桜と蜜蜂の家
一
田舎に移住して妻は変わった。
「都会的」だと思っていた彼女は、陽光と土くれ、農作物や小動物の中でとても輝いて見えた。
まだ雪の残る二月下旬、蜜蜂の巣箱の前でしゃがみ、蠢きはじめた彼らを飽くことなく観察している。艶のある髪や頬のあたりには蜜蜂が飛びまわっているが、気にするそぶりもない。
「さーちゃん」
僕の声に振り返り、涼やかな笑顔を見せる。
「あら、ごめんなさい。お昼の用意するわね」
僕はいつもドキッとする。薄手の白いスポーツジャケットに濃紺の綿パンツ、髪をひっつめにした姿はおしゃれとは程遠く、野暮ったくすらある。スタイルがいいわけでもない。それでも彼女から発する美しさや好ましさを、僕が飽きることはない。
「どう? 蜂たちは」
巣箱には冬越し用のプラスチックケースが被せてあり、巣門も冷気を防ぐためにゴムカバーで狭くしてある。そこから蜜蜂がせわしなく出入りしている。僕はアウトドア用の小さなパイプ椅子を立て、少し斜め後ろに座る。無用に人を刺すことはないと知っても、彼女ほど間近に寄る気にはなれない。
「昨日今日と暖かいし、外行きの働き蜂が増えてきてる。けどまだ二月だし、蜜源は充分とは言えないわ」
「じゃあ、また給餌するの?」
給餌とは巣箱内に人工のエサを投入することだ。砂糖水にトレハロースと塩を加えたのを、昨秋に与えていた。
「ぐっ! く、苦しい……」
いきなり彼女は両手を胸に当て、倒れ込んだ。
「バタン」
土の上に仰向けになり、目を閉じる。
「それは急死」
僕はつとめて冷静に言う。すると今度はスクッと立ち上がり、
「ピッチャー振りかぶって、投げました! ヒュッ!」
投げる動作に続いて、
「カキーン! 打ったぁ、満員の甲子園は大歓声です」
打つマネ。
「それは球児」
「おっ、ツッコミ速くなってる。ボケのクオリティが上がってるから?」
「クオリティっていうか、やたら擬音が増えてるじゃん」
「そのツッコミも鋭い!」
笑って親指を立てる。僕もつられて笑ってしまう。
「白菜はどう?」
彼女は服の土を払いながら訊いてくる。最近お笑いにハマり、とくに「間違い小ボケ」に凝っている。体も張るようになってきた。そのうち漫才大会に出るとか言い出しそうで怖い。
「う~ん、あんまり大きくなってないし、虫食いがすごいよ」
「販売は無理そうね。よく洗ってお鍋なら大丈夫かしら」
僕らが作る農作物は量も少なく、味や形も保証できない。だから正規の出荷ルートに乗せることは難しいけれど、道の駅で直売してくれる。そして、あまりに見栄えが悪いものは自産自消となる。
「お昼ごはんに糠漬けを切るわ。冬中漬けたのがどうなってるか、味見してみて」
僕は楽しみだねと相槌を打つ。
彼女の「声」がとくに好きだ。
少し高オクターブだけど、丸みを帯びて優しい。喜び、はしゃぐときでもキャンキャンと耳障りではなく、みずみずしい響きの中に艶っぽさがある。
「午後は畝作りよ。身体は大丈夫?」
もちろんと頷く。蜜蜂の管理だけでなく、作物の土作りから種蒔き、施肥、収穫。僕は彼女の計画に従い、おもに畑仕事を担当する。彼女にしてもネットで得た知識なのだが、決めてくれることは不慣れな移住生活ではありがたい。こんな風にあっさり田舎暮らしの主導権を握られるなんて想像もしていなかった。そしてなにより驚いたのは、彼女が自然の中で、実践的かつ柔軟な思考を持っていたことだった。
日本には二種類の蜜蜂がいる。セイヨウミツバチとニホンミツバチだ。
セイヨウミツバチは明治以後に輸入された、いわば外来種なのだが、市販のハチミツの99%は彼らが作る。ヨーロッパで長い年月をかけて品種改良され、体が大きく広範囲に飛ぶことで多くの蜜を集め、人間の管理に適している。
