第160話
ミネルヴァは混乱しっぱなしである。
いつものように寝室へ入り、またいつものように明日がやって来ると思っていたのは決して遠い昔のことではない。
突然公爵邸が襲撃され、気がつけば見慣れぬ草原に放り出されていた。
見たこともない獣に襲われ、ようやく見つけた小川では人語を口にする魔物に出会った。
それまでただの獣だとばかり思っていたロナが魔物と同じように流暢な言葉を使って話しはじめたのも驚いたが、それ以上にロナと魔物が繰り広げる魔術の応酬にめまいを覚えた。
何が何だかわからず、王都へ戻る道筋どころか困惑が増す一方。
そこへここが生まれ育った世界とは異なる場所だと言われても、それはミネルヴァの思考へさらなる混乱をもたらすだけである。
「グレイスタ大隊長。お恥ずかしい話ですが……、私にはさっぱり状況がつかめません」
ミネルヴァたちとロナたちの間には焚き火が揺らめき、その火をぐるりと地面に突き刺さった小枝が囲む。
小枝の先には適当な大きさへ切り分けられたネデュロの肉が刺さっている。
ろくに道具も持たないミネルヴァたちには火であぶるくらいしか肉を調理する方法がないからだ。
「安心しろお嬢様。俺もだ」
手持ち無沙汰にそのうちの一本を手で持って、肉を火にあてながらムーアが答えた。
「ロナはここが違う世界だと言いました。違う世界とはどういうことですか? 別の大陸にいるということでしょうか?」
「どうだろうな? ロブレス大陸ではないというなら、わざわざ『世界』なんて言葉使わないだろう。別の大陸だ、と言えばすむ話だしな。第一、ロブレス大陸だろうが他の大陸だろうが淡空は淡空のはずだ。淡空がないって時点で俺の理解が及ぶところじゃあない。こういう時こそカイルみたいな物知りが居てくれると助かるんだがなあ」
居ないものは仕方ない、とムーアがため息に言葉をのせる。
ミネルヴァは視線を前に向けた。
古い切り株に腰を下ろし、腕を組んでどっしりと構える男へロナが言葉を尽くして説明している。
ロナの言葉を信じるならば、その男はミネルヴァの師アルディスだという。
信じられない。
それがミネルヴァの素直な気持ちだった。
彼女の知るアルディスはまだ若い少年の姿だ。
無精ひげを生やした男臭いこの人物とはどう考えても年齢が合わない。
確かに髪の色、瞳の色はアルディスと同じ漆黒であるし、顔立ちもよく似ている。
アルディスがあのまま歳を重ねれば目の前に居る男のようになるのかもしれない。
(でも……)
心の内でミネルヴァは頭を振る。
この人物がアルディスのわけはない。
同一人物かどうかはわからないが元は同じ人物、とロナは言った。
しかしこの男はミネルヴァのこともムーアのことも知らない様子だ。
何よりも違うのはその瞳に浮かぶ光。
(師匠の目はあんなに冷たくないわ)
男がミネルヴァに向ける視線は凍てつくように冷たく、まるで敵に向けるそれであった。
ロナの取りなしで多少は態度が和らいだものの、それ以降はまるで関心がなさそうな様子を見せている。
会話を交わす時も、ミネルヴァとムーアは値踏みするような警戒の目を向けられているため非常に居心地が悪かった。
「ほらお嬢様。肉が焼けたぞ」
黙々とネデュロの肉を焼いていたムーアが、頃合い良しと見計らってその一本をミネルヴァに差し出してきた。
木の枝に刺して火であぶった肉が良い焼き色になっている。
ムーアの声にロナが反応する。
「んー。気は進まないけど仕方ないからボクらも食べようか」
あまり嬉しくもなさそうに、ロナがアルディスへの説明を一時中断して食事へ移る。
器用に前肢を二本使って小枝を挟み持つと、そのまま先端に刺さっている肉をひと口で食べた。
その器用さに感心しながら、ミネルヴァは渡された肉へ視線を落とす。
「え、と……。どうすれば……?」
「ああ、そっか。貴族のご令嬢だもんなあ」
食べ方がわからず戸惑うミネルヴァへ、ムーアも困り顔を見せた。
「ナイフやフォークなんてものはないし、皿の一枚もないんだ。それならこうやって直接口に運ぶしかないだろう?」と手本を見せるように肉へかぶりついてみせる。
本来であれば食材に直接かぶりつくなど令嬢として許されることではないだろう。
しかし今は非常事態である。
おまけに他の貴族や使用人たちの目がない状況ということもあり、ミネルヴァは意を決して人生初の経験に挑んだ。
小分けにされたとはいえミネルヴァの口にはあまりあるサイズの肉塊。
その端へ小さな口を開いてかぶりつく。
思った以上に筋張って硬い肉を噛みきると、まだ熱さの残るそれを奥歯で咀嚼する。
その硬さに眉をゆがめるも、初めて口にしたネデュロの肉は牛肉のような食感だったため、特に違和感なく受け入れることができた。
単純に味がしないのは調味料がないからだろうと勝手にミネルヴァは判断したのだが、それが大きな誤りであったことをすぐに思い知らされる。
硬い肉を噛むたびにその中から得も言われぬ生臭さが漂いはじめた。
同時に肉の中からヌルリとこぼれ出た何かが不快な感触をもたらし、抜け殻となった肉はまるでなめした革のように歯の圧力に抵抗する。
火はきちんと通っているはずだ。
にもかかわらずまるで生肉のような獣臭さが口内を覆う。
