表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/4

微笑もうと思ったわけじゃない。

 気がついたら、私は二村君に対して微笑んでいたのだ。……何かが私をそうさせたのかもしれない。

 私の言葉を聞いた瞬間、二村君の体が少しだけ――震えたような気がした。

 それは、本当は気のせいだったのかもしれない。私が目を細めようとした時には、目の前の二村君は先程までと同じように、いや、それ以上の怒りを堪えた表情をしていたからだ。

 ぐいっと、思い切り肩を捕まれて引っ張られる。そのまま正面で向き合うかたちになり、私は近くなった二村君の顔を見る為に顔を斜め上へ向けた。

「いつの間に外部受験することにしてたんだよ…ッ?」

 怒りに震える声。

 そして真剣な眼差しが私へと向けられる。

 私は目を細めるようにしてにっこりと微笑んだまま、声に強弱をつけずに普通に答えた。

「夏休み頃から、かな。正直のところ迷ってたから決めたっていう事なら最近になるのかもしれない」

「なんだよ、それ……っ」

「お母さん達にね、一緒に実家で暮らさないかって言われてるの。中学は私の我侭で上京しちゃったから、高校はって思って。…地元にも高校なら名門校はあるし」

「………ッ!!」

 何かを叫ぶように二村君の口が開かれたが、その言葉は唾とともに飲み込まれて彼は何も言わなかった。私の肩を掴む両手に力を更にいれて、私からその表情を隠すようにして俯いた。

 俯いた二村君の頭がちょうど私の目線と同じ高さにある。

 私は動こうとしない二村君をじっと見つめていた。

 風がそよそよと弱く吹き、二村君の髪が風に靡く。

(……相変わらずさらさらした髪なんだなぁ…)

 などと、全く関係ない事を思いながら私は彼が何かを言おうとするのを待った。

 しばらくして、二村君は俯いたままでぽつりと声を出す。

「……何で一言も言わなかった…?」

「私自身、迷っていたから決まってから言えばいいかなって思ってたし。そもそも別に二村君に報告しなきゃいけないってことはないじゃない」

「……俺は…お前の何だ…?」

「……恋人だよね? 一年の時に付き合い始めてからお別れの言葉をもらった覚えはないし」

「じゃあ…ッ!!」

 勢いをつけるようにして二村君が顔を上げる。

 言葉にはならなかったが、その瞳がその言葉の代弁をしていた。

 私は視線を逸らすことなく彼のその強い眼差しを見つめる。そのままゆっくりと目を細めて、彼の姿を視界から追い出すようにして。

 私は――冷たく笑いながら告げた。


「私、二村君にとっては都合のいい女なんでしょう? だったら何もかもあなたに言う必要なんてこれっぽっちもないもの」


 と。

 最後の一振りを振り翳したのは私だった。今までのど許に、心に引っかかっていたものがするりと抜けるかのように、それは私の口から綺麗に滑り落ちていた。

「な……」

 二村君の声がかすれる。

 彼は、私を信じられないという表情で見つめていた。

 彼の手の力が緩み、私はそれを見てするりと彼の手から逃れた。

 静かに、二村君を一瞥する。

 私の心の中のどこかで、そんな彼と今の私を笑っている声が響き渡っていた。嘲笑うかのように、妖艶で気味の悪い笑みだ。

「別に私のことは気にせず振ってくれてもよかったのに。他の女の子達にだって、二村君にだって迷惑だったんでしょ? 私が唯の友達だから振れなかったんだよね」

 一歩、私は二村君に向かって足を踏み出す。

「ああ、でも今は私と付き合っているってことにしてて、女の子達よけにしてるみたいだから別れるってわけにもいかないんだっけ」

 また一歩、足を踏み出して二村君の真横に私は並ぶ。

「ごめんね、色々と気を遣わせちゃったみたいで。私、鈍いからそれに気がつかなくって。もう私になんか気を遣わなくってもいいから、二村君の好きにしていいん……」

 だよ――と、言葉を続けようとし、


 パン…ッ!


