第161話
「――オイ、待てっ!」
ミネルヴァの眠りが唐突に妨げられる。
慌てたようなその声はムーアのものだ。
無理やり浮上させられた意識をどうにか自分の感覚とリンクさせ、ミネルヴァはゆっくりとまぶたを開いた。
「えっ……?」
目に飛び込んでくるのはロナにアルと呼ばれていた男の姿。
距離の近さに狼狽する間もなくその手に握られた剣が横向きに振り抜かれ、空気を切り裂く振動と共にミネルヴァの頭上を通りすぎる。
「きゃあ!」
突然の事に身をすくませたミネルヴァの背後で何かがボトリと音を立てて地面に落ちた。
反射的に後ろを向いたミネルヴァが目にしたもの。
それは体長四十センチほどの生き物だった。
全身真っ白なその体は太いらせん状のヒモが三本絡み合ったような形をしている。
尾部と思われる部分はそれらが複雑に絡み合って一体化しているが、逆に頭部と思われる部分は三方に分かたれたその中心部に口腔部らしき穴がのぞき、歯と思われる突起が無数に並んでいた。
体表は無毛でくすんだ白一色である。
見た目に柔らかい感触を思わせ、たとえるなら土の中で眠る獣の幼体に近いであろう。
その生き物が今、アルディスの剣によって身体を裂かれ息絶えようとしていた。
ぶよぶよとした身体からこぼれ出る体液が嫌悪感をよりいっそう呼び起こす。
思わず視線をそらしたミネルヴァだったが、すぐに表情を硬くして傍らにあったショートソードを鞘から引き抜いた。
この生物が一体だけとは限らないのだ。
油断したところを別の個体に襲われるというのも十分考えられる話だった。
「ふわぁ……。悪いね、アル。ありがと……むにゃ」
ロナはあくび混じりにそう言うと、再び丸くなって寝入ろうとする。
アルディスの方も剣を収めようとしていることから、おそらく危険は払拭されたのだろう。
「この程度も対応できないのか……」
あからさまなあきれ顔でアルディスがため息をついた。
「半年前まで剣を握ったこともなかった子供に向かって無茶言うなよ」
ムーアがミネルヴァを弁護するも、アルディスはだからどうしたという表情を見せるだけだ。
「町の外に出る以上、そんな言い訳が通用するか。人間だろうが獣だろうが相手にとって獲物は弱い方が好都合だろう。こんな相手に不意をつかれているようじゃあ、話にならん」
ミネルヴァも自分の力量不足は痛いほどわかっている。
いまだ魔法のひとつも習得できず、非力な腕では剣を振るったところで自衛すらままならない。
だがそれでも現状を良しとせず強くなることを決意した以上、泣き言は口にしたくないし、将来の可能性を諦めたくもない。
「今はまだ……。でもいずれはきっと――」
精一杯の反論を口にしかけたミネルヴァの気持ちも斟酌せず、アルディスの言葉が覆いかぶさる。
「いずれじゃ意味がない。生死がかかっているのは今だということを自覚しろ。魔力も扱えない、気配も察知できないんじゃあ、外で生き抜くのは無理だ。悪いことは言わん。町に戻ったら剣なんぞ握らずに大人しくしていろ」
「それは……、承服できません」
もちろんミネルヴァは傭兵や探索者になりたいわけではない。
今回は不可抗力だが、自ら望んで危険な地へと赴きたいわけではないのだ。
町から出るなという言葉は受け入れるのに何の抵抗もない。
もともと公爵令嬢であるミネルヴァが王都の外へ出ることなど滅多にないのだから。
しかし剣を握るなという言葉は絶対に受け入れられない。
ミネルヴァにとって、アルディスから手ほどきされている剣術だけが強さへとつながる唯一の道である。
いずれ剣魔術を習得し直接剣を握らなくなったとしても、剣を手放すわけにはいかないだろう。
今のミネルヴァに剣を握るなというのは、強さを諦めろと言っているのも同然だった。
だからこそ、それは受け入れられないと拒絶する。
「そんなに死にたいか?」
「死にたいわけではありません。自分と、自分の大事な物を守りたい。その力を求めることの何が悪いのですか?」
「悪いとは言わん。だが世の中には『分相応』という言葉がある。自分の力量を知らない人間はあっという間に死ぬぞ。その剣にしたって――」
アルディスの目がミネルヴァの剣に向けられる。