いっぽうニホンミツバチは数万年前から日本に住む在来種で、採蜜量はセイヨウミツバチの二十分の一、味の統一も難しい。特徴的なのは「逃去」と呼ばれる習性だ。人間が設置した巣箱に入ってくれたとしても、それはヤドカリがいい貝殻を見つけたのと同じで、しょせんは野生の延長線上にいる。蜜源の減少や天敵の襲来など、不満があればあっさり住処を捨て、新天地を求めて飛び去ってしまう。
飼われることをよしとするセイヨウミツバチが犬なら、人におもねらず、気まぐれなニホンミツバチは猫、それも野良猫に近い。そんな彼らに頼っての営利養蜂は無理だ。だからニホンミツバチの飼育は趣味養蜂ともいわれている。
僕らがニホンミツバチと暮らすようになったのは、去年の五月だった。
古い納屋の床下、外壁のひび割れを出入りする蜂を見つけたとき、僕はまず駆除を考えた。
「蜜蜂は自然にとって、人体でいう酵素やホルモンみたいなものよ。駆除なんてとんでもない」
「酵素やホルモン? わかりやすく言ってよ」
彼女の講釈的な物言いは、ときに僕を苛立たせる。けれど大自然はそれを頑なにさせない。
「見えないところでまわりを助け、支えている。不足すればどこかにガタがきて、やがては全体に悪い影響をおよぼすの」
彼女は蜜蜂の飛来が増えたのに気づいて、近くに営巣しないか期待していたらしい。
「新しい巣の場所を決めるのは、女王蜂ではなく働き蜂よ。そこに偶然や専断はないの。あるのは論理的な集団合議。空洞の体積、湿度、出入り口の大きさ、日当たり、高さ。この場所が選ばれたのには、れっきとした理由があるのよ。だから光栄に思わなくちゃ」
「へぇ、ここのどこが気に入った感じ?」
こういうとき、僕は聞き役にまわる。彼女は屈んで観察しながら教えてくれる。
「巣は蜜蜂の家であり、ハチミツの貯蔵庫でもあるの。だから狭すぎてはダメ」
うちの敷地は北東側がなだらかに低く、床下に少し高さが出る。蜜蜂にとってはいい空間なのかもしれない。
「狭い出入り口を選ぶのは風雨をしのぐのと外敵が入りにくいためよ。それに東向きで朝の陽がよく当たって風通しもいい。ジメジメしてると病気になりやすいから。そのわりに、まわりの木立は夏の暑さを和らげてくれるわ」
「高さも?」
「本当はもっと高くの、木の洞とかがいいはずだけど、そこは許容したのね」
人間が数ある物件から家を探すのと同じくらい合理的に、蜜蜂もいくつかの候補から住処を選ぶのよと、彼女は教えてくれた。
「じゃあ、いずれハチミツも採れるの?」
自家製ハチミツも悪くないなと思った。いかにも大自然で暮らしてるって感じ。
「それは無理ね。だって納屋の床下の壁、壊せないでしょ。巣もダメになっちゃうし」
僕は自分の浅はかさを笑った。
「でもこのあたりは蜜源も豊富だと思うの。だからチャンスはあるわ」
蜜蜂は内部空間が巣で満たされると、新しい女王蜂を誕生させる。若い女王蜂にもとの巣を任せ、古い女王蜂は蜂の半分を引きつれて新しい住処を探す。蜜蜂のコロニー全体を「個」に見立てたとき、この分蜂と呼ばれる巣分かれは、繁殖行動にもなぞらえられる。それで僕らはフローハイブ式巣箱を購入し、キンリョウヘンという誘引剤も入れて、納屋近くの木陰に設置したのだった。
二ヶ月後、巣箱に分蜂したのを確認したとき、妻より僕が喜んだ。これで自家製のハチミツが食べられるし、買った巣箱が無駄にならなくて安心したのだ。
お昼は玄米ごはんに味噌汁、納豆、糠漬けだった。質素と思うかもしれないが、味噌汁に野菜をたくさん使い、栄養は充分に計算されている。それに彼女の作る料理はどれもおいしい。秘訣はレシピどおりに作ること。具材の分量、切り方、調理手順を疎かにせず、きっちり完遂させる。ある意味料理は簡単だそうだ。レシピはネットから拾えるからマンネリになることもない。