もちろん貴族令嬢のミネルヴァが生肉を食した経験を持っているわけではない。
ただ噛むたびに勢いを増していく異臭と気持ちの悪い食感に、耐えきれずミネルヴァは肉を吐きだしてしまった。
「うえっ! なんだこれ!? ぺっ、ぺっ! まずいっ!」
ミネルヴァのとなりでは同じようにムーアがネデュロ肉の洗礼を受けて嘔吐いている。
どうやら令嬢であるミネルヴァの舌が特別贅沢を主張していたというわけではなさそうだ。
今でこそ王軍の士官であるムーアだが、かつては傭兵として戦場を駆けまわっていた歴戦の強者だ。
その彼が吐き出すほどにまずいと言っているのだから、世間一般の感覚からしてもこの肉に問題があるのは間違いない。
「なんだこりゃ!? 食えるのかこれ!?」
彼が向けた視線の先を追って、ミネルヴァもロナたちに目を向ける。
そこには枝の先に刺したネデュロの肉を平然と食べる男、そして嫌そうな顔をしながらもふたつ目の肉に取りかかるロナの姿があった。
「食いたくないなら食うな。誰も食ってくれと頼んじゃいない」
なぜか自分の頭を片手で押さえながら、突き放すような口調で男が言った。
続いてロナも「食べなよ」と平坦な声をムーアに向ける。
「気持ちはわかるけどさ。こんなところじゃ食べるものなんてネデュロの肉くらいしかないよ。もっと遅い季節なら木の芽も食べられただろうけど、どっちにしたって小腹も満たせないだろうし」
「これくらいしか……」
暗い顔でネデュロの肉を見るミネルヴァ。
空腹がまだ耐えがたい程ではないといっても、最後に食事をしたのは半日以上前のことだ。
今はまだ我慢できても、じきにそれも限界が来るだろう。
「望んで飢えを選ぶというならそうすればいいし、ほかに食べられる物があるなら勝手に食べろ。止めはしない」
ひとりごとのようなミネルヴァのつぶやきに、なぜか黒髪の男が反応する。
その声には苛立ちのようなものが若干含まれていた。
「人里までいけば少しはましな食べ物があるだろうけど、ここじゃこれくらいしかないんだよ、ミネルヴァ。辛いとは思うけど我慢して少しだけでも食べておきなよ。鼻をつまめば少しはましになるよ。少しはね」
右も左もわからない世界で、まして貴族令嬢のミネルヴァがほかの食べ物を探すことなどできるわけもない。
ロナの助言に従い、指で鼻をつまみ思い切ってネデュロの肉を再びかじる。
確かに生臭さは多少和らいだ。
だがいくら嗅覚を鈍らせたところで不快極まる食感は変えようがない。
「うっ……」
嘔吐きかけたミネルヴァは咀嚼もそこそこに無理やり肉を飲み込む。
どろりとした感覚がのどを通りすぎると同時、拒絶するように胃液が逆流しかけるが、なんとかそれを自分の中へ押し込んだ。
涙目になりつつ横を見ると、ムーアが同じように肉と格闘している。
さすがは元傭兵。
順応力も貴族令嬢のミネルヴァとは比べものにならない。
「噛まなきゃいいんだろ、噛まなきゃ!」
ヤケクソ気味に自身へ発破をかけて、想像を絶するまずさの肉に立ち向かう。
ちまちまと枝先から肉を噛みちぎりつつ、口の中で咀嚼せずそのまま飲み込んでいるようだった。
とてもミネルヴァにはマネできそうにない。
結局ひと口分の肉を何とか飲み込むのが精一杯だったミネルヴァは、ロナに水をもらって腹を満たすしかなかった。
微妙な緊張感に包まれながら食事を終えたころには、すっかり空も暗くなっていた。
「ごはんも済んだし、そろそろ眠ろうか」
ロナはそう言うなりミネルヴァの側に近づいて身体を丸める。
アルディスは剣帯を外して傍らに置くと、横になって眠りにつこうとした。
「おい、夜番の順は決めないのか?」
そんなロナたちを見て慌てたムーアが問いかけるが、アルディスはこちらを見ようともせず面倒くさそうに答える。
「夜番? いちいちそんなもの立てなくても襲われる前に各自で対応すればいい」
「万が一ってこともある。第一、お嬢様にそれを求めるのは酷ってもんだろう?」
「襲撃の察知もできないのか……」
アルディスがあきれ顔で言う。
ミネルヴァはふがいなさに唇を噛んだ。
おそらく話の流れから考えるに、アルディスたちは眠りについていても危険を察知して対応する事が出来るのだろう。
それは傭兵として長い経験を積んできたムーアも同じかもしれない。
しかしミネルヴァは野営すら経験のない貴族令嬢である。
睡眠中に襲いかかる危機を察することも、すぐに飛び起きて対応できるほどの技量もない。
「大丈夫。ボクが側にいるからミネルヴァは安全だよ。朝までぐーすか寝ててもかまわないからね」
ロナの申し出がミネルヴァの心をさらに曇らせる。
無力感に包まれながらも、それが自身の力量だと納得せざるを得ない。
ミネルヴァはロナのすぐ横で丸くなると、黄金色の毛皮越しに伝わってくる体温を感じながら目を閉じた。
すぐに疲労が全身を包む。
このところアルディスに鍛えられているとはいえ、これほどの距離と時間歩き続けたのは初めてのことだ。
ミネルヴァが意識を手放して眠りにつくまで、さほど長い時間を必要としなかった。
2019/05/05 誤字修正 絶えきれず → 耐えきれず
※誤字報告ありがとうございます。
2021/09/09 ロナの一人称を修正