「お前が持つには過ぎた代物だ。どこぞのお嬢様だかなんだか知らないが、実力が伴わないのに武器だけ高価なものを持っていたところで宝の持ち腐れだな」
「わかっています。この剣が私に不相応な物だということくらい。それでもこれは師匠が私にとくださった大事な品です。今は使い手としてふさわしくなくても、いずれは……」
「師匠……、師匠ねえ」
頭痛でもしたのか、片手を軽く側頭部へあてた後、すぐにアルディスは会話を再開する。
「お前の師匠も俺と同じ名前だってロナに聞いたが……」
アルディスがこれまでにも何度か見せたあきれ顔を浮かべた。
「お前のようなひよっこにそれほどの剣を与えるとか、ずいぶんと過保護で甘っちょろい師匠だな。よほどぬるい生き方をしていると見える」
「師匠のことを悪く言わないでください!」
自らの師匠を批判され、ミネルヴァは思わず声を荒らげる。
「悪くは言ってない。ただ甘ちゃんだと言っているだけだ」
「黙りなさい! それ以上の侮蔑は許しません!」
同じ名前の人間だからといって、ロナがどちらもアルディス本人だと明言したからといって、言っていいことと悪いことがある。
ましてミネルヴァにとって尊敬する人物をよく知りもせず誹謗するなど許せることではなかった。
「許すも何も、どうするんだ?」
「このっ!」
「やめろお嬢様!」
挑発するかのようなアルディスの態度に耐えかねて、ミネルヴァは制止するムーアの声もお構いなしにショートソードを振り上げる。
細い身体から繰り出されたとは思えないほど鋭く斬り下ろされた剣撃は、相手の腰に下げられた剣の柄を狙っていた。
アルディスはそれを避けようともしない。
ただのんびりとその剣筋を見極めるように視線で追うのみ。
ミネルヴァにとって渾身とも言えるひと振りは、アルディスの身に届く直前で唐突に不可視の壁と接触し弾かれる。
硬い大岩へぶつけたかのような衝撃が剣を伝わって手に響き、思わず取り落としそうになった柄を力一杯握った。
そこへ重ねられるゴツゴツとした大きな手。
「あっ!」
瞬きも許さない程短い時間で懐へ潜り込んできたアルディスの右手が、ショートソードの持ち手をミネルヴァの手ごと掴んで押さえる。
「みっともない話だな。素手の人間相手にこの距離から斬りかかって一太刀も入れられないなんて」
「くっ……」
もちろんミネルヴァとてアルディスの実力が尋常ではないことは知っている。
ムーアですら太刀打ちできなかったネデュロという魔物を、淡々と殲滅する様子が夢や錯覚ではないことくらい理解していた。
そんな相手に自分のような半人前が一撃加えられるとは思っていない。
だがそれでも剣筋を見せることで、せめて師の教えが無駄ではないと証明したかったのだ。
「おい、それくらいにしてくれ。お前も結構大人げないぞ」
見かねたムーアがアルディスを咎める。
「こういうことは怪我をする前に誰かが言っておか――――なんだ!?」
冷たい目をムーアの方へ向けながら言いかけたアルディスが、突然視線をミネルヴァの持つ剣へと戻して驚きの表情を見せた。
「え、何!?」
ミネルヴァが狼狽もあらわに自分の剣へと目を奪われる。
剣が白く輝きはじめる。
それも並の輝きではない。
勢いを失った焚き火の赤をかき消すがごとく、周囲一帯をまばゆいばかりの光が包んでいく。
「なんだ、どうした!?」
状況を理解できず声を上げるムーア。
ミネルヴァの横で寝そべっていたロナが無言で立ち上がる。
「うっ……、なんだこれは? 頭が……、夢……、今は……」
アルディスが左手で頭を押さえながらひざをつく。
その姿を見てミネルヴァは息をのんだ。
あろうことかアルディスの身体が剣のまとっていたそれと同じように光を帯びていた。
アルディスを包む光は次第に強さを増し、それに反してミネルヴァの剣は輝きを失っていく。
まるで剣から発せられた光がアルディスの身体に吸い込まれていくようであった。
そんなアルディスの様子を呆けて見ていたミネルヴァとて、いつまでも傍観者ではいられなかった。
突如としてミネルヴァの裡に強く膨大な感情が流れ込んでくる。
自らのものではないそれに飲み込まれまいともがくも、濁流のように押し寄せる情報に押され、ミネルヴァの思考は他人の感情に染まりはじめた。
