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月をナイフに  作者: 倉永さな
《七》月をナイフに
67/67

09

┿─────────────┿


 本気で怒っていると無言になる琥珀が今、なにも言わずに真珠の前に立っている。

 普段でも琥珀には敵わないというのに、こうなってしまったらもう、真珠はひたすら琥珀の機嫌が直るまで謝り続けるしかない。だから真珠は背筋を伸ばし、琥珀の顔を真っ直ぐ見つめた。琥珀と視線が合った。

 途端、琥珀の表情が緩んだ。


「無事……だった、のか」


 怒っているとばかり思った琥珀だが、どうやら違ったようだ。安堵の声に、真珠は張り詰めていた緊張の糸が切れた。


「こ……は、くぅ」


 我慢に我慢を重ねてきた真珠の涙腺は一気に緩み、堰を切ったかのように両目からあふれ出した。

 その涙を見て、あまり動揺しない琥珀がうろたえているのも知らず、真珠は一直線に抱きついてきた。いつもだったら『ひっつくな!』と腕を伸ばして頭のてっぺんを押さえつけて近づかせないのだが、平静さを失っている現在、真珠のなすままだ。


「琥珀ぅ……こ、怖かったよぉ」


 幼い頃、怖い夢を見たと言ってべそをかきながら起きてきた真珠のように、ぐすぐすと泣きながら抱きついている。

 腕の中にすっぽりと入るのはあの頃と変わらないし、胸の平ら具合も同じだが、明らかに成長している。


「もう琥珀に逢えないかと本気で思った……」


 真珠は泣きじゃくりながら、そんなことを言っている。

 琥珀の両腕は今、真珠に抱きつかれて驚いて上げた恰好のままだ。腕を降ろすべきか、それとも真珠を抱きしめていたわってやるか。

 真珠を抱きしめてしまったら、前の関係にはもう戻れないような気がして、琥珀は戸惑った。


「う……うううぅ」


 真珠は琥珀の胸に顔を埋め、泣いている。真珠の顔がある辺りが冷たいのは、涙のせいだろう。

 とそこで、琥珀は真珠に言ったことを思い出した。


──女を泣かせてはならない。


 琥珀にとって、真珠は特別な人だ。

 珊瑚とはまた違う、大切な人。


──いい加減、自分の気持ちに正直になれよ。


 琥珀の心の奥で、もう一人の自分が囁きかけてくる。


──いつまで格好付けてる気なんだ? 好きな女が泣いてるのに、抱きしめて慰められないなんて、最低だな。


 心の声に琥珀は自嘲の笑みを浮かべた。

 今回の真珠の失踪で、琥珀は自分の気持ちが痛いほど分かったはずだ。

 もう二度と再び、真珠がいなくならないように。この腕の中に、閉じ込めてしまおう。

 女の涙は武器だ。

 真珠の涙を見ていると、どうにも落ち着かない。

 真珠しんじゅは月の涙だという。琥珀にしてみれば、真珠の涙は琥珀の心臓を切り刻むナイフのようなものだ。




「真珠……」


 絞り出すような声の後、真珠の身体をぬくもりが包んだ。

 泣きじゃくっていた真珠だが、少しだけ涙が引っ込んだ。どうしてこんなに暖かいのだろう。

 なにをされているのか、とっさに分からなかった。


「……こ、琥珀?」


 琥珀の名を呼ぶ真珠の声は、うわずっていた。


「おまえがいなくなったと聞いた時、心臓が止まったかと思った」


 はーっというため息とも取れる安堵の声が、真珠の頭上でした。

 目の前には、琥珀が着ているシャツとジャケット。鼻腔をくすぐるのは、琥珀の匂い。

 そこでようやく、真珠は琥珀に抱きしめられていることに気がついた。


「え……あ?」


 どうして今、真珠は琥珀に抱きしめられているのだろう。

 嬉しいんだけど、あの琥珀が真珠を抱きしめているなんて、なにかの間違いに違いない。

 パニックに陥った真珠は、琥珀の腕の中で暴れた。


「うっ、や、こ、琥珀っ? も、もしかしてものすごく怒ってる? あたしが琥珀を待たせたから怒ってる?」


 真珠はさっきまで泣いていたことをすっかり忘れ、琥珀の腕の中でじたばたと暴れるが、琥珀は腕の力を緩める様子はない。


「ああ……怒っている。なにも言わないで突然消えやがって!」

「……へ?」

「どれだけオレが心配したか、おまえは知ってるのかっ?」


 突然、消えた?

