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4-6

 今日の営業時間が過ぎて片付けを始める。

 食い逃げをされてしまったため、レジの計算が合わない。だがそれは、アデプトではよくあることだった。

 原因はもちろん槇である。


 あいつにはいつか本当に天罰が下ることを神に祈ろう。日本の八百万の神々は私の願いを聞き届けてくれるだろうか。

 たくさんいるのだから、誰か一人くらいは耳を貸してくれるはずだ。

 たぶん……。



「まぁいいや……小夜ちゃん、ちょっと頼み事していいかな?」

「なんですか?」

「さっきの絹谷彰って資産家のことを調べてほしいんだけど」

「作り話だったんでは?」

「小夜ちゃんもわかってるだろ? あれが本当の話だってことは」

「……ええ。ですが、あなたは彼女の誘いを断ったじゃないですか」

「当然だろ? 君以外と仕事をする気はないよ」

「……っ」


 それに私の能力のことを勘付かれる可能性だってある。

 例えそれが理解出来ないことだとしても、そう簡単に見せられるものではない。

「紬ちゃんのことは別しても、気になるじゃないか。まさか本当に日本に『ガリラヤの海の嵐』があったなんてさ」

「……わかりました。二日程もらえますか?」

「ああ、よろしく」

「ちなみに、動くのは明後日以降ですから」

「……あ、ああ。わかってるよ」


 何があっても個展には付いてくる気らしい。

 小夜ちゃんが見せる初めての対向意識に、娘の成長を見たような感慨を受ける。

 香月のところへ預けられてからも、小夜ちゃんは同世代の子たちよりずっと先を走り続けてきた。だから今、紬ちゃんみたいな同じ年頃の子に自分と同じところに並ばれて、きっと不思議な気分なんだろう。

 つまり小夜ちゃんにとって、紬ちゃんは初めてのライバルとなるのだ。

 何のライバルかはわからないけど……。

 若いっていいねぇ。

 青春だねぇ。



「なにをニヤニヤしてるんですか。不気味ですよ」

「いや、ちょっと楽しみが増えた気がしてね」

「はぁ……。それはどうでもいいですけど、暇ならガードナー事件について説明してもらえませんか?」

「いいよ。そうだな……どこから話そうか……」

 まずはガードナー美術館がどんなところかを話すことにしようか。


「ガードナー美術館というのは、イザベラ・スチュワート・ガードナーという女性が造った邸宅美術館だ。邸宅美術館ってのは、近代の美術館みたいなホワイトキューブじゃなくて、住んでいた屋敷をそのまま美術館にしたものだね」

 つまり、ガードナー夫人の死後にそのコレクションを一般公開したのだ。

 邸宅美術館は世界に数多くあるが、ガードナー美術館は他と少し事情が異なっている。それは彼女の遺言によって、自らの死後作品の展示位置を一切変えないこと、作品の貸し出しはもちろん新しい作品を加えることも禁止しているのだ。

 その結果は後に語るとしよう。



「ガードナー美術館にはイタリア・ルネッサンス絵画のコレクションが多く、ボッティチェリ、ラファエロ、フィリッポ・リッピ、ティツィアーノなどの画家の絵がある。そしてその二階のオランダ室には、フェルメールやレンブラントの絵が飾られていたんだ」

「色々と集めてますね」

「これでも範囲を絞ってる方だよ。節操なく集めまくった収集家も多くいる」

 それはガードナー夫人の財力に限りがあったからでもあるが、そのおかげでいいものを厳選する目を手にしていた。

「そういう成り立ちで出来た美術館だから、その運営も彼女の遺産と僅かばかりの入場料で賄われてる。その結果、毎年の予算が厳しくて経費を節約しなければならなかったんだ。それが顕著に表れたのが、警備や保険だった」


 当時ガードナー美術館を警備していたのは、少し研修を受けた程度の学生アルバイトだったと聞く。さらに、以前までは歴代館長が美術館に住み続けていたのだが、資金の問題で住居スペースを修復室などにしなければならなくなったのだ。

「美術館として……いや、高価な品を所持している建物としては、異常な程ずさんな警備だった。そして、一九九〇年三月十八日に事件は起きた」

「はあ……それはまたなんとも……」

「長くなるからコーヒーでも淹れようか」

「ありがとうございます」

 私は二人分のコーヒーを淹れながら話を続ける。



「……さて。三月十七日は聖パトリック記念日で、これはアイルランドの守護聖人といわれている聖パトリックの命日なんだけど、ボストンはアイルランド系の人たちが多いから、その日は盛大に祝われるんだ。その年は十七日が土曜日だったこともあってか、ハメを外した人が多かったらしい」

「それも関係あるんですか?」

「微妙だね。それは後で話すよ」

「はぁ……」

「そして十八日の午前一時過ぎ、まぁその日の夜だ。ガードナー美術館に不審者が逃げ込んだと言って、ボストン警察の警官だと名乗る二人の男が現れたんだ。そして彼らは警備員の不意を突いて二人の警備員を縛り上げた。その後守衛室へ行き、警報装置を切ると二階のオランダ室へ向かったんだ」