それは誰かの記憶。
それは誰かの感情。
それは誰かの生きてきた道。
数多の人物。
数多の場面。
数多の戦いがミネルヴァの脳裏に映し出される。
それはまるで温かな思い出に浸る夢のようでもあり、同時に絶望をつきつける悪夢のようでもあった。
『なあに、ガキふたり分食い扶持が増えたくらいどうってことない。それくらいの甲斐性はあるつもりだ』
歴戦の強者を思わせる中年の男が崩れた笑顔を向けてくる。
心がじわりと温かくなった。
『剣を手にとって戦う事を選んだなら、もうお前は俺たちの立派な仲間だ。団を出ていくとか他人行儀なこと言うんじゃねえよ』
隻眼の男が照れくさそうにそっぽを向く。
大切な何かを手に入れた気がした。
『守られてばかりなんて思わないでよ。私だってね……、守りたいものくらいあるんだから』
黒髪の少女が真っ直ぐな目で見つめてくる。
抱きしめたくなる感情を必死に抑える。
『強くなったな。剣もろくに振るえない小僧っ子だったのが、今じゃいっぱしの剣士か』
中年男が嬉しそうにからかってくる。
喜びと充足感が胸を満たした。
『あんなのでも雇い主だ。むかっ腹が立つのは俺も同じだが、雇用契約があるうちは叩っ斬るわけにもいかねえだろ』
中年男が苛立ちを押し殺しながら努めて冷静を装う。
悔しさがこみ上げてくるのを歯がみして耐えた。
『あのいけ好かねえ女将軍にひと泡吹かせてやったぜ! ざまあみろってんだ!』
大勢の仲間が酒杯を片手に歓喜の声を上げた。
胸の中がスカッとして晴れやかな気分に包まれる。
『くそっ! 何だこいつらは!? おい、何人やられた!?』
仲間のひとりが劣勢に焦って声を荒らげる。
失われていく仲間の命に悲しみと動揺で胸が押しつぶされそうになった。
『育ちの悪い野良犬たちが足掻きながら果てる様は愉快だったわ。良いデータも取れたし、お礼を言わなくちゃねえ』
真紅の髪を片手でかき上げた女が優雅な口調で外道なセリフを吐く。
怒りのあまり目が血走り、痛いくらいに頭が熱くなる。
『俺たちは止めたんだ。なのにあいつ、自分ひとりでも行かなきゃならないって……』
双子のかたわれが珍しく神妙に答える。
これまで感じたことのない恐怖と後悔が胸の中で渦巻いた。
『行くのか? …………そうか、わかった。……いつでも良い。必ず戻って来いよ』
中年男が何もかもを飲み込んだ表情で送り出してくれた。
申し訳なさと同時に、ろくな恩返しもできない自分のふがいなさで後ろめたい気持ちになる。
『ひどい、ひどいよこんなの……。死んでないけど……、生きてもいないじゃないか!』
足もとから聞こえる声がまるで別世界の出来事に思えた。
認めたくないと思う一方で、その姿からどうしても目が離せずにいる。
一歩近づく。
足の裏で乾いた音を立てて小さな骨の割れる音がした。
悲しみ、悲しみ、悲しみ、悲しみ、嘆き。
悲しみ、悲しみ、悲しみ、嘆き、後悔。
悲しみ、悲しみ、嘆き、後悔、痛み。
悲しみ、嘆き、後悔、痛み、自責。
悲しみ、嘆き、後悔、痛み、自責、怒り。
悲しみ、嘆き、後悔、痛み、自責、怒り、憎悪。
悲しみ、嘆き、後悔、痛み、自責、怒り、憎悪、憎悪。
悲しみ、嘆き、後悔、痛み、自責、怒り、憎悪、憎悪、憎悪。
悲しみ、嘆き、後悔、痛み、自責、怒り、憎悪、憎悪、憎悪、憎悪。
悲しみ、嘆き、後悔、痛み、自責、怒り、憎悪、憎悪、憎悪、憎悪、憎悪。
悲しみ、嘆き、後悔、痛み、自責、怒り、憎悪、憎悪、憎悪、憎悪、憎悪、憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪。
『このままにしておくの? このままじゃ……可哀想だよ』
足もとの声が決断を促す。
救いたい。救えない。
失いたくない。だけど恥辱にまみれた生き地獄から解放してやりたい。
感情と理性が激しくせめぎ合う。
手が震える。
涙が止まらない。
逃げ出したくなるが、逃げる前に決断をしなくてはならない。
誰か助けてくれと声にならない救いを求める。
それが空虚な願いだとわかるからこそ、自分の手で。
最愛を――――終わらせた。
痛い。
痛い。
胸が痛い。
心が痛い。
魂が痛い。
誰だ?