 響き渡った高い音によって私のその言葉は音を発さなかった。

 そこにいた誰かが、息を飲み込んだ音が聞こえた。おそらくは唯あたりなのだろう。

 私は表情一つ変えず、濡れたハンカチを持つ方とは逆の手で頬に触れた。

 …痛い。

 ………痛い――ような気がする。

 少し先に見える唯と澤田君の表情が、そしていつの間にか離れた位置に立っている城本君の瞳が驚愕に大きく見開かれていた。

 自分以外の人の反応を見て、他人事のように今起こったことを理解した。

(………二村君に叩かれた…)

 思い返せば、後輩の鈴木君に冗談半分で叩いたり、気に入らない男子生徒に暴力をふるうことは少々あったものの、二村君は女子には手を出さない人だった。それがどんなに酷い人であれ、女子には手を出さない。強いて言うならば、フェミニスト。私の知る二村君はそういった人だった。

 そんな彼が私を叩いた。

 これは、一体どういう事を意味するのだろうか。

 頭の中でそんなことを考えながらも、私は表情一つかえずに彼をじっと見つめていた。

「………これがお別れの言葉の代わり?」

 淡々と、私は彼に尋ねる。

「―――――ッ!!」

 二村君は、言葉を飲み込み自分の唇を噛み締めた。今にも血が出そうなくらいにぎりぎりと、小さな悲鳴をあげながら。

「ああ、そうだよ…ッ!」

 吐き捨てるように言うと、二村君は私の体を弾き飛ばすようにしてその場から走り去った。

 去り際に見せた二村君の顔が、苦渋に歪められていたように見えた。

 吐き捨てたその言葉に寂しさが滲んでいるようで。

 自分の感情を押し殺し、強がるようにして走り去ってしまった二村君のその後ろ姿を、私は見えなくなってからもしばらく見つめ続けていた。

 そして一度だけ、静かに瞼を閉じる。

 その瞼をゆっくりと開いた時、いつの間にか唯が私の目の前に歩み出ていた。

「………」

「………」

 無言のまま、お互いを見つめ合う。

 唯は、怒っていた。

 二村君のように怒りを堪えるようなことはしない。その瞳に怒りの色を浮かべて、彼女もまた―――私を思い切り叩いた。二村君が叩いた方とは逆の頬を。

「おかしいよ、穂香は! 何考えてるのかさっぱり分かんない…っ!! なんで私にまで外部受験のこと黙ってたのよ! 私達……親友じゃなかったの…!?」

 いつもの私だったら、彼女が満足するだけの言葉を返せれたのだろう。

 でも、今の私は―――既に壊れてしまっていた。

 次から次へと私の身に降りかかる出来事に、辛うじて残っていた心の欠片は砕け散り、底なし沼のような暗闇へと散ってしまった後だったのだ。

 もう……――私が私でいられる為の心は何処にも存在していなかった。

 くすり、と小さく笑みを零す。

「…親友だからって、話せることと話せないことはあるもの。それに別に隠そうと思ってたわけじゃないわ。ちゃんと話そうと思ってたもの、私」

 自嘲気味に、私は唯に向かって微笑んだ。

 かぁぁっ、と唯の顔が赤らむ。

 そしてまた、私は彼女に叩かれていた。

「こんなに心配してるのに…、なんで穂香は分かんないのよ…! どうせ外部受験だって、二村君から逃げる為にそうしようって思ったんでしょう!!」

 感情を爆発させて、唯は叫んだ。

 その言葉に思わず私は息を飲み込むものの、口から零れた言葉は「心外だわ」という冷たい言葉だった。

 ――三度目。

 唯は私の頬を更に叩き、二村君同様その場から走り去って行った。

「………」

 私は唯の後ろ姿は見つめなかった。

 そのまま視線を逸らし、そこにまだ残っていた澤田君を見遣る。

「………」

「………」

 彼は、唯とは違って何も言わなかった。

 ただ――静かに見つめる。

 罪人の罪を審判する者のように、鋭い眼差しで私を見つめていた。今、目の前で起こった出来事に驚きは隠せなかっただろうが、彼はその全てを静かに見ていたに違いないと私は何となくだがそう思えた。

