第三十五話 夜走りの血、龍隠荘に潜む監視者
序文
夜が香港を覆い、濁った玄気が街の隅々に潜行する。
凡人が目にするのは、変わらぬ市街と穏やかな夜風だけ。
玄界の視座から見渡せば、無数の勢力が集まり、殺気が地下に渦巻く混沌が広がっていた。
乱世とは唐突に訪れるものではない。
夜が道を飲み込み、異民族が神器を狙い、神魔が闇を渡り、眠れる龍が目覚める時を待つ。その積み重ねで形を作るのだ。
柴灣の一滴の血が天下の大局を紡ぎ、
大浪湾の一陣の風が万古の魂を揺り動かす。
この夜、香港に安らぐ時など無い。
夜が香港全体を覆う。
濃い闇がヴィクトリア港の両岸を押し包み、街灯が一つずつ灯りを点け、仄かな光が真っ黒な大通りを切り裂く。柴灣道は山と海に挟まれ、海から吹き寄せる夜風が冷たく肌に触れ、昼間と比べ車通りは少ない。街は一見穏やかに見えるが、その裏では玄界の暗い勢力が浸透し、殺意が隠れていた。
この夜、香港全域の玄気は、無数の外来勢力に侵食されつつあった。
黒い高級セダンが闇の中をゆっくり進む。車体は重厚で都会の夜に紛れているが、それだけで他を圧する冷たい気配を放っている。
車内。
徐福は後部座席に凭れ、無関心な面持ちで、底知れぬ瞳に街灯も人の姿も映らない。胸元に収めた脳心儀の封印の奥で、太古の覇者の残魂が絶えず暴れ、凶悪な気韻が古い封じの陣を何度も叩きつけていた。
彼が今夜大浪湾へ車を走らせる目的は単純明快——
龍隠山荘に漂う、太古の凶魂を抑えられる未知の古魂の気配を自ら確かめるためだ。
車が進み、柴灣道消防局前の夜間道路に差し掛かる。
先ほどまで通れていた車道が、三台の普通の乗用車に横切られ完全に塞がれていた。
三台の車が前後に組み合わさり双方向の道を封鎖し、暗い車体が仄かな街灯の下に静かに停まっている。ライトも点かず人影も無く、不気味な静けさが漂う。
後方から続いて止まった四台の民間車の運転手は、夜の長時間運転で疲れ果てており、前が不意に塞がれたことに苛立ち、次々と窓を下げ不満を漏らす。
中に短気な男性運転手が我慢できなくなり、勢いよくドアを開け、冷たいアスファルトを革靴で強く踏み鳴らす。
誰も乗っていないのに無造作に道を塞ぐ三台の車を眺め、怒りが爆発し、路上で大声で罵った。
「何考えてんだ、どこの馬鹿がこんな場所に車置いてんだ!」
夜風に乗った怒鳴り声が空っぽな大通りに響く。
この凡人の怒鳴り声が、夜の殺し合いの合図となった。
道を塞ぐ三台の車のトランクの暗がりから、素早い黒い影が飛び出す。
体を低くし地面を滑るように動き、長年暗殺に生きる最強の殺し屋特有の不自然な身のこなしだ。
冷たい光が一瞬煌めく。
細い曲刀が闇から現れた。
短気な運転手は相手の姿を確認する間も無く、喉から鮮血が溢れ出す。
声も上げられず一瞬にして命を落とし、地面に重く倒れる。夜の闇の中、血痕がじわりと広がり、不吉な色を放つ。
後ろの車の運転手たちは路上で突如起きた冷血な暗殺を目の当たりにし、全身に寒気が走り恐怖に囚われた。
夜の闇の中で音も無く人が殺される光景は、あまりに恐ろしい。
誰もその場に留まろうとせず、慌ててバックしたり切り返したり、アクセルを踏み急いで現場から逃げ出す。エンジンの轟音が夜を裂き、十数秒後には大通りから人も車も一掃された。
夜の闇、街灯、死体。そして微動だにしない黒いセダンだけが道に残る。
誰もが死を恐れ逃げ惑う中、徐福の車だけが殺戮の中心に鎮座し、微動もしない。
次の瞬間、黒いセダンのドアがゆっくり開く。
李先生が車から降り、黒い服を夜に浸し、松のように背筋を伸ばす。冷徹で穏やかな顔立ちで、周囲の暗殺の死角を淡く眺め、先ほどの冷血な殺人を見ても瞳に動揺の色は一切無い。