「さっき、土橋さんが畑に出てたよ」
「あら、お身体の具合、なにか言ってらした?」
土橋さんは一昨年の移住以来、僕らが頼りにしてきた隣人で、今年で七十七歳。ひとりで農作業も家事もすべてこなし、僕より三十も年上とは信じられない。けど年明けから体調を崩し、僕らは心配していた。ふらつきが続いているのと、なにをしてもすぐに疲れるという。
「いや、本人は大丈夫だと言うから、しつこくは聞きづらいし。でも今年は作付けを減らすって」
「クリニックは行ったのかしら」
「行ってないみたい。足もないし、オンライン環境も整ってないから」
トラクターは使うが、車は数年前に手放したそうだ。その潔さに、なんとなく格好いいなと思った。人間の「幸福に生きる」ことと「利便性」は必ずしも比例しないことを、僕はここで学んだ。
「ねぇ、クリニックまで送ってあげましょうよ」
徒歩は遠すぎるし、往復タクシーだと料金は相当かかる。
「もちろんオーケー。さーちゃんは優しいね」
恥ずかしながら、僕は妻をさーちゃんと呼んでいる。ふたりのときに限ってだけど。
「今年は『闇採りスイートコーン』、無理かしら」
土橋さんは米も野菜も作る専業農家だけれど、メインはスイートコーンで作付面積のほとんどを使っている。トウモロコシは夜間に糖分を蓄えるため、早朝に収穫するほど甘くなる。数十年前、土橋さんはさらに早く、夜明け前に収穫し、「闇採りスイートコーン」と名付けてブランド化した。
「甘くておいしいもんね」
「栄養価も高いのよ。花粉も豊富だから、うちの蜜蜂たちもきっと心配してるわ」
「さーちゃんって、ほんと思考が蜜蜂中心だよね」
「だってトウモロコシは花の少ない夏の貴重な栄養源なのよ。花粉はタンパク質をはじめ、いろんな栄養素が摂れる。蜜が主食、花粉は副食っていわれてて、どっちも大事なのよ」
蜜蜂は受粉を助け、周辺の農作物全体に良い影響を与えてくれると、土橋さんはうちに営巣したことを喜んでくれた。それを聞いて、わが子が褒められたような気がした。人間だけでなく、生き物が相互に助け合う暮らしを、蜜蜂が鮮明にしてくれる。
僕が惜しいのはその味だけじゃない。去年、収穫の仕事を手伝い、結構な臨時収入になったのだ。
移住して一年半、農作物の販売額は多くない。もちろん東京に住んでいた頃とくらべると、僕の生活にかかる費用は少なくなった。けど固定所得は東京で所有するマンション一室の家賃収入しかない。妻は働くと言ってくれるのだが、僕は反対している。いまはふたりだけの生活を大切にしたい。
「そうそう……」
彼女は手を合わせる。こういうジェスチャーは過去の妻にはほとんどなかったもので、ほほえましく思う。
「ソーラーシステムの発電量が先週から下がってるの。パネルになにか引っかかってないかしら」
低下量は多くないが、天候を考慮しても、ある日を境に平均的に下がっているらしい。メインシステムには問題がないため、屋根のパネルに異常がないか確認したいと言う。
「でも屋根なんて無理じゃん。うちは長い梯子もないし、あっても危ないよ」
業者に頼むとすれば痛い出費だ。影響が小さいなら様子見もありと思うけれど、問題は着実に解決したいタイプの妻は嫌がるだろうなと思った。それに実質無職の僕にとって、余ったぶんは売電もできるソーラーシステムは、ある意味収入源ともいえる。
「バルコニーの梯子で上がれるわよ」
「梯子!? うそ、どこに?」
思わず声をあげた。二階にはルーフバルコニーがあるが、梯子なんてない。確認したくて席を立とうとするが、妻が腕を伸ばして制した。
