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友情と胃酸の物語

ゲロスは激怒した。


必ず、かの邪智暴虐のアルコールを除かなければならぬと決意した。


ゲロスには酒の知識がない。


ゲロスは村の牧人である。


しかし酒席に対しては、人一倍敏感であった。


昨夜、親友セリヌンティウスと居酒屋へ入り、軽く一杯だけのつもりであった。


その後の記憶がない。


気がつけば、見知らぬ路地裏に寝転がっていた。


朝日が容赦なく眼球を焼いている。


頭が痛い。


いや、痛いという表現では足りない。


脳味噌の代わりに工事現場が入っているようだった。


胃も痛い。


喉も痛い。


全身が痛い。


「……うっ」


その瞬間、口の中に嫌な唾液が溢れた。


人類が太古より受け継いできた警報である。


ゲロスは本能的に側溝へ身を乗り出した。


次の瞬間。


「ォェエエエエエエエッ!!」


朝の静寂を切り裂く咆哮。


第一ゲロであった。


胃液が喉を焼いた。


涙と鼻水が止まらなかった。


しかしそのとき、ゲロスは思い出した。


セリヌンティウス。


あいつを忘れていた。


今日の正午までに戻らねばならない。


戻らなければ、あいつの人生が終わる。


ゲロスは震える脚で立ち上がった。


そして再び、


「ォェエエエエッ!!」


第二ゲロを吐いた。


走らねばならぬ。


走らねばならぬ。


ゲロスはそう思った。


思っただけで、三歩進んだところで膝をついた。


胃袋が内側から反乱を起こしていた。


昨夜摂取したアルコールたちが、「俺が先だ」「いや俺だ」と出口を求めて暴れているのである。


「セリヌンティウス……待っていろ……」


ゲロスは親友の名を呟いた。


その瞬間。


「ォェエエエエエッ!!」


第三ゲロであった。


もはや吐く物など残っていないはずだった。


だが人体は不思議である。


無いと思っていたものが、まだ出る。


胃液が出る。


胆汁が出る。


尊厳が出る。


ゲロスはしばらく地面を見つめた。


見つめながら、自分の人生について考えた。


なぜ昨日、「もう一軒だけ」という言葉を信じたのか。


なぜテキーラの後にレモンサワーを飲んだのか。


なぜその後にハイボールへ移行したのか。


なぜ最後に謎の青いカクテルを注文したのか。


人類は同じ過ちを繰り返す。


ゲロスもまた、人類であった。


やがて彼は立ち上がった。


時間がない。


太陽は既に高い。


正午は近い。


ゲロスは再び走り始めた。


だが走るという行為は、現在の彼にとって拷問であった。


身体が上下に揺れるたびに胃袋も上下に揺れる。


胃袋が上下に揺れるたびに内容物が逆流する。


逆流するたびに脳が「吐け」と命令する。


つまり走ることは、吐く準備運動だった。


「お、おのれアルコール……」


ゲロスは呪った。


昨夜の自分を呪った。


そして居酒屋の飲み放題プランを呪った。


そのときである。


彼の前方に自動販売機が見えた。


救世主であった。


ゲロスは吸い寄せられるように駆け寄った。


財布を取り出す。


震える指で硬貨を投入する。


スポーツドリンクを購入する。


冷たい缶を握った瞬間、涙が出た。


人は本当に苦しいとき、水に感謝する。


ゲロスは缶を開けた。


一口飲んだ。


二口飲んだ。


三口目を飲もうとした。


その瞬間。


胃袋が全力で拒否した。


「ォェエエエエエエエエエエッ!!」


第四ゲロであった。


飲んだスポーツドリンクは滞在時間わずか三秒で外界へ帰還した。


しかも勢いが良かった。


偶然通りかかった鳩の群れが驚いて飛び立った。


小学生が悲鳴を上げた。


サラリーマンが遠回りした。


ゲロスは世界に謝罪したかった。


しかし吐くのに忙しかった。


「もう……無理ではないか……」


ゲロスは呟いた。


足が震えている。


頭が回らない。


喉は砂漠である。


胃袋は革命中である。


視界の端が暗くなり始めていた。


そのとき。


ポケットの中で何かが指に触れた。


フリスクである。


昨夜コンビニで買ったものだった。


ゲロスは震える手で取り出した。


一粒を口へ放り込む。


清涼感が広がった。


ミントの刺激が脳を突き刺した。


その瞬間だけ。


ほんの一瞬だけ。


意識が晴れた。


セリヌンティウスの顔が浮かんだ。