 見つめられ、見つめて。

 そして澤田君もまた静かに私の前から走り去る。

 その場に残ったのは、初めからそこにいた私と城本君の二人になっていた。

 二村君とやり取りを交わす間、距離をとるようにして離れていた彼は、ゆっくりとした足取りで私の傍へと近寄ると、私の頬を見て顔を歪めた。

「……顔、腫れてますね…」

 と、それだけを言うと、私が手に持っていた彼のハンカチをそっと奪い取り、もう一度水に濡らして冷やしてからそれを私の頬へと当てた。

 冷たい水の感触を受けて、忘れていた頬の痛みがぶり返す。

 城本君は、今さっきの出来事について何も言わなかった。ただ、優しく私の頬の腫れだけを心配してくれている。

 痛い。

 ……頬が、痛い。

 …………心が――痛い。

 それでも私の瞳からは涙は零れなかった。

「…………」

 私は、私の頬をハンカチで冷やしてくれる城本君の手に、そっと自分の手を添えた。目を伏せながら左右にゆっくりと首を振ってみせ、彼の手からハンカチを受け取り自分で自分の頬にそのハンカチを当てる。

 城本君は、静かに私を見つめていた。

 その瞳はどこか寂しそうで。

「……どうして城本君がそんなに悲しい顔をするの?」

 私は彼にそう尋ねた。

「………から…」

 囁くように、城本君は言う。

「…………南野先輩が悲しんでいるから…」

 びくっと私の体が震えた。

 城本君はそんな私の様子を見て見ぬ振りをし、私と一度だけ瞳を合わせてから静かに校舎へと戻っていった。

 今度こそ本当に私一人だけが裏庭に残されて。

「………私は…別に悲しいだなんて思っていない……」

 一人、呟いた。

 涙も零れない。

 表情一つ、かえることはない。

 張り付いたようにして私の顔には感情のない表情がそこにある。それはさながら人形のように――。

 祈りは、どこにも届かなかった。

 頬の痛みも、徐々に感じなくなる。

 ことっ、と。

 ゼンマイの切れたカラクリ人形のように、私の体はその場に崩れ落ちた。

 本鈴のチャイムが鳴り響く。

 何処かの教室で、「起立」という掛け声がかけられているのを遥か遠くで耳にとらえながら、この日、私は初めて授業をサボった。

 一応優等生で通ってきている私にとって、授業をサボるという行為は最低の行為だと思っていたものの、いざサボることになるとそれは何でもないことのように思えて。

(……後で誰かにノート見せてもらわなきゃ…)

 それでもまだ授業にしがみ付こうとしている自分の考えに、自嘲地味に笑ってみせた。




 一に勉強二に勉強。三、四ととんで五に勉強。

 それからの私の毎日はその言葉の通りに過ぎていった。暇な時間があれば問題集や教科書に目を通し、睡眠時間を削って勉強時間に費やした。一日に三時間程しか寝ない日も珍しくないというくらいに。

 二村君とはあれ以来話してはいない。視線すら合わしていない。後期になった十月で班も分かれてしまえば席も離れてしまったので挨拶をすることさえなくなっていた。そして唯とも澤田君とも話していない。擦れ違う時に挨拶はするものの、彼女達の方から視線を逸らされてしまっていた。