「ダメ。さきにごはんを食べて、休憩もしてから」
ピシャリと言われると、逆に心地良い。僕は座りなおしてひと息ついた。
「屋根は、午後の作業が終わったあとで確認しましょう」
彼女はこういうところをまったく妥協しない。食べること、働くこと、休むことを規則正しく遂行しようとする。それが人間の身体にとって「良いこと」だと信じている。
焦ってもしょうがない。楽しみはとっておこうという気分になった。そして気がついた。こんな風な柔軟な思考を、東京にいた頃は持っていなかった。環境や妻が変わることで、僕も良いほうに変わったのなら、そちらに流れていくべきなんだ。
「あれっ、これなに? 葱じゃなくない?」
味噌汁を口にした僕は、また声をあげた。
彼女ものぞき込む。葱好きの僕のため、味噌汁にはいつもたっぷり入れてくれる。もう一度、緑の野菜を食べる。
「これ……、ニラじゃん」
「うそ、まあ!」
思わず目が合う。
「やっちゃった、どうしよう」
言いながら、お祈りをするように両手を胸の前で合わせ、瞳を潤ませて俯き加減になった。これは彼女が失敗したときにする仕草で、可愛らしく、ひそかな僕のお気に入りだ。意識されると嫌なので、黙っているけれど……。僕は立ち上がってふわっと抱きしめた。
「大丈夫だよ。ニラも好きだし、身体にもいいじゃん」
「ごめんなさい。お味噌汁にニラなんて、変だよね」
「変だけど、食べれるよ。……でも水仙とは間違えないでね。食中毒になるから」
僕は笑って優しく髪を撫でる。去年のクリスマスに京都製の黄楊櫛と椿油を贈った。毎日をそれで梳かしているから、艶々して手触りが良く、ほのかに甘い香りがする。値は張ったが自分のチョイスに満足する。そういえば蜜蜂たちも、このにおいに反応して彼女のまわりを飛ぶのだろうか。
妻に管理されて、僕の生活は規則正しくなった。毎朝八時に起き、顔と手を洗い、口をすすぐ。彼女は少し早く起きて朝食の準備をしてくれる。朝食後、十時から僕は農作業、妻は家事や蜜蜂のお世話というように役割分担している。
タバコと酒をやめ、適度な運動と栄養バランスのとれた食生活。僕のおなかはまだ中年太りといえるが、それでもずいぶんと改善して服を買いなおした。血圧と血糖と脂質を下げる薬は毎日飲まなくちゃならないが、痛風が薬なしでも大丈夫なのは彼女のおかげだ。
昼ごはんのあとは、午後二時までゆっくりする決まりだ。妻はキッチンでドリンクを飲みながら、僕のためにハンドドリップでコーヒーを淹れてくれる。安い豆だが、分量、時間、温度や季節まで計算して作ってくれる。手間を惜しまないのが彼女のいいところだ。
僕は壁に掛けられたテレビをつけ、動画チャンネルを開く。
「豆ジロウ、更新されてるよ」
「まあ、ちょっと待ってて。いま大事なとこ」
真剣な表情でドリップポッドをのの字に回す。湯気がたち、香ばしいにおいが僕まで届いてくる。
柴犬の豆ジロウと保育園に通う一人娘、ユメちゃんの様子を投稿した動画は、最近彼女のお気に入りだ。週に一回の頻度で更新されるのを楽しみにしている。ソーシャルネットワーク的なものとは極力つながりを断っている僕らだけれど、すべてを拒絶して生活しているわけじゃない。発信することがないだけだ。
「ねぇ、犬の件、考えてくれた?」
動画を見終わった彼女が訊いてきた。
前から彼女は犬か猫を飼いたがっていた。とくに犬。イチ推しはミニチュアシュナウザーだが、豆ジロウを観るようになって柴犬も気になっている。こんなに生き物を飼いたがるのも不思議だ。巣箱を買って蜜蜂を取り込んだのも驚きだったし、リビングに水槽を置いて金魚も育てている。鶏を放し飼いしようという提案もしてきた。卵が採れるし、蜜蜂の天敵である、スズメバチを捕食するという情報もある。でも彼女は捌いて料理する気も満々なのだと知って、僕は怯んだ。短期間でも飼育すれば愛着が湧きそうで、食べる自信がない。