先ほど人を殺した獣舌者の精鋭は、相手が車から降りたのを見て好機と捉え、血に染まった曲刀を握り、幽霊のように李先生に襲いかかる。全身に漂う陰煞の夜気を纏い、喉元を狙う一撃は確実に命を奪う勢いだ。
突進してくる殺意のこもった一撃に対し、李先生は避けも退きもしない。
刀が肌に届こうかという刹那——
彼の大きな手が瞬時に伸び、獣舌者の後頭部を鉄の箍のように掴み、その身を車の鉄のボディに強く押しつけた。
「ドン!」
重たい衝突音が夜道に響く。
暗殺者は一瞬目眩と息苦しさに襲われ、全身の力が抜け落ちる。
李先生は即座に相手の曲刀を奪い、手首を返し冷たい刃を闇に突き立て、確実に心臓へ一突きする。
「ブチッ」
熱い血が吹き出す。
獣舌者の精鋭はその場で絶命し、地面に崩れ落ちた。
夜風が吹き、血の匂いが大通り全体に広がる。
李先生は死体の傍に立ち、服に埃も血も付かない。周囲の暗いビルの影や道端の死角を冷たく見渡し、重く冷たい声が夜を貫く。
「残りの鼠はどれだけいる?一気に全部出てこい、俺の時間を無駄にするな。」
言葉が落ちた瞬間——
道の両側のビルの陰、車の下、街灯の死角から五つの黒い影が一斉に飛び出す。
エジプト四盟の五人の達人は濃い異国の呪いの黒気に包まれ、夜に身を隠していた。彼らは先ほど動かずに待機していたのは、『虎を誘い山を空ける』という毒計を実行するためだ。
一人を犠牲に道を塞ぎ殺人を起こし、李先生を車から引き離す。
守りが車から離れ隙が生まれた瞬間に一斉に車を包囲し、車内の核心を奪う算段だ。
五人の目には神器への執着が燃え、黒いセダンの窓を見つめ、霊力を窓越しに通し、天下を左右する神器の気配を捉えていた。
脳心儀が、この車の中にある。
一番前の暗殺者が低く叫ぶ。
「標的の神器は車内だ!」
隣の二人が続けて声を揃える。
「守りがいない今、窓を砕け!」
残り二人は低い声で作戦を確認する。
「速やかに脳心儀を奪取し、手に入れたら即時撤退せよ。」
五人が一斉に力を込め、掌に古代エジプトの金色の呪紋が湧き上がり、黒い波のような煞気が立ち昇る。両手に力を溜め、車の窓を強打し神器を強奪しようとする。
状況は完全にエジプト四盟の思惑通りに進んでいるように見えた。
だが彼らは知らない、自分たちが相手にしているのは二千年を生き、世の全ての陰謀を見下ろす最強の存在だと。
車内。
徐福は相変わらず静かに座り、冷めた瞳に寂寥と軽蔑だけが宿る。
彼は五人の異国の暗殺者など一目もくれず、ただゆっくりと一本の人差し指を上げる。
一本の指は軽い鴻毛の如く、しかし天地を支える重みを持つ。
刹那、形も色も無い巨大な神魂の圧力が通り全体を包み込む。周囲の空気が急に重く澱み、道端の街灯が微かに震える。だけど天変地異のような大きな異変は一切起こらない。
だが車窓に迫ろうとしていた五人のエジプトの達人たちの精神は瞬時に崩壊する。
まるで無形の悪霊に脳を乗っ取られ、理性を失い両眼を真っ赤にし、顔を歪め狂う。
「殺せ!」
「全員死ね!」
狂った叫び声が夜の通りに響き渡る。
五人は戦術も目的も忘れ、刀を向け合い呪力をぶつけ合い、自ら殺し合い始める。
夜の闇の中、呪いの光が乱れ飛び刀の軌跡が乱舞し、血肉が飛び散る。
濃い鮮血が黒い車の窓に滴り落ち、街灯の光を受け妖しく凄惨な模様を描く。
数息の間に、神器を狙い策を巡らせた五人のエジプト四盟精鋭は車の傍に全て倒れ、生き残りは一人も無い。
道一面に死体と血が広がる。
徐福は車内からこの自滅の殺し合いを冷ややかに眺め、最後まで表情一つ変えなかった。
しばらくして。
李先生は道を塞ぐ三台の乗用車の前に進み出る。
腰を少し落とし、玄功も特殊な力も使わず純粋な肉体の力だけで手を押し出す——
「ゴウッ!」
数トンの重さの車が片手で横に押しのけられ道が開かれる。
一台、二台、三台。
道を塞いでいた車は路肩に弾き飛ばされ、一晩塞がれていた柴灣道は通行可能に戻る。