あの男は信じている。


今もきっと信じている。


「ゲロスは来る」


そう信じて待っている。


それなのに。


それなのに自分は何を考えていた。


「セリヌンティウスが悪い」


「酒が悪い」


「社会が悪い」


違う。


全部、自分で飲んだのである。


ゲロスは立ち上がった。


顔色は死人であった。


服は胃液まみれであった。


だが目だけは燃えていた。


「待っていろ……セリヌンティウス……」


そして彼は走った。


人として何か大切なものを失いながら。


だが友情だけは失うまいと。


第五ゲロを吐きながら。


第五ゲロの余韻を引きずりながら、ゲロスは走った。


もはや走るというより、酔っ払いが重力に負けながら前進しているだけであった。


だが前へ進んでいた。


少なくとも本人はそう信じていた。


そのとき。


「お客様、大丈夫ですか!?」


背後から声がした。


振り向くと、コンビニの店員がいた。


ゲロスは気付かなかったが、先ほどの第五ゲロは見事に店の駐車場で炸裂していたのである。


店員の顔は心配と後悔が半々だった。


声を掛けるべきではなかったかもしれないという後悔である。


「だ、大丈夫だ……私は急いでいる……」


ゲロスは答えた。


しかし説得力はなかった。


顔色は灰色。


目は充血。


服は胃液でまだら模様。


口元には正体不明の液体。


誰がどう見ても大丈夫ではない。


「救急車呼びます?」


「いらぬ!」


ゲロスは叫んだ。


その勢いで軽くえずいた。


「おえっ」


店員が一歩下がった。


ゲロスは再び走った。


正午まで残り時間は少ない。


止まるわけにはいかない。


そのとき。


前方に二人の警官が見えた。


嫌な予感がした。


そして嫌な予感は大抵当たる。


「ちょっと君」


声を掛けられた。


ゲロスの心拍数が跳ね上がる。


「どうしました?」


「いや、どうしましたはこっちの台詞なんだけど」


もっともな意見であった。


警官の一人が手帳を取り出した。


「顔色悪いし、ふらついてるし、服もすごいことになってるし……」


「急いでいるのだ!」


「飲酒運転とかじゃないよね?」


「徒歩だ!」


「それは見れば分かる」


警官は困惑していた。


ゲロスも困惑していた。


全員困惑していた。


説明している時間はない。


ゲロスは決断した。


走る。


ただ走る。


「すまぬ!」


そう叫び、駆け出した。


警官たちは追わなかった。


追う価値がある人物に見えなかったからである。


ゲロスは勝利した。


社会的信用を代償に。


しばらくして。


ゲロスは橋の上に立っていた。


川が見える。


美しい景色だった。


本来なら。


だが現在の彼には違った。


揺れて見えた。


橋も揺れている。


川も揺れている。


空も揺れている。


自分も揺れている。


「世界とは……こんなにも回転していたのか……」


違う。


回っているのは脳内である。


ゲロスは欄干にもたれた。


そして遠い目をした。


そのとき。


脳裏に悪魔が囁いた。


――もう諦めろ。


――セリヌンティウスも大人だ。


――自己責任だ。


――むしろ今のお前が倒れたら二次災害だ。


――誰も責めない。


ゲロスは目を閉じた。


魅力的な提案だった。


非常に魅力的だった。


ここで寝転がれば楽になれる。


吐かなくて済む。


苦しまなくて済む。


誰だってそうする。


俺だってそうする。


しかし。


その瞬間。


スマホが震えた。


メッセージだった。


送信者はセリヌンティウス。


震える指で開く。


そこには短い一文だけが表示されていた。


『信じてる』


ゲロスは固まった。


続いて画像が送られてきた。


セリヌンティウスの自撮りだった。


顔色が終わっていた。


目が死んでいた。


そして背景には大量の吐瀉物処理用バケツが写っていた。


どうやら向こうも無事ではないらしい。


さらにメッセージが届く。


『昨日の酒、やばかったな』


『さっき三回吐いた』


『でもお前なら来ると思ってる』


ゲロスは天を仰いだ。


友情とは何だろう。


もしかすると。


こんな馬鹿な男同士の信頼こそが友情なのかもしれない。


ゲロスの胸に熱いものが込み上げた。


感動だった。


そして同時に。


胃液だった。


「ォェエエエエエエエエエエエッ!!」