「さーちゃんは室内飼いがいいんだよね」
「そう。もちろん躾もしっかりするわ」
彼女なら良いドッグトレーナーになりそうだ。僕はコーヒーカップをソーサーに置く。
「ごめん、僕はやっぱり反対」
これだけ僕に尽くしてくれる彼女の希望は、叶えてあげたいのだが。
「そっか、残念」
彼女は基本的に怒ったり拗ねたりしない。だから余計に申し訳なく思う。豆ジロウのように賢く優しい犬は僕も好きだが、いまはふたりだけの空間を大切にしたい。だいたい犬や猫なんて、暮らしに満ち足りてない人が飼うものだ。
「AIBOとかはダメ? すごく進化してるらしいよ」
僕は試しに言ってみた。ソニー製の犬型ペットロボット。
「なんでAIBO? 本気で言ってるの!?」
「ごめんごめん、冗談です」
ボケで返してくるかと思ったから、意外な反応だった。だけど怒った表情がちょっと新鮮で、なんだか嬉しかった。
午後は春に植え付けるジャガイモとサツマイモの畝作り。肥料を混ぜて耕す。うちの畑は農家というにはおこがましい広さしかなく、大きめの家庭菜園といったところだが、それでも手作業で耕すのはなかなか重労働だ。何度も腰に手をやり、背中を伸ばす。祖父の使っていた古いトラクターは移住後に売ってしまった。あんな大きいのはいらないが、ハンドタイプの耕運機が欲しくなる。農業機械の購入には移住支援制度も使えるけれど、買うには値段を考えてしまう。
作業を終え、納屋の裏手へ妻の様子を見にいく。
「畝作り終わったよ。給餌はできた?」
「おつかれさま。ええ、とりあえずで代用花粉を作ったの。春先は糖液だと病気になりやすいらしくて」
彼女は巣箱の屋根板を開けて、小さなトレイを出した。薄茶色のペーストには、もう蜜蜂が数匹とりついている。
「試作だから少量。気に入ったらまた作るわね」
僕じゃなく、蜜蜂たちに語りかける。
「あっちは?」
納屋の壁を指さす。
「うん、近くに同じの置いたよ」
納屋の巣のハチミツは採れないし、中の手入れもできない。それでも、できるかぎりのお世話をしようと決めている。
「さてと」
あらためて妻に向きなおる。本当は昼からずっと気になっていた。
「バルコニーの梯子、教えてもらおうか」
わが家はシンプルな造りだ。ほぼ正方形で南側の真ん中に玄関がある。玄関を挟んで西半分はリビングダイニングとキッチン。東半分はガレージと倉庫。玄関を入った正面は階段で、上がった左が主寝室、右が洋室。その洋室の南側、ガレージの真上にあたる部分が広いルーフバルコニーになっている。部分的に屋根があり、洗濯室にしているのですぐ干せていい。眺めも抜群で、ここでのバーベキューは最高だ。僕は掃き出し窓を開けサンダルを履いた。
「あら、そっちじゃないわよ」
「えっ?」
「こっちよ」
彼女が示したのは、洋室の北向きの窓だった。ルーフバルコニー側に大きな掃き出し窓があるので、この窓は掃除のときに換気で開けるくらいだ。僕は顔を出した。
「サービスバルコニーかぁ、忘れてた」
バルコニーと言われて、ルーフバルコニーしか頭に浮かばなかった。窓の外に幅百五十センチ、奥行き六十センチほどの小さなバルコニーが張り出している。そしてその奥の壁に、屋根に伸びる梯子がついていた。
「ほんとだ。たしかに屋根への梯子があるね」
