっていた。
「そんな奴等が本当に居ればな」
一人の囚人が冷笑しながら会話に混じる。
「お前は居ないと思っているのか。だが、庁舎庁舎が襲撃されたのは事実だろう」
襲撃が有った以上、その犯人と思われている集団が居ると思うのは当然だった。
言われて否定的だった囚人は、自分の見聞きした事を話始めた。
「酒場の店主をしていると、色々な客が来る。
地元の馴染み客も居れば、外から流れてきた旅人も居る。
偶々、俺の店に来た一人の客が、その地方庁舎襲撃の一部始終を見ていたそうだ。
その客の話では、襲撃の始まりは一人の農民らしい。
不作に重税が重なり、どうにもならなくなった、どこにでも居そうな一人の農民。
その農民は地方庁舎で暴れた。最後の抵抗だな。普通ならそのまま取り押さえられて終わるはずが、その時は違った。
偶々通りかかった他の農民も一緒になって暴れだした。その後もどんどんと参加する農民が増えていった。
憲兵が鎮圧した頃には地方庁舎は焼け落ちていた、という事らしい。
その暴動を起こす人の増え方があまりに急激だったので、背後に何か組織が居たんじゃないかと噂されだしたのが始まりだそうだ。
つまり、革命グループの存在はそんな怪しい噂話が元ってわけだ」
「だが、確実に居ないと言う証拠にもならないだろう。現に憲兵どもはその革命グループを捕まえようと躍起になっているんだから」
「ああ、ただの可能性の話だ。
だが、現実として誰がその革命グループに入るんだ。例えば君が誘われたら加入するのか」
「そりゃあ、」
会話はそこで止まった。遠くから看守の足音が近づくのが聞こえたからだ。
男の返答は聞くことが出来なかったが、それでも態度でわかる。
もしそんな危険な組織に加入すれば、常に憲兵に追い立てられる事になる。
そこまでして入りたいと言えるほどの人は少ないだろう。
市民の誰もがその存在を希望するが、誰も自分からは入りたがらない。それがその組織に対する思いだった。
そんな会話をしていた二人も、革命グループの襲撃なんかが起こるより前に牢を後にしていった。
一人また一人と囚人が入れ替わっていく。
度に、自分より先にこの牢に居た人が居なくなる。
それはそのまま自分が自由になる時が、徐々に近づいてきているという事でもあった。
早くここを出たい。出て妻と娘の元に駆けつけたい。心配をかけてすまなかったと謝りたい。
自然と笑顔が増える。
自分が訳もわからずこの牢に入れられた時に色々教わったように、自分より後から入ってきた人達に優しくここがどのような場所なのかを説明する。
そうしているうちに、とうとう自分が一番の古株になった。
次にここを出られるのは自分だ。
その時を今かと待ちわびた。
少し申し訳なくもあるが、憲兵には早く次の人を捕まえて欲しいとすら思った。
そして、とうとうその時が来た。
看守が足音をたてて近づいてくる。
「おい釈放だ」
だが、看守が呼び出したのは私ではなく、私の後に入ってきた囚人だった。
呼ばれたその囚人も戸惑っていた。
私は思わず声をあげた。
「すみません。順番で言えば次に釈放されるのは私のはずですが」
言われた看守は眉間にしわを寄せながら答えた。
「そうなのか。俺は上からそう言われたから、そう伝えただけだ」
「では、もう一度確認してきていただけませんか」
「だが、お前の言うことが本当だという証拠も無いな。
もしこれで再確認しに行って無駄足だったら、貴重な俺の時間を奪って職務の邪魔をした事になる。
懲罰は覚悟しているのだろうな」
看守は私を睨みつつ、威嚇するように一歩近づいた。
それでも怯まず、必死に食い下がった。
「本当の事です。ですからもう一度確認をお願いします」
看守は黙って思案した後、舌打ちをして確認しに戻った。