この痛みは誰のせいだ?
わかっている。
聞くまでもなかった。
あの――――狂女が元凶だ。
殺す。
絶対殺す。
殺してやる。
同じ苦しみを味わわせて殺してやる。
どんな手段を使ってでも殺してやる。
世界中どこへ行っても追い詰めて殺してやる。
殺したところで最愛は戻らない。
最愛をこの手で終わらせた罪は消えない。
それでも殺す。
たとえこの命を引き替えにしても、一生をかけて。
――殺してやる。
『雑兵が! 調子にのらないでちょうだい!』
狂女に吹き飛ばされ壁に叩きつけられる。
どれだけ剣速を上げようと、どれだけ魔力を込めようと、どれだけ攻撃を巧みに組み立てようと、どうしてもその剣は女に届かない。
無力感に包まれようとする心を憎しみが覆い隠して再び立ち上がらせるが、その思いに対して現実は無情だった。
届かない。
あと一歩が足りない。
恨み骨髄に徹するも、憎悪だけでは彼我に横たわる力量差を覆すには至らなかった。
『一応実験は何度もしてますけど、まだ細かいところまでは調整し切れていないんです。もしかしたら妙なところに飛ばされるかもしれないので、先に謝っておきますね』
『死ぬんじゃねえぞ、アルディス!』
双子の弟が魔力を練りはじめ、兄が女に立ち向かう。
困惑。
疑問。
動揺。
『だからアルディス。僕らの分も――――』
その言葉を全て聞き取ることさえできない。
憤りをかき消すように微笑みを浮かべる彼の姿が薄くなり、その視界が白く染まった。
夢なのか、幻覚なのかもわからないまま、ミネルヴァは自分の中へ入り込んでくる強い感情の濁流に翻弄される。
その奔流が過ぎ去った時、洗い流されることなくミネルヴァの中にこびりついていたのは無念、後悔、自責、焦り、悲しみ。
そして焼けた鉄のように冷めることのない憎しみという強い感情だった。
「大丈夫か、お嬢様!」
すぐ側から聞こえるムーアの声にミネルヴァは意識を引き戻される。
「う……。さ、さっきのは……一体?」
傍らにはムーアの姿があり、その手はミネルヴァの肩に添えられていた。
どうやら倒れそうになった自分をとっさに支えてくれたのだとわかり、短く礼を口にする。
「ありがとうございます……」
朦朧とする思考を落ち着かせ、ゆっくりと周囲を窺う。
ロナが立ち上がって一点を見つめ、目を見開いていた。
視線の先にはひとりの人物。
先ほどミネルヴァと向かい合っていたアルディスがひざをついている。
「光って……」
ミネルヴァの口から呻くような言葉がこぼれ落ちる。
先ほど目にしていた光が錯覚ではなかったと改めて知り、その異常な光景にただただ言葉を失った。
2019/01/05 誤字修正 過保護なで甘っちょろい → 過保護で甘っちょろい
※誤字報告ありがとうございます。
2019/04/15 修正 虫 → 獣
2019/05/02 誤用修正 荒げる → 荒らげる
2019/05/05 誤字修正 声を挙げる → 声を上げる
2019/05/05 誤用修正 こんなの相手に → こんな相手に
※誤字報告ありがとうございます。
2019/08/12 誤字修正 周囲一体 → 周囲一帯
2019/08/12 誤字修正 押さえる → 抑える
※誤字報告ありがとうございます。