 確かに、図書館でアメシストに喚ばれて地球からいなくなったけど……。

 こういうときのお約束として、時間は経ってなかったことになるんじゃあ?


「鞄を残していなくなりやがって!」


 本を読むために確かに床に鞄を置いた。


「失踪するのなら、鞄くらい持っていけ!」


 論点が違うと思いつつ、なんだか琥珀らしい言葉に真珠は笑った。


「笑うな!」

「だって……うん、ごめんなさい。…………」


 どうやら本当の本当に、地球に帰ってこられたようだ。

 真珠はそれが分かり、力んでいた身体から力が抜けた。と同時に、再び涙があふれて来た。


「も……もう、帰れないと思った」


 涙声の真珠を、琥珀は力一杯ぎゅっと抱きしめる。


「黙っていなくならないでくれ」

「……うん」


 いつもは抱きつくことさえ拒否されていたのに、今は琥珀が痛いくらい抱きしめてくれている。


「あたしもね、いきなりどこか知らない世界に喚ばれて……琥珀のところに帰ってこられないかと思ってた」


 真珠は琥珀のぬくもりを感じながら、巻き込まれた出来事を話す。


「真珠、一度しか言わないからよく聞いておけ」

「……うん?」

「おまえが帰ってくるのは、オレの腕の中だ」


 琥珀の言葉に、真珠はなにを言われているのか分からず、またもやパニックに陥った。


「え……あ、う? そ……それって、どういう?」

「……まんまだよ」


 ぶっきらぼうな声に、真珠はようやく琥珀に言われた意味を理解した。

 頬がだらしないほど緩んでいるのが分かった。


「えへへ……。やっぱり琥珀、だーいすきっ」


 それに対する琥珀からの返事はないけど、ずいぶんと進歩したなと真珠は思う。

 真珠は琥珀の体温をもっと感じたくて、ぎゅっと抱きついた。




 しばらくの間、琥珀は真珠を抱きしめていたのだが、どうにも様子がおかしい。


「……真珠?」


 名を呼びかけるが、返事がない。

 腕の力を緩めてそっと顔を見ると……寝ていた。


「…………」


 真珠らしいと言えばそうなのだが、この先のことを思うと色々と思いやられる。


「おい、真珠。起きろっ」


 肩をつかみ揺さぶりをかけると、真珠はうーんとけだるげな声を上げ、ようやく目を覚ました。


「あ……れ?」

「おまえな。どうしてこの状況で眠れるんだっ!」

「だって……琥珀の顔を見たら安心しちゃって」


 安心されている辺り、琥珀はまだ真珠の保護者を抜け出ていないようだ。こぼれそうになるため息を飲み込み、真珠の身体をぐっと押して離れさせた。

 真珠は不満そうな表情を浮かべてまた抱きついてこようとしたが、じろりと睨んだら止まった。


「帰るぞ。珊瑚も待ってるし、おまえがいなくなったと聞いて心配した両親が戻ってきてるぞ」

「え……お父さんとお母さんが?」

「ああ」


 琥珀は机の上に置いていた鞄を手に取ると、真珠に手を差し出した。


「…………?」

「ほら、帰るぞ。繋いでないとまたいつ、いなくなるか分からないからな」


 真珠は泣いてはれぼったくなった顔に笑みを浮かべた。


「ふふっ、琥珀、だーいすきっ」


 真珠は琥珀の手を両手で握った。


『ああ……これが人を愛するという温かさなのか』


 それまでずっと静かだったラーツィ・マギエの声が中から聞こえた。


「うん、そうだよ!」


 真珠の返事に、琥珀は首を傾げる。


「……真珠?」


 琥珀の疑問の声に、真珠はなんでもないと首を振った。


「それより琥珀、早く帰ろっ」


 真珠は琥珀の手をしっかりと握り、学校を後にした。


《おわり》

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