自分は間違えていない。
それにもう出れると思っていたのに、出れなくなるという事態は堪えられない。
この時のために、何日も待ち続けた。
私は早く妻と娘の元に戻りたい。
少しして、また看守の足音が近付いて来るのが聞こえた。
心なしかその足音が先ほどより大きく荒く感じた。
看守が牢の前まで来ると、私は呼ばれた。
出れると思い牢の柵に近づくと、看守は柵越しに私の胸ぐらをつかみ、私を殴り付けた。
「この嘘つきが」
「そ、そんな、」
「凶悪犯のくせによくもそんな嘘をのうのうと言えたものだ。この軽犯罪者用の牢に居ること事態が何かの間違いだったくせに」
看守は殴り続けた。
私は反論すら出来なくなった。
看守が満足したのか、私の胸ぐらを離した。私はそのままその場所に倒れ込んだ。
「貴様の事は覚えたからな、3751番。そう簡単に出れるとは思うなよ」
そう言って私を睨み付けた。
結局、私の後に入ってきた囚人が釈放となり、新しい囚人が入ってきた。
それ以降も私が呼ばれる事はなく、私の後から入ってきた囚人が出ていった。
私は何度か「もう一度確認して欲しい」を看守に訴えようとした。
しかし、その度に看守に睨まれ、看守の機嫌が悪いときは容赦無く殴られた。
暴力は人の行動をたやすく変える。
私は暴力に怯える子供のように、看守からは距離をとり、小さくなって静かにしているようになっていった。
すぐに出ることは叶わない。
いつまでここに居なければならないのかも分からない。
何よりも気にかかるのは、妻と娘の事だ。
もう何日も帰れていない。二人は大家に追い出されてはいないだろうか。どうにかして食にありつけているのだろうか。
そんな事を考えても、私に出来る事は限られている。
私は新しく入ってくる人に質問を繰り返した。
私が住んでいた地区に行った事は有るか。
その番地に住んでいる私の妻と娘を見かけた事は有るか。
あなたが最後に私の妻と娘を見た時、二人は元気そうだったか。
そんな質問を思い浮かべて話しかけるが、最後の質問に辿り着く前に首を降られる。
私は肩を落として、牢の奥に戻る。
いつまで経っても出られない私の異常性は同じ牢の仲間も気が付いており、私に話し掛ける者は減ってくる。
新しく入ってきた人にもその話が話されるので、当然新しく入ってくる人も私には話しかけようとしてこない。
気が付けば、私と看守のいざこざを目撃した人はもう牢の中に居なくなっていた。
それでも、いつまでも出られない私の噂は受け継がれ、誰一人私に話しかけてこない。
牢の奥、薄暗い角。そこが私の定位置となり、それ以外の場所を他の囚人が右往左往する。
大勢が入れられている牢の中で孤独を感じながら、それでも私に出来る事は新しく来た囚人に妻と娘の事を聞くことだけだった。
職を失ってからずいぶん経った。
あの時は、後輩たちに「再就職するまで物乞いでもしてすごす」なんて軽口を叩けたが、その軽口すらままならない。
不況はどんどん悪化していた。
知り合い達も次から次へと職を失った。
そんな状況で再就職なんて出来るわけが無かった。
物乞いとして生きていくのも大変だった。
聞けば前はもう少し、色々な店の店主が慈悲深かったので、物乞いとして生きていけた。
それが今では心優しい店主は居なくなった。
どの店でも、明日も営業出来るように売り上げを作り出す事に必死だ。
そうなれば、慈悲の心なんてものは最初に削られる。
どこの店の店主も、俺達を見つけるや険しい表情で怒鳴り付けてくる。
そこを食い下がって慈悲を求めても、突き飛ばされるのが目に見えていた。
俺自身、ここの所、食にありつけていない。
空腹と疲労で意識は朦朧としていた。
