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8-1

 まだ仕事が残っているという長沢さんと別れて地下室を出る。

 紬ちゃんと一緒に三階まで来たが、急に紬ちゃんが足を止めた。


「どうした?」

「使用人は談話室に入ることを禁じられてるわ」

「そうなのか。じゃあ、ヘルメスが現れたらどうするんだい?」

「……とりあえず、部屋の様子は盗聴器で窺っておくわ。ヘルメスが現れたら好きに動かせてもらうわよ」

「まさか、俺たちの邪魔をするつもりか」

「当然じゃない。私は私のためにあなたに協力したんだから。それよりも、予告状の謎は解けたのかしら?」

「まぁね」

「……ほ、本当なの?」


 紬ちゃんは全く信用していないような目で俺を見る。

 人に信用されないというのは悲しいことだ。

「なら、ヘルメスはいつ現れるの?」

「それは言えないよ。邪魔されたらたまんないからね」

「あなたって、結構性格悪いわね」

「失礼な。協会きっての粋でいなせなナイスガイだというのに」

「急に協会が大したことない組織に思えてきたわ」


 あー、そっちの評価が下がるのか。

 こうなったら華麗にヘルメスを捕まえて、紬ちゃんをぎゃふんと言わせるしかない。ついでにヘルメスこと、マスターにもぎゃふんと言わせてやる。

 どうせ捕まえても容易く逃げられるだろうが、屈辱を味わうには十分すぎる程だ。


「それにしても、色々と思惑が交錯しすぎて面倒なことになってるなぁ」

「あら、『ガリラヤの海の嵐』をめぐる物語には相応しいじゃない」

「どういうこと?」

「自分で調べなさい」

 そう言って紬ちゃんは階段を下りていく。

 なんだかよくわからないので、気にしないことにしよう。



 気を取り直して談話室へと足を向ける。結局、三時間くらいアリッサを野放しにしてしまった。

 何事もないことを信じたい。

 怖々と談話室の扉を開けると絵の近くに絹谷が座っていて、その近くにアリッサが立っていた。絹谷が少しでも変な行動をすれば瞬く間に捻り潰さんというふうに。

 恐ろしい。だが、最悪の事態は免れている。


「すみません、遅くなりました」

「……おお、探偵。謎は解けたかね?」

「はい。これでヘルメスの侵入は防げるでしょう」

「ということは、まだこの屋敷にはいないと?」

「そうなりますね。ですが今、これ以上の謎解きをするわけにはいきません。誰がどこで聞き耳を立てているかわかりませんから」

「……そうか。その辺は君に任せるよ」


 意外と物分かりのいい爺さんだな。見た目は頑固な爺さんだが、結構柔軟な考えの持ち主なのかもしれない。

「それより、彼女をもう少し遠くに行ってもらえるように進言してくれないか。これでは息が詰まってかなわん」

 横目で直立不動のアリッサを見ながら言う。

 この絹谷の物分かりの良さは、アリッサによる無言のプレッシャーのおかげのように思えてくる。俺だったら三時間も耐えられる気がしない。


「アリッサ、ちょっとこっち来い」

「なんだ、私は変なことをしたのか?」

「いや、なんというか君には他者への心遣いが必要だ」

「戦うのに心遣いは必要ないだろ」

「恐ろしいことをさらっと言うなよ。とりあえず、もう少し楽にした方がいい」

「シズマは作戦行動中に気を緩めるのか? そんなことをしたら、真っ先に死ぬぞ」

「死ぬかっ! ……いいか? ここは日本だ、君の常識はここの非常識だとわかってくれ」

「そんなことはどうでもいい。私は私の任務を果たすだけだ。……あ、そうだシズマ。先程協会から連絡があって、私の任務が変更された」

 ダメだこいつ、人の話を聞く気がねぇ。

 そこいらの子犬の方が遙かに話を聞いてくれるだろう。



「……で、任務の変更ってなに?」

「怪盗ヘルメスの捕獲だ。シズマと協力して、協会の威信にかけてヘルメスを絶対に仕留めろと言われた。その際の多少の損傷は認めるらしい」

「こえぇ……。ちなみに、その多少の損傷ってのはどれくらい?」

「下半身不随くらいは許されるだろう」

「許されねぇだろっ! どんだけ痛めつけるつもりだっ!」


 前回の投げて捻って落とす早技に心底恐怖を覚えたというのに、更なる大技を繰り出そうというのか。

 これはヘルメスに同情したくなる事態だな。協会の連中もアリッサの恐ろしさを知っているくせにこんなことを言うとは、本気で怪盗ヘルメスを捕まえる気のようだ。

「つーか、ヘルメスが下半身不随レベルだとしたら、怪盗セルリアはどれくらいにするつもりだったの?」

「相手が抵抗しなければ、いつも通り数日で目が覚めるくらいだな」

「……もし、セルリアが女だとしたら?」

「どうもしないが?」

「手加減とかは?」

「これ以上しろと言うのか。難しいな」


 ……なるほど、あれで最低レベルなのか。

 凄いんだな、人間って。鍛えれば手加減しても瞬殺出来るようになるのか。

 今頃紬ちゃんもこの会話を盗聴して、恐怖を感じているに違いない。これで少しは俺への感謝の気持ちが生まれるだろう。



「……彼女は本気なのか?」

 絹谷は小声で俺に聞いてくる。その表情には懐疑的ながらも、得体の知れないものへの不安がまざまざと映っていた。

「本気ですよ。ですから、アリッサがいれば絵は守られるでしょう。なにしろヘルメスは現れた瞬間に這いつくばることになるので」

「だが、そんなにうまくいくのかね?」

「もちろんです。ヘルメスの現れる時間と場所は特定出来ましたので、アリッサの実力を十分に発揮出来るでしょう」


 ……まぁ、十分に発揮しすぎてヘルメスが下半身不随とかになっても、俺に責任はないはずだ。あいつには今回は荒熊がいることを話してあるし、一応の警戒はしているだろう。

 そういえば、アリッサの容姿について話してなかったような気がする。

 もし、身長二メートルくらいのガチムチでむっさい男を想像していたとしたら、出鼻を挫かれてやられてしまうかもしれない。



「……まぁ、いいか」

 きっとなんとかなるだろう。

 なんとかならなくても、俺のせいじゃないさ……。


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