第六ゲロであった。


橋の下の魚たちが迷惑そうに逃げた。


だがゲロスは立ち上がった。


もう迷いはない。


友情のため。


約束のため。


そして何より。


ここまで吐いたのだから今さら引き返したくなかった。


人は時に意地だけで走れる。


ゲロスは再び走り出した。


約束の地は近い。


胃袋の寿命は近い。


そして運命の時もまた近づいていたのである。


約束の地は近かった。


ゲロスにも分かった。


なぜなら目的地の時計塔が見えたからである。


そして同時に、自分の寿命も見えている気がした。


足は棒になっていた。


胃袋はとっくに職務放棄していた。


頭痛はもはや日常風景となっていた。


人間は慣れる生き物である。


慣れてはいけないものにも慣れる。


ゲロスは走った。


いや、もはや転倒と前進の中間だった。


転びそうになりながら前へ進む。


その姿は英雄というより、ゾンビ映画終盤の感染者に近かった。


通行人が避ける。


犬が吠える。


鳩が逃げる。


カラスが様子を見ている。


自然界全体が警戒していた。


だが止まらぬ。


止まれば終わる。


そのときだった。


視界の先に広場が見えた。


約束の場所。


そしてその中央に。


セリヌンティウスがいた。


縄で縛られていた。


正確には縛られているというより、ベンチに座りながらバケツを抱えていた。


顔色は土色だった。


明らかに彼も昨夜の被害者であった。


ゲロスは叫んだ。


「セリヌンティウスーーッ!」


セリヌンティウスが顔を上げた。


「ゲロスーーッ!」


二人の目が合った。


友情が通じ合った。


周囲の人々は感動した。


なんだかよく分からないが感動した。


時計塔の鐘が鳴った。


正午である。


ギリギリだった。


本当にギリギリだった。


あと三十秒遅ければ終わっていた。


ゲロスは最後の力を振り絞った。


走る。


走る。


走る。


肺が燃える。


脚が悲鳴を上げる。


胃が何かを企んでいる。


だが構わない。


今は友情だけを見ろ。


セリヌンティウスも立ち上がった。


ふらつきながら腕を広げる。


「ゲロス!」


「セリヌンティウス!」


二人は互いに駆け寄った。


感動の再会。


友情の勝利。


信頼の証明。


人間の尊さ。


その全てが結実する瞬間だった。


ゲロスは親友へ飛びついた。


強く抱きしめた。


セリヌンティウスも抱き返した。


そして。


全ての筋肉が弛緩した。


それは本当に一瞬の出来事だった。


安心。


達成感。


解放。


その三つが同時に訪れた結果。


ゲロスの胃袋は、「任務完了」と判断したのである。


口の中に唾液が溢れた。


ゲロスは理解した。


遅かった。


「待――」


言い終わる前だった。


「ォェエエエエエエエエエエエエエエエエエッ!!!」


この日最大。


この日最長。


そしてこの日最後の噴火であった。


重力。


慣性。


友情。


それらすべての力が合わさり。


ゲロスの胃の内容物は一切の迷いなくセリヌンティウスの胸元へと叩き込まれた。


静寂。


広場全体が静まり返った。


鳩も黙った。


犬も黙った。


風さえ止まった気がした。


セリヌンティウスは動かなかった。


いや、動けなかった。


服から液体が滴っていた。


ぽた。


ぽた。


ぽた。


ゲロスも固まっていた。


数秒後。


セリヌンティウスはゆっくりと口を開いた。


「……ゲロス」


「……すまぬ」


「ゲロス」


「本当にすまぬ」


「友情って何だ」


その問いに答えられる者は誰もいなかった。


ゲロスにも。


セリヌンティウスにも。


周囲の人々にも。


やがてセリヌンティウスは小さく笑った。


乾いた笑いだった。


そして。


「おえっ」


吐いた。


友情の連鎖反応である。


セリヌンティウスはゲロスの肩へ吐いた。


ゲロスもつられて吐いた。


再びセリヌンティウスが吐いた。


地獄だった。


こうして二人は抱き合いながら吐き続けた。


その姿は人類愛の象徴にも見えたし、見間違いでなければ保健所案件にも見えた。


後に人々は語る。


あの日、確かに友情は勝利した。


しかし衛生環境は敗北した、と。


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