梯子の下にはステンレスボックスがあり、ソーラーシステムの会社名が見える。バルコニーはソーラーシステムのメンテナンスとエアコン室外機の設置スペースなのだろう。一年以上暮らしていて、この梯子の存在に気づかないなんて驚きだ。なるほど、梯子は白く塗装され、壁のクリーム色に溶け込んでいるし、外からはまわりの木々が目隠しになっている。
僕はサンダルを持ってきて、窓をまたぎバルコニーに出た。妻も続く。手すりの高さは充分にあるので怖くはないが、二人がやっと立てるくらいのスペースしかない。
「上がってみるよ」
「大丈夫? 私が行こうか?」
妻の言葉に、舐めるなよと口の中で呟いて登っていく。しかし数段で視界が変わり、下を見なくても高さを感じた。わが家は北東側の土地が少し低いのと、屋根が南への片流れなので北面が高く、地上から十メートル近くはある。そよ風が強く感じられた。おなかが梯子に当たって登りにくい。へっぴり腰だからなおさらだ。屋根から顔を出すと、見渡すまでもなく、ソーラーパネルに引っかかった木の枝が目に入った。
「やっぱり枝が乗ってるよ! 結構大きい」
下は見ずに叫んだ。
「取れそう?」
心配そうな声が返ってくる。
「ちょっと待って。届きそうだ」
慎重に梯子をもう二段登る。枝は大振りで、葉が多く日光を遮っていたのだろう。だが、幸いにも梯子から近い。寝室のある西側だったら諦めていた。屋根を歩く勇気はない。
梯子は五十センチほど屋根より上に出ているので、左手でしっかり握り、上半身を折り曲げる。屋根にべったり張りつくようにして、右手を伸ばした。顔も伏せているので枝は見えないが、指に葉が触れ、ボロボロと崩れる。さらに右肩を伸ばすと細い枝を掴めた。少しずつ手繰り寄せて太めの枝を握り、引き寄せて体勢を起こす。
「取れたよ!」
「すごい、よかった」
余裕ができるとまわりが見えてくる。ルーフバルコニーより数メートル視点が上がっただけだが、青空と山並みが壮大でいい眺めだ。
「このまま落とすから、気をつけてね!」
「はぁい」
彼女に当たらないように勢いをつけて右手を振り、屋根から落とす。が、その反動で右足が滑った。
あっ! と思ったときにはもうバランスを崩し、左足もズルッと梯子から落ちる。瞬間的に左腕一本に全体重が掛かる。当然耐えきれず、肩に痛みが走った直後に左腕もはずれた。フワッと身体が宙に浮き、景色が勢いよく上に流れる。
ドンッ! とお尻に衝撃を受けた。壁を向いて、バルコニーの手すりに座る格好だ。そのままお尻を軸にして後転する。意外なくらいスローモーションで、視界が壁から青い空と綿雲に変わり、それから木々が逆さまに見えた。
頭から落ちる! と思ったとたんに左足首を掴まれた。股関節に衝撃がきて、背中も強く打つ。上半身はなおも重力に引き寄せられたが、妻がさらに右足首も掴んだので、なんとか止まった。サンダルが頬をかすめて落ちていく。
「引き上げて! 頼む!」
叫びながら腰をひねると手すりの枠に手が届いた。
妻は、左足は掴んだまま、右足を離してベルトを持つ。
「せ~の、で上げるわよ」
その落ち着いた声で、身体がほぐれる。
彼女の声に合わせ、這いずるように手すりを登り、バルコニーに入った。ねじ込むように洋室に戻っても、しばらく声が出せなかった。左足とお尻に痛みを感じ、心臓が早鐘を打っている。「死」と隣り合わせになって初めて、自分が生物であること、長い生命の歴史を経てこの世に存在していることを実感した。
「大丈夫? どこか痛めた?」
妻の問いに、僕はゆっくり身体を動かす。
「足首とお尻がちょっと痛いけど。骨折とかはない、と思う」
「よかった……あなたひとりの身体じゃないのよ」
彼女は怖いくらい冷静に呟いた。
大袈裟じゃなく命の恩人になった彼女に、僕はありがとうと言えていない。いまでも言えずにいるのだった。