 そんな私達を見かねて他の友達が心配してきたのだが、それに答えることもできずに口を濁すことしかできなかった。給食は仲良しグループでとっている為に、唯とも必然的に一緒になるのだが彼女が私と一緒にいることを拒んだので、私は毎日毎日給食を急いで半分ほど食べて、残りの半分はお腹がいっぱいで食べれないと言い訳して残し、即行で教室から立ち去って、昼休み中は図書室やら職員室で過ごすようにした。

 十二月になると外部受験者だけの特別授業が始まり、授業の半数程を皆とは別に受けるようになった。うちのクラスの外部受験者は私を含めて二人で、学年全部を合わせても一クラス分にも満たずに、しかしそれでも外部受験者で一クラスと扱うような時が増えてきて。必然的に私は自分のクラスから浮いた存在となり、気がつけばクラスメイトは勿論のこと、友達とすらろくに話さなくなっていた。もともとクラスの表立った集団に混じっていたわけではないのでクラスの一員としても目立たなかったわけで、今となっては裏の集団からも孤立した状態に陥っていた。

 正直のところ、初めは孤立した自分の存在が酷く悲しく思えていた。しかし今、自分がどうすればいいのかも分からず、ただひたすらに勉強だけを求め続けていくうちにそれもまた気にならなくなってしまっていた。

 そのおかげか、十二月に行った二学期の期末テストでは初めて学年一位をとるという結果になり、先生方は皆揃って「頑張ったな」と、私を褒め称えた。褒められるということは喜ばしいことで、またいつもは学年で五番から十番の間を行き来していた私がはじめて一位を獲得したというのもまた自分で自分を褒め称えたいことだった。――でも、私はそれを嬉しいとは思えなかった。

 月日は流れ、冬休みも過ぎて三学期が始まる。

 普通の中学三年生ならば受験色一色であろうその時期だが、ここ星ヶ丘中学の三年生からは全く受験色は見られなくなっていた。残すところあと一学期ともなれば、ほぼ全員の生徒が内定をもらうに至っていたからだ。今の時期、内定がまだの者は余程成績が悪い者か素行が悪いとされている者くらいだろう。その一部の生徒と、外部受験をする者達だけが必死になって机にかじりついていて、他の三年生は暇を見ては後輩のいる部活に顔を出しに行くほどだった。夏以降、部活から離れて体が部活をしたいと疼いていたのだろう。少し前までは幾分か静かだった放課後のグランドからは一時の間であれ賑わいが夏前の状態へと戻っていた。

 私はそんなグランドの位置風景を教室の窓から眺め、何だか彼らは私とは壁一枚向こうの世界に住んでいるように見えていた。

 一月の入試は推薦入試である。

 内申書と面接、小論文を用いてのその試験を受ける者もちょこちょこと見うけられた。名門校の星ヶ丘中学というだけあり、推薦入試で他の学校に入学――この場合は編入というのが正しいのかもしれない。――するのも容易だったからだ。

 先生は私にも推薦入試を勧めた。

 多分、その推薦入試を受けていれば私の合格はより確実なものになっていたことだろう。たとえ推薦入試を受けて落ちたとしても、一般入試の時に推薦入試だったということで優位になるからだ。

 でも、私はそれを断った。

 自力で筆記試験を受けて合格したいのだと先生を納得させ、私は一般入試にのぞむことにした。

 公立、国立高校の一般入試は三月で卒業式より後に行われる。

 が、私が受験しようとしている高校は私立高校。一般入試は二月の中旬だった。

 公立などと違って県内でまとめて同じテストを用いるわけではなく、学校ごとに異なるテストが用いられる。その為に学校ごとに受験日もまばらだ。幾つも受ける人の為にそう組み込まれているのかもしれない。

