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脳心儀  作者: 八島秦
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第十一話 アビドスの血風、宿縁の目覚め

 千年の秘力、闇に沈む。宿縁が引き、風雲自ずと起こる。

 脳心儀が動く時、エジプトの血風、澳門の暗流、広西の深谷、三界の紛擾はここから生まれる。

 古き力、まさに目覚め、宿命、身に迫る——

 秦陌の運命は、これより無尽の迷局に巻き込まれる。


 赤き砂嵐がアビドスの千年遺跡を吹き荒れ、古神殿の残骸を荒涼に染め上げていた。石壁に刻まれた神々の壁画は、時を経てなお冷徹な眼差しを宿し、人間たちの殺戮を静かに見守っている。「脳心儀」を巡る暗闘はすでに海を越え、東西両地の風雲は、目に見えぬ力に操られ、激しく渦巻いていた。


 エジプト全土は混乱の極みにあった。

 砂嵐が収まった後の街路には、四大勢力が入り乱れて争った惨状が残されている。血は黄金の砂に吸い込まれ、風に煽られて暗褐色の染みへと変貌していった。夜の闇に乗じ、各勢力が互いを牽制し合うその隙を突き、舌狩り教団の黒衣の暗探たちが紛乱する街路へと潜入した。その身のこなしは幽霊のように迅く、巡回していたアメンの残火のメンバー二名を一瞬にして制圧する。口を塞ぎ、縛り上げ、引きずる。その動作は一糸乱れぬ連携と、静寂に満ちていた。


 一行は荒れ果てたゴビを越える。足元の砂は風に巻かれて転がり、遠くの砂丘は巨大な獣が眠るかのように、心胆を寒からしめるほどの死寂に包まれていた。幾里もの道のりを経て、ついにたどり着いたのは、アビドス神殿の深奥に隠された地下秘密石室である。重厚な石門が滑り出し、古びた鈍い軋み音を立てて、外界のあらゆる音、光、生気を完全に遮断した。


 石室の中には、数基の暗い油灯が揺れているだけだった。粗い石壁に落とされる歪んだ黒い影は、亡霊のように蠢く。空気には砂土の乾きと石の黴臭さ、そして微かに漂う鉄錆のような血の匂いが混じり合い、抑制された陰冷な空気が、窒息するほどの圧迫感を放っていた。


 舌狩り教団の黒衣たちが円陣を組む。兜巾を深く被り、素顔を隠したその眼差しは、冷酷な氷のごとく、石柱に縛り付けられたアメンの残火の二名を射抜いていた。彼らの声は低く沙汰れており、温もりなど欠片もない。一言一言が詰問の刃となって突き刺さる。


「脳心儀の行方を言え」


 その手がかりは、蝕沙の盟が暗に流した情報によるものだ。彼らはその真偽を疑うこともなく、目の前の二名が秘密の鍵を握っていると信じ込んでいた。


 だが彼らは知らない。これが何者かによって編まれた、精巧な偽情報であることを。


 このアメンの残火の二名は、組織内でも末端の実行者に過ぎず、脳心儀については何一つ知らぬ者たちだった。黒衣たちがどれほど厳しく詰め寄り、酷刑で脅そうとも、彼らはただ狂ったように首を振り、瞳には怯えと絶望を宿して震えながら否定するしかなかった。


「知らない……本当に、何も知らないんだ……」


 石室内の気圧が下がり、陰冷な殺気が氷のように凝り固まっていく。黒衣たちの忍耐は限界に達し、その瞳には刺すような寒芒が宿った。彼らはもはや言葉を介さず、動いた。


 残忍な拷問が、無言のうちに二人へと降り注ぐ。

 呻き声、断末魔の震えが死寂の石室に際立って響くが、有用な情報はついぞ引き出せなかった。


 ついに舌狩り教団は悟った。この二人は、真に何も知らないのだと。


 余計な言葉も、憐れみも存在しない。あるのは教団が千年守り抜いてきた鉄律と、禁忌の儀式を冷徹に執行する意志のみ。一人の黒衣がゆっくりと歩み出ると、蛇紋が刻まれた青銅の祭刃を手に取った。油灯の火が刃を照らし、嗜血の寒光が走る。彼が手を挙げ、刃を振り下ろした――