李先生は車内を振り返り低く報告する。
「殿、道は片付きました。」
黒いセダンは再びエンジンを低く唸らせ、血に染まった大通りを離れ、深い香港の闇の奥に消え、引き続き大浪湾へと進んでいった。
——
時を同じくして。
大洋の彼方、海外極秘情報本部の照明は昼夜問わず煌々と点き、数十枚の大型モニターが龍隠山荘周辺の山と海の動きをリアルタイムで監視していた。
事前の情報確認、リスク評価、戦術シミュレーションを経て、コードネーム『アースアイ』の遠征作戦は本格的に拡張された。
計十五名の最精鋭エージェントは既に大浪湾の山間に分かれて潜入、配備を完了させている。
十五人は五人一組の三チームに分かれ独立して行動する。全員が最新式の不可視ジャマー、地形スキャナー、生命探知装置を携行し、通信には民間・軍事の通常回線を一切使用しない。
全て専用暗号衛星回線とモールス信号でやり取りする。
香港警察の監視網、玄界勢力の探知、さらに沿岸警備軍のレーダーシステムすら、この山から発せられる電波を捕捉・傍受・探知することは不可能だ。
彼らは香港全域に拠点を構えず、大浪湾の高台一箇所だけを標的に定めた。ここは視界が開け龍隠山荘一帯と周辺海域を一望できる唯一無二の監視拠点である。
三チームのエージェントがこの高台に敷き詰められ、全方位に交叉監視網を張り巡らす。世界最高峰の隠蔽技術により、守霊司の達人が近辺を巡回しても人の気配や殺気を感知することはできない。
山頂の冷たい風の中、指揮官は夜の大浪湾の山並みを見つめ、冷静で厳格な声で指示を出す。
「各チーム、状況報告せよ。」
イヤホンから簡潔な返答が低く響く。
Aチーム隊員:「A班全域潜伏完了、地形スキャン正常。駐留区域に霊気漏れ、未知の熱源異常は無し。」
Bチーム隊員:「B班ジャマー全稼働。当山の電波を完全遮断、山荘外の諸勢力に我々の痕跡は感知されていない。」
Cチーム隊員:「C班機器は龍隠山荘全域をロック。区域内の高周波エネルギーデータを本部にリアルタイム送信中。脳心儀の気配が発生次第、瞬時に波動を捕捉可能。」
指揮官はゆっくりと頷き、闇の向こうの波乱を秘めた山荘を眺め、冷徹な言葉を続ける。
「指令を再確認せよ。
常に潜伏を徹底し、玄界勢力同士の交戦に自発的に介入してはならない。
任務はただ一つ——
監視、記録、時機を待つこと。
脳心儀が唯一の標的だ。
この太古の神器を手中に収めた者が、これからの世界の構図を塗り替える。
最高クラスの潜伏状態を維持せよ。誰も勝手に持ち場を離れ、身を晒してはならない。」
「了解!」
三チームが一斉に低く応え、声は山の風に紛れ消える。
大浪湾の高台は一見人影無く静かに見える。
だが実際には、世界最強の隠密精鋭十五名が上空、地面、電波、データ全てを封鎖していた。
香港の夜。
一方では二千年を生きる徐福が闇を進み外来の暗殺者を一蹴し、
一方では最新鋭の特務部隊が山に潜み、虎視眈々と機会をうかがっている。
章末懸念文
世の中で最も恐ろしいのは、表立った殺戮ではない。
表で神魔が激闘を繰り広げ、裏で人間の勢力が盤石な駒を打つ状況こそ、真の脅威なのだ。
徐福は夜路を進み、異族の襲撃を鎮圧した。太古の凶魂を手中に収めながらも、均衡を保つ道を探し続けている。
エジプト四盟は欲に駆られ軽率に進み、道端に屍骸を残すだけで、神器を手にする資格には程遠かった。
大洋の彼方から来た近代精鋭部隊は山頂に身を隠し、一時の勝負を争わず、玄界の群雄が消耗し合う様子を静かに見守っていた。
街の血の気が晴れ、車輪は再び前へと回り出す。
龍隠山荘が目前に迫る。
一方には千年の古魂が眠り、一方には積もりに積もった陰謀が潜んでいる。
全ての風雲がこの地に集積し——
真の全面対峙が、今まさに幕を開けようとしている。
第三十五話 了