 私の入試日は二月十二日。

 平日なので授業は普通に行われる。遠方の実家近くということもあり、私は一日前から入試の為に公欠扱いで学校を休む予定だった。




「いよいよだな」

 放課後、職員室に呼ばれて資料を受け取りながら確認して、私は担任の先生にそう言われた。何故か実際に入試を受ける私よりも先生の方が鼻息荒く意気込んでいる。しかし先生はまだ諦めていなかったようで、昨日の昨日まで私に「外部受験を止める気があれば今でもいいから言えよ」と言っていた。それほどまでに優秀な生徒を手放したくないという学校の意志からなのか、それとも先生に実は私が気に入られているからなのかは定かではない。今日、その言葉を私に言わないのは、さすがにこれから試験を受けに旅立つ私には不謹慎だと思ってくれているのかもしれない。

「…自分のできる限りで頑張ってきます」

 今まで熱心に私に勉強を教えてくれていた事に心から感謝し、それを無駄にしないようにと私の意気込みを伝えた。ここでにっこりと笑えばもっとその気持ちを伝えられたのかもしれないが、最近の私は笑うという事ができなくなっていたので無理だった。

「……まあ、頑張れよ。いつも通りの力を発揮できれば合格は間違いなしだ」

「いざ試験になると物怖じしてしまうんですけどね」

「はははっ、そりゃそうだ。なんせ受験は一大イベントだからなぁ…。三年前が懐かしいだろ?」

 約三年前、私はこの星ヶ丘中学に入学を希望して受験にのぞんだ。

 その時の事を思い出し、あの時はこうだった…と少しだけ振り返ってみた。

 しかし回想もそこそこに、私は「それでは」と挨拶をして寮へと早く戻ろうとした。明日、試験の為に実家へと戻ることになっている。試験は明後日なので急ぐことはないのだが、午前出発予定の電車に乗る予定になっているので今日のうちにその準備をしなければならない。

 足早に職員室から立ち去ろうとした私に、先生は後ろから声を掛けた。

「……南野」

「…はい?」

「………最近お前の顔色が優れないからな。体調だけは万全にして試験にのぞめよ」

「…………はい、ありがとうございます」

 ぺこり、と離れた位置から先生に向かって頭を下げる。そして今度こそ本当に職員室を後にした。

 そして歩きながら、まさか先生にそんな事を心配されるとは思わなかったと考える。

 最近は入試が間近に迫ってきているということで、今までにも増して根詰て勉強に力を入れていた。辛うじてとっていた睡眠時間すら削ってしまうほどに。その為にここずっと、体調が思わしくなかったのは確かで。先生に心配されるという事はよっぽど私の顔色が悪かったということなのだろう。

 体調は悪いと感じていても、狂ったように、何かに取り付かれたかのようにして勉強せざるをえなかった。勉強するという行為をしていないと、私という存在がなくなってしまうように思えたからだ。

 今の私には勉強が全て。

 私から勉強をとってしまったら何も残らなくなってしまう。

 ……いや、そうではない。

 今、私は勉強をするようにつくられた人形そのものだったのだ。

 感情をなくし、交友関係もなくして私に残ったのは勉強だけで。

 勉強をするという事だけが、心の壊れた私に残された術なのだから。

(…今日と明日はゆっくり寝ようかな……)

 さすがに入試当日に体調崩すというのは避けなければならないし、まして当日に睡眠不足で居眠りしてしまうなんてもってのほかだ。

 その為にも早く荷物の整理をしなければならないな、と更に足を速める。

 と、その時。

何故か私の耳には笛の音が聞こえて。

 ………気がつけば、遠回りと分かっていながらも、サッカー部のグランド横を通る道を選んでいた。

 笛の音に惹かれたのか、それとも私の心に何かが引っかかっているからなのか。

 もし万が一という事があれば後悔することは分かっていたが、私の足はそちらへと向かっていた。

 掛け声がグランドに響く。

 土煙が広がり、時折吹き付ける風が冷たい空気と共にその土煙をさらに遠くへと運ぶ。

 私が感じている冬特有の寒さは、今グランドで縦横無尽に走り回っているサッカー部の人達からは切り離されているに違いない。今、グランド内は別の空間の如く、熱気が漂っているからだ。