 渇いた喉をコーヒーで潤す。

 実際話してみると、これは予想よりかなり長くなりそうだ。

 おかわりの準備もしておこう……。


「オランダ室に着いた彼らはレンブラントの『ガリラヤの海の嵐』を含む三点とフェルメールの『合奏』、そしてホーフェルト・フリンクの『オベリスクのある風景』、ついでに中国・殷時代の青銅製の大杯を持ち去った。それから、ショート・ギャラリーと呼ばれる部屋に行き、そこでドガの素描や水彩画作品を五点、一階に下りてブルー・ルームにあったマネの『トルトニ亭にて』を持ち去って美術館を出たんだ」

「……十二点しかありませんが?」

「ああ。事件後に調べているうちに、旗竿の先の金メッキの鷹の彫刻もなくなってることに気づいたんだけど、これが本当にその日に盗まれたものか、よくわからないんだ。それも一応数に入れてるみたいだね」

「盗まれたことに気づかないんですか」

「さっきも言ったけど、ガードナー美術館は邸宅美術館なんだ。屋敷の調度品として結構高価なものが無造作に置いてあったりする」

 まぁ……この鷹の彫刻は、純金のものと勘違いして持っていった程度のものだが。


「ここまでの犯行時間が、およそ一時間半。言っちゃなんだが、手際が悪すぎる。それに変装してるとはいえ、警備員にも顔を見られてるんだから、捕まるのは時間の問題と思われた」

「それが今でも捕まってないんですか……」

「多くの人間の思惑が入り乱れて、捜査がうまくいかなかったのが一番の原因だ。まず最初に問題になったのは、犯人が何故これらの絵画を選んだかだった。ガードナー美術館の見所といえばルネッサンス絵画がまず挙げられる。特にティツィアーノの『エウロペの略奪』はアメリカにある最高の絵画とまで言われてるものだ。それらを一枚も盗らずにオランダ美術の方を選んだのはどうしてだろうか?」


「……犯人の趣味だからでは?」

「その可能性も否定出来ないね。だが、大抵の美術品泥棒にとって美術品は商売道具に過ぎない。だから盗んだものの先には金がある」

「つまり、売りやすい方を選んだということですか?」

「そこでまた問題が出てくるんだ。小夜ちゃんはフェルメールの現存する作品がいくつあるか知ってるかい?」

「たしか……三十数点ほど。あっ……」


「そう。そんな希少な作品を盗んでも、普通に売りに出したらすぐに盗品だとばれてしまう。『ガリラヤの海の嵐』もレンブラント唯一の海の絵だ。ブラックマーケットでも簡単に売れるはずがない」

 他の作品もマスメディアが騒ぎ立てたおかげで、盗品という認知度が高まってしまっているため、これらも売ることは難しいだろう。



「残る犯行動機は美術館や保険会社との裏取引か、コレクターに依頼されての盗みかということになった。まずは裏取引についての可能性を考えてみよう。裏取引ってのは、盗んだものを美術館や保険会社に買い戻させることが一般的だ」

「一番手っ取り早い換金方法ですね」

「そうだね。保険会社は美術館に保険金を払うより、犯人と取引をして買い戻した方が安く済む。だからこうした裏取引が成立するんだ。……しかしここでまた問題が起きる」

「……またですか」


「まただ。実はガードナー美術館は保険に加入してなかった」

「……はい?」

「お金がなかったんだよ。掛け金を払う余裕が」

「笑い話にもなりませんね……」

 もし保険に加入していても、ガードナー夫人の遺言で新しい作品を買うことも出来ないのだから、そもそも保険に入る意味がなかったということもある。


「そんなこともあってか、三月二十日にオークション会社のサザビーズとクリスティーズが共同で、盗品の返還に繋がる情報提供者には百万ドルの報奨金を出すと公表した。これはFBIの提案らしい。ところが犯人はおろか、有益な情報の提供者すら現れなかったんだ。これで裏取引のための犯行という説は失速していったんだ」

「……となるとコレクターの依頼ということに?」

「まぁ、そんな慌てずに順を追っていこう。そのコレクター説は最初の問題である、ルネッサンス絵画ではなくオランダ美術を盗んだということに説明を付けることが出来る。依頼主の趣味ではなかったというね。だが、そもそもそんな悪徳コレクターが実在するという証明がされていないんだ。これはマスメディアが話を面白くするための、興趣に過ぎないと言われてる」

「確かに現実的ではないですよね。……目の前に似たようなのがいますが」

「それは言わないお約束だよ」

 私はガードナー事件には関係ないのに、藪蛇にも程があるだろ。

 許せん、悪徳コレクター……。



「そんな悪徳コレクターの国籍はコロンビアか日本だと考えられた。コロンビアは麻薬の輸出国で大きな地下マーケットと犯罪組織を有している。日本は〝美術品泥棒の天国〟と言われていたのが理由だ」

「そして絹谷彰という男の手に『ガリラヤの海の嵐』あるんですね」

「まさかとしか言いようがないね」

「ということは、絹谷の依頼で盗んだんでしょうか……」


「……そこまでは断定出来ない。『ガリラヤの海の嵐』に関しては、盗まれた後に見た人間がいるんだよ。トム・マシュバーグという記者なんだが、彼が言うにはレンブラントの三点のうち二点は他と別ルートで流れたらしい」