 血の雫が冷たい石畳にこぼれ落ち、石の割れ目へと音もなく吸い込まれていく。

 二人は痛みを叫ぶことさえできず、ただ満面の絶望と恐怖に歪み、激しく身体を震わせる。涙と血が入り混じり、頬を伝った。舌狩り教団は切り取った舌を獣皮の袋へと収める。黒衣が影の中で揺れる様は、腹を満たした獣の群れのようだった。彼らが求めていたのは答えではなく、異端への懲戒であり、そしてアメンの残火への正式なる宣戦布告という血のサインであった。


 これら全てが、見えざる「手」の算盤の上での出来事であった。


 西土の風雲未だ定まらず、東岸の暗流ここに生ず――澳門。


 澳門の路環深部、市街の喧騒から離れた山あいに、白月化教の隠院がある。


 青石の道は長年の海霧に濡れて艶めき、その足取りは滑らかに響く。院の壁には墨緑の蔦が這い、枝葉が茂り、内部の全てを完璧に隠していた。木造の扉は古風で控えめに閉じられ、銅の輪には錆が浮いている。数百年間、外の人間が踏み入ることは稀で、風さえも優しく撫でるほどに静寂に包まれていた。


 院内では、月光が水のように枝葉の隙間を抜け、碎銀のごとき清らかな光を落とし、青石の床を一面に照らしていた。


 月露聖女は月下の庭に佇んでいた。身に纏うのは玄色の長衣。質実で厚みのある生地は、過剰な装飾を排した簡潔で凛々しい仕立てで、裾にのみ細やかな暗紋が刺繍されている。控えめで荘重な佇まいだ。銀灰色の長い髪は端正な髻に結い上げられ、一本の烏木簪だけで留められている。頬に零れる数縷の髪が、玉のように白く透き通るような肌をより一層引き立てていた。彼女の姿は清らかで、その気質は深淵のごとく冷ややかに澄んでいる。淡く遠くを見つめる瞳には波紋一つなく、その周囲を包む沈斂にして神秘的な気配は、月光と溶け合い、静寂にして気高く、何者も侵すことは許されない。


 同じ玄色の教袍を纏った教徒が、足音一つ立てぬ軽やかな足取りで近づき、聖女の三歩手前で足を止めると、深く頭を垂れた。恭しく、落ち着いた低い声で告げる。


「聖女様、ご報告申し上げます。第一報が入りました。エジプトにおいて、何者かの暗躍により四大勢力が互いに疑心暗鬼に陥り、殺し合いが始まっております。局勢は完全に制御を失い、血の海となっております」


 海風が庭を吹き抜け、潮の香りを運び、衣の袖を軽く揺らした。しかし、庭を満たす静寂を乱すことはできない。


 月露聖女はゆっくりと瞳を上げた。銀灰色の瞳は月光のように澄み渡り、庭の清輝を映し出している。その声は冷ややかでありながらも優雅で、無駄のない言葉には、本質を見抜く重みが宿っていた。


「承知いたしました。四大勢力を裏で操り、何の痕跡も残さず、強敵同士を殺し合わせる……その者の手腕、只者ではありません」


 彼女はゆっくりと手を上げ、柔らかな指先で頬に零れた白い花弁を払った。その語調は平坦でありながら、深い重みを秘めている。


「白月化教は世の均衡を守るもの。自ら進んで乱を招くことはいたしませんが、陰謀家が勝手気ままに翻弄することも許しはしない。エジプトの乱など、盤上の第一手に過ぎません。我らはただ静観し、本心を守り抜き、嵐が形を成すのを待つのです。その時がくれば、全ては明かされるでしょう」


 言葉を終えると、彼女は身を翻し、院の外に広がる深く重い夜闇を見つめた。銀灰色の髪が月光を浴びて柔らかな光の輪を帯びる。隠院は静寂を保ったまま。月光と玄色の影が織りなす光景は、沈着にして控えめ、そして神秘的で、外界の喧騒には決して動じないかのようであった。