 誰もが真剣な顔で黒と白のそれを追いかける。

 監督の罵声に対し、生徒の誰かが「すみません!」と息切れしながらも大きな声で言葉を返していた。

 そのグランドにいたのは一年と二年だけで三年生の姿は一人として見られなかった。私の心配は杞憂に終わり、少しだけ胸を撫で下ろす。

 安心して少し余裕ができたのか、急ごうとしていた考えを頭の片隅に消し去って、私は半ばぼーっとしながらフェンス越しに彼らサッカー部員の姿を見つめた。

 体を動かしている彼らとは違い、何もせずに見ているだけの私はとにかく寒かった。徐々に体温が奪い取られ、手の先から冷えていくのが分かった。それでも首に巻いているマフラーに少し顔を埋めるだけで、建物の中に入るという事はしなかった。

 顔が、冷たくなる。

 きっと今の私の顔はばかみたいに赤くなっていることだろう。既に鼻の感覚がなくなってきている。

 ずずっと、何度も何度も鼻を啜る。

 何回も続けていると、勝手に鼻水が零れそうになる自分の鼻にむかつきを覚え始め、私は渋々とコートのポケットからハンカチを取り出して鼻に当てた。ハンカチは冷たく、気休めにしかならないが、外気が直に当たらないようにはしてくれるのでないよりはマシだろう。ただ、マスクとは違うので自分の手で抑えていなければならないのが難点ではあったが。

 はぁっと大きく息を吐き出す。

 ハンカチによって外へと広がるのが遮られた為、私の口の周りに暖かく奇妙な空気が充満し、新鮮な空気を取り入れるようにハンカチをそっと鼻から離した。

 もう一度、大きく息を吐き出す。

 外気に冷やされたその空気は、白い息となってすぐに消えていった。つーんとした冷たい空気が鼻に届き、思わず顰めっ面をして口を閉ざす。

 ちょうど私がフェンス越しに見るグランドから視線を外したその時、一段を大きな音で笛が鳴らされた。

 ばらばらに広がっていた部員達が一斉に監督の元へと集まる。どうやら本日の練習は終了するようだ。傍にある柱の時計で時間を見れば、そろそろ下校時刻という時間になっていた。どうやら自分は一時間以上も寒い冬空の下でサッカーを眺めていたらしい。

 自分で自分に、何をやっているのやらと呆れ眼に溜息をついたその時、聞き覚えのある、それでいて久しい人の声が届いた。

「南野先輩じゃないですかー!!」

 辺り一体に聞こえるような大きな声で。

 彼――鈴木君は遠く離れた場所から私の方へと向かってすごい速さで走って来た。それはもう、餌を目前に食らいつこうとする嬉々とした犬のように。

(…あ、しまった……)

 そう思うものの、もう遅い。

 今から逃げようとしたところで、鈴木君から逃げることは不可能だった。

 横目で、向かってくる鈴木君以外を見れば、今から片付けや柔軟をしようとしていた他の部員達が私の方へと視線をちらりちらりと向けている。一体私がどうしてここにいるのかが気になっているものの、表立って視線を向けるのは躊躇っているというところか。どうやら鈴木君の足を止めてくれる人は誰一人としていないらしい。

 心の中で、人知れず大きな溜息を零す。

 気がつけば、鈴木君はフェンスを挟んですぐ傍に来てしまっていた。フェンスがなければ抱きつかれていたかもしれないと思うのは私の自惚れではあるまい。彼は見知った人ならば誰であろうと――特に女子――抱きつく癖があるのだ。

「お久しぶりっス! 俺の活躍を見ててくれたんっスか?」

 がしっと両手でフェンスを掴みながら、鈴木君は目をらんらんと輝かせる。そんな彼の後ろに思い切り振られている犬の尻尾が見えるようだ。

 直感的に、目の前の鈴木君が求めているものが分かり、