物乞い仲間も何人かは見かけなくなった。どうなってしまったかは想像したくない。
生き残るためには、盗むという手段も残されている。
だが、盗むのに失敗して憲兵に捕まれば、その出来事は将来再就職するときに必ず障害になる。
だからこれまで物乞いだけをして、清く生きていた。
再就職を確実なものにして、いち早く俺の人生を再出発させたかったから。
その決意も崩れそうだった。どうせ再就職が絶望的ならば、盗みを働くことがなぜ駄目なのか、と。
ふらふらと街中をさまよい、食べ物を探す。店を見つけては慈悲を請う。
それで何とか今日まで生き延びてきた。
俺は通りかかった道沿いの店に釘付けになっていた。
店頭にはパンがずらりと並んでいた。
今の俺にとっては、例え金貨の山が有ったとしてもあのパン一つの魅力には勝てないだろう。
暴力的なまでの焼きたての香り。空腹には慣れたと勘違いしていたが、抗いがたい空腹が沸き起こる。
あれ一つでも手にはいれば、かなりの日数の食に困らなくなる。
いっそ盗んでしまうか。
そう思い、一歩を踏み出す。
その時に気が付いてしまった。
空腹と疲労が溜まりきった俺には、体をゆっくりと動かす事がやっとだった。
走れるわけがない。
そんな状況であのパンを盗めばすぐに捕まるだろう。下手をすれば盗んで一歩と歩く前に腕を掴み上げられるかもしれない。
やれば必ず失敗する挑戦をするわけにはいかない。
結局、俺があのパンを手に入れる方法は存在しない。
こうしてただ見ている事しか出来ない。
諦めて立ち去ろうとした時、怒声をかけられた。
「貴様、そこで何をしようとしている」
声をかけられて、自分が失敗を犯した事を理解した。
振り向くと予想通り憲兵がそこに立っていた。
店先で余計なことを妄想していたせいで、回りを気にするのを怠っていた。
俺みたいな物乞いにとって憲兵はまさに天敵だった。
普段は、見付からないように周囲に気をつけ、憲兵の視界に入らないように物陰に隠れる。
それが今回は間に合わなかった。
「いえ何も。ただパン屋を見ていただけです」
正直に答える。そんな回答で憲兵の機嫌が良くなるわけが無かった。
「どうせ盗もうとでも思っていたのだろう」
言いながらすぐ近くまで憲兵は近づいてくる。
「いえ、そのような事。仮に行っても失敗するだけですので」
憲兵は俺の全身をゆっくりと観察した。
「貴様ら物乞いが本当の事を言うとは思えんな。本当はすでに盗んだ後で、その懐に隠し持っているんじゃないのか」
「そんな事は決してありません。私は無実です。ただの物乞いです」
俺の必死の証言が、自分の思い通りにいかない為か、憲兵は更に機嫌を悪くしたように声を張り上げる。
「本当の事を言え」
胸倉をつかまれる。かなり危険な状況に陥ってしまった。
憲兵を刺激しないように、抵抗せずただ首を振って返答した。
「それが本当かどうか確かめてやる」
憲兵は握り締めた拳で俺の胸元を思い切り殴り付けた。
衝撃と痛みで倒れる。
倒れた俺の様子を見ながら一言だけ、憲兵は呟いた。
「なんだ、本当に盗んだわけじゃなかったのか」
憲兵にとって、物乞いはその程度の存在だった。
常に疑いの目で監視し、場合によっては暴力をふるってもかまわない相手。
こうなる事がわかっていたから、憲兵には見つかりたくなかった。
痛みに耐えながら、起き上がる。
「疑いが、晴れたのなら、良かったです。では失礼します」
呼吸がままならない中、何とかそれだけを口にした。
早々に立ち去りたかった。痛む胸に手を当てながら、歩き出す。
だが、そんな私の肩を憲兵が掴む。
「まだ何か」
さすがに苛立ちを覚える。
もうほっといてほしい。これ以上、憲兵のおもちゃにされたら体が持たない。
「貴様のその反抗的な目が気に食わない」