「……はい?」

「ここからは私も詳しいことはわからない。そのつもりで聞いてくれ。盗難から七年経った頃、報奨金は百万ドルから五百万ドルにまで引き上げられていた。そしてある男が返還に繋がる情報と引き替えに、取引を持ち出してきた。男の名は、ウィリアム・ヤングワース三世。こいつはマリファナと武器の違法所持で刑務所に入れられていたんだが、絵画返還の橋渡しと引き替えにガードナーからの五百万ドルと自らの罪の免責、そして服役中の友人マイルス・コナーの刑期短縮、出所を要求したんだ」

「マイルス・コナーですか……」

「そう。その名を出したことで捜査当局は交渉に応じる姿勢を見せた」



 このマイルス・コナーというのは伝説的な美術品泥棒で、この世界では有名な男だ。

 コナーは七〇年代半ばに美術品盗難事件で逮捕された時に、手下にボストン美術館からレンブラントの絵を盗ませ、それの返還と引き替えに自分の刑期を短縮させるという取引をやってのけたという。

 政治的目的のために絵を盗み出すことはよくあるが、自分の刑期を短縮するために絵を盗ませるなんてのは、前代未聞だった。

 ガードナー事件の時も容疑者の中にコナーの名があったが、当時は彼もヤングワースも別件で服役中だったために、実行犯にはなり得なかった。


「ブラックマーケットに通じたコナーならば、絵画の行方を知ってる可能性があると捜査当局は考えた。ヤングワースは交渉役になることで、自分も分け前を貰おうという魂胆だと推測したようだね」

「コバンザメみたいですね」

「元々、ヤングワースはコナーの盗品を管理してたが、金に困って勝手に売ってしまうような男だ。今ではコナーに追われているとかなんとか……」

 ちなみに、ヤングワースは度々刑務所を出入りしているような男だ。

 もはやまっとうに生きる気ゼロだろう。


「そうして交渉が始まったんだが、如何せん登場人物が多すぎたんだ。コナーにヤングワース、FBIに警察、マスメディアなどと、それぞれが別々の思惑で動いているから話は平行線をたどっていた。そこで、まずはヤングワースが絵画の行方を知ってるのかを証明することになった。彼は記者のマシュバーグをとある倉庫へ連れて行き、『ガリラヤの海の嵐』を見せた。だが、彼は絵の専門家でもなんでもないため、それが本物であるかまではわからない」

「となると、その後に絹谷が買ったと見ていいんですかね」


「それがそうとも言えないんだ。この後にヤングワースとコナーはレンブラントの絵の写真と絵の具の欠片を証拠として出してきたんだが、鑑定したら絵の具は確かにレンブラントの時代のものだが現場に残ってた絵の具の欠片とは一致せず、写真は印刷物を撮ったものだという結果が出た。それで交渉は決裂したんだ」

「マシュバーグの見たものが偽物である可能性もあるんですね」

「ああ。実行犯であったとされるコナーの手下の二人も、一人は病死し、一人は殺されてしまって真相はわからない。だが、この交渉過程から犯行がボストンのギャングに仕組まれたことが明らかになったんだ。そしてボストンを支配しているのが、アイルランド系ギャングのボス、ホワイティ・バルジャーだ」

「……ゲームのラスボスみたいな登場の仕方ですね」


「しかもバルジャーはFBIに深いコネクションを持ってたりもする。……さらに、フェルメールの作品というのは、以前にもIRAに政治的目的で盗まれてるんだ。アイルランド系ギャングのボスがIRAと繋がっててもなんの不思議もない。事件の起きた日がアイルランド系の人たちの祝日だったのも意味深ではあるね」

 ここまで来るともう、どこが底だかわからないのだ。

 ガードナー事件がもう二十年以上解決に向かわないのも、捜査側と黒幕が繋がっていたり、五百万ドルの交渉のチャンスがまだ残っているためだろう。



「……とまぁ、こんな事件だったわけだが、理解していただけただろうか」

「初めにあなたが驚いた理由はよくわかりました。確かにこんな事件の盗品が見つかれば、いくらあなたでも驚きますね」

「だろ? それに、この盗難事件の狙いは間違いなく『合奏』と『ガリラヤの海の嵐』だ。そのうちの一つが日本にあるというのは、今までの捜査が覆る出来事だ。面白くなってきたと思わないかい?」

「あなたの好きそうな話だとは思います。……ですが、この話は断ってしまったじゃないですか。どうする気ですか?」

「そうなんだよね。今のところは静観するつもりでいるけど、なにかあった時に動く用意はしておきたいんだ。そろそろ、ガードナー美術館の空の額縁を埋めたいというのもあるしね……」



 イザベラ・ガードナーの遺言で新しい作品を補充出来ない美術館は、盗まれた作品が飾ってあったところに空の額縁が置かれている。

 その空しさは、美術品盗難の全てを物語っているのだ。


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