 一脈相連なり、風雷まさに起ころうとする――広西。


 東方の深き谷間、墨のごとき暮色の中、山風が颯々と吹き荒れる。乱石が立ち並ぶその場所の空気は、戦場のごとき殺気に満ちていた。


 秦陌は片膝をつき、灰色の衣は血に汚れ、呼吸は乱れきっていた。左肩の骨は砕け、守霊司の二頭目の鋭い一撃が放った覇道な内力が、腑を貫き骨を砕き、丹田へと押し寄せていた。この一撃で秦陌の内功を廃し、徹底的に屈服させんという算段だ。


「取るに足らぬ雑兵が、この守霊司の行く手を阻む気か?」


 二頭目は陰惨な笑みを浮かべ、掌の気は未だ消えず、嘴角には嘲笑が滲む。この一撃で秦陌を二度と立ち上がれぬどん底へ突き落としたと確信していた。


 だが――


 その剛猛なる内力が秦陌の体内に突入した瞬間、丹田の深奥にて、千年の時を超えて眠り続けていた印が、突如として灼熱を放った。


 肌の下に暗金の紋様が浮き上がり、渦を巻いて収縮し、経絡を狂ったように駆け巡る――逆龍印、ついに覚醒した。


 千古の時を超え、人間を凌駕する霸絕たる力が、猛烈な勢いで逆流した。


 無形の気浪が爆発し、砂塵と石片が舞い散る。二頭目の顔色が一変した。山河を押し潰すような凄まじい威圧感が正面から襲いかかり、内臓はまるで巨大な鎚で打ち据えられたかのような激痛に襲われ、身体は後方へと吹き飛ばされた。喉の奥に甘い鉄の味が広がり、鮮血が噴き出す。


 彼は驚愕と恐怖に打ち震え、内傷を堪えながら頭を上げた。そして、秦陌の背後を見て、瞳を見開いた――


 暮色の深淵に、極めてリアルで、威厳に満ちた帝王の影がゆっくりと現れた。


 玄色の龍紋帝袍は地にまで垂れ下がり、頭上には冕旒冠を戴いている。その面貌は勁くして粛穆、眉間には君臨天下の覇気と、万古不滅の威厳が宿っていた。身躯は山のごとく高く、眼差しは寒刃のように鋭い。ただそこに佇むだけで天地の色彩を奪い、万物を跪かせるような気勢は、あたかも千古一帝が親臨したかのような、胆を冷やすほどのリアリティを伴っていた。


 それはただの残影に過ぎない。しかし、生きた人間よりも遥かに重い威圧を放っている。


 二頭目は全身を激しく震わせ、瞳孔を極限まで収縮させた。頭の中は白くなり、これまでの傲慢や殺意も、この帝王の威圧の前では塵芥のごとく消え失せた。膝の力は抗う術もなく崩れ去り、「ドサリ」と乱石の上にひれ伏す。額を地面に打ち付け、重衣を冷や汗が濡らし、全身の震えは止まらない。顔を上げて仰ぎ見る勇気さえも、残されてはいなかった。


 秦陌はその場に立ち尽くしていた。掌は震え、体内の力は潮のように押し寄せ、彼自身も呆然としていた――この力、この威厳無比なる帝王の影は、一体何者なのか?


 山風が谷を吹き抜けていく。帝王の残影は緩やかに淡くなり、逆龍印の暗金紋様は再び肌の下へと沈んでいった。しかし、そこには死寂が残り、地面には魂が抜け落ちたかのように震える守霊司の二頭目が伏せている。


 秦陌はゆっくりと立ち上がった。血色を帯びたその眼差しには、困惑と、そして確固たる意志が宿っている。


 彼は悟った――

 この瞬間から、己の運命は、この千古一帝の影と、共にあるのだと。


 逆龍印が覚醒し、帝王の残影が降臨し、秦陌の出生の謎が初めて姿を見せる。

 だが、これは始まりに過ぎない——

 遠方から、より古く、より恐怖な視線が、彼をゆっくりと捉えていた。

 脳心儀の真の秘密、ついに明かされる時が来る。

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