もはや難癖でしかない。
だが、憲兵にとって物乞いはその程度の存在なのだろう。
「そんな事を言われても」
「反抗的な目に反抗的な態度、我々憲兵に不満でも」
「いえ、全く」
「解っているぞ、貴様が考えていることが。
我々に対する不満、ひいては政府に対する反逆。革命でも起こすつもりなのだろう」
「そんな、どうしてそんな事を」
「いや、違うな。貴様のような物乞いにそこまでの事を実行できるわけがない。おおかた、本物の革命を企てる一派の一員にそそのかされたのだろう。
一時でも、我々憲兵を足止めしとけ、とでも。
そうすりゃあ本物の一員は容易に我々から逃げ切れる。違うか」
「そんな話は全くの事実無根です」
憲兵の話を聞いていて思い出した。
憲兵は執拗に革命グループの逮捕を狙っている。
しかし、結果は付いてきていない。
政府は何度と無く「革命グループの幹部を逮捕した」と発表している。だが、その後の続報が続かない。その為、皆がその報が偽りだと気が付いている。
虚報を出してでも革命グループを貶めたいのだろう。
それだけ、政府は革命グループを危険視しているという事だろう。
そう考えれば、憲兵の発言も多少は理解が出来る。
だが、今回に関しては完全に誤解であり、俺は全く関係がない。
「貴様が嘘をつく事なんて解りきっている。
尋問室で数日も尋問すれば本当の事を喋りたくなるだろうさ。
ほらついてこい」
そう言って俺の事を引っ張った。
「止めてください。捕まるような事は何もしていないです」
「それを決めるのは、貴様でも俺でもなく、貴様を尋問する上官だ。
抵抗するならもう一発殴っとこうか」
「わ、私は何も、」
あまりの事に言葉にならない俺を、強引に引っ張っていこうとする憲兵。
これでつれていかれれば、確実に逮捕される。
かといって、抵抗しても暴力の後に逮捕されるだけ。
再就職の為に、盗みすらしてこなかったのにこんなことで。
ぎりぎりの状態でも清く生きると言う矜持で、何とか今日まで生き延びてきたのに。
八方塞がりの状態の解決策を考え込んだ。
だが、どうしようも無い。どう転んでも俺の経歴に傷が付き、俺の矜持は曲げられる。
頭の中で何かが切れた。
それは最後の理性だったのかもしれない。
全てがどうでも良くなった。
拘っていた矜持もどうでも良い。
再就職と言う輝かしい未来もどうでも良い。
理性のたがが外れた後に心を満たしたのは怒りだった。
抑圧されてきたあらゆる事への怒り。
怒りは俺の拳を固め、憲兵に思い切りぶつけた。
突然の反撃に憲兵は動揺した。
その隙に追撃を加える。
何度と無く拳をぶつける。
空腹と疲労で意識すら朦朧としていたはずなのに、怒りは体の奥底から殴り続ける体力を持ってきた。
憲兵は腰の武器を抜こうとした。
だが、それは叶わなかった。
気がつけば俺と憲兵を見物人が取り囲んでいた。
口々に囃し立てており、その一人が「卑怯だ拳だけでやれ」と言わんばかりに憲兵の武器を抜き取って手の届かない所に投げ捨てていた。
腰にあるはずの武器が見つからないことに戸惑っている間にも殴り続けた。
やがて憲兵が倒れる。そこに馬乗りになり、握った拳を振り下ろし続けた。
殴り付ける度に見物人から歓声が上がった。
とうとう憲兵は意識を失った。
拳を振り上げ勝鬨を挙げる。歓声は最高潮になった。
遠くから、鋭い笛の音が響いた。
騒ぎを聞きつけ他の憲兵が数名集まってきた。
見物人達はあわてて立ち去り、現場には俺と気絶した憲兵だけが取り残された。
駆けつけた憲兵は一目で状況を把握し、俺を数人がかりで殴り付けた。
限界を超えていた俺は意識が飛んだ。
だが、それは久しぶりに心地よい気分だった。
地べたに投げ捨てられ、その衝撃で目を覚ます。
薄暗く辛うじて目の前に見えるのは厳重な柵。
格子扉が閉まり、鍵がかけられる音が響いた。
「そこで大人しく反省しろ」
それだけ言い残し、俺をここまで連れてきたであろう役人は去っていった。
意識を取り戻すと、全身からの痛みを思い出す。
「くっそ、あいつら手加減もしねぇのかよ」
痛みを訴える体のあちこちを確かめる。数か所濡れている感触が有るが何で濡れているかは考えたくない。
確かめた所で何も出来ない。ただ痛みを再確認しただけでしかなかった。
痛みに耐えかねてうめいていると、牢の奥の薄暗い所から声がかかる。
「先輩、先輩ですよね」
聞いた事のある声だった。
見れば、風貌こそ囚人のそれになってはいたが、確かに知った顔だった。
俺がまだ職を持っていた時の後輩だった。
「お前さんか。こんな所に居たのか」
「ええ、まあ。でも私より先輩のその大怪我大丈夫ですか。何があったのですか」
俺の事を心配してくれる後輩を安心させるためにも笑顔を作り、答える。
「気に食わない憲兵が居たもんだから、殴って気絶させてやった。
ただその後に駆けつけた他の憲兵にしこたま殴られてこの様さ」
俺と後輩の会話を盗み聞きしていたであろう他の囚人達から歓声の口笛が上がる。
「何でそんな無茶な事を」
「お前さんだって同じ様な理由じゃ無いのか」
「私は、ただ盗みをしただけです。運悪くすぐに捕まってしまいましたが」
「それでずっとここに居るのか」
「何かの手違いなのか書類上の不備なのか、一向に釈放させてもらえなくて」
「なるほどな。お前さんの奥さんが旦那に何か有ったのかとずいぶん心配していたぞ」
そんな俺の何気無い一言に後輩は、眼の色を変えて食いついてきた。
「妻に会ったのですか、いつですか、元気にしていましたか」
「待て待て、俺が会ったのは俺達が無職になった直後くらいに一回だけだ。
たまたまお前さんの家の辺りをさまよっていたらばったり出会った。
お前さんの奥さんがあまりにも不安そうにしていたから、最悪な事態も想定して、お前さんの奥さんに娘を連れて女手一つで生きていくコツみたいなものを幾つか教えてやった。それだけだ。
後日、さ迷いついでにお前さんの家を訪ねてみたが、その時にはもう空家になっていた。
だから、今お前さんの奥さんと娘がどこに居るかは知らない」
後輩はあからさまに落胆しつつも口を開いた。
「そうですか。でもありがとうございます。きっと妻も先輩に感謝していると思います」
「だと良いがな。まあ、どこかで元気にやっているだろう。お前さんもそう思うだろう」
「・・・ええ」
俺達の会話を聞いていたであろう囚人の一人が、ことさら大声で口を挟んだ。
「俺の友人に用水路の取水口の管理をしている奴が居るが、そいつが言うには不況になってから川への身投げが増えて、すぐに取水口が詰まるそうだ。
友人にとっては厄介な話さ。誰かが処理しなきゃならないからな。
・・・お前の妻と娘も今頃、」
囚人は最後まで言い切る前に、後輩に殴り飛ばされた。
言葉にならない悲鳴のような声をあげながら、それ以上を言わせないように。
認めたく無かった現実を、口にさえしなければ現実にならないとでも言うかのように。
後輩は涙を浮かべながら囚人を殴り続けた。
数刻前の俺とは違い、怒りではなく悲しみによる拳は弱々しかった。
囚人も痛がるよりも、後輩の豹変ぶりに驚いていた。
騒ぎを聞きつけ看守が飛んでくる。
「貴様か、3751番。牢の中で問題を起こすなら懲罰房行きだ」
後輩は看守に殴られ、崩れ落ちた所を引きずり出された。
そのまま後輩は連れ去られた。
遠ざかる虚ろな後輩の表情を見ながら、後輩とその家族が幸せになれる日が来ることを心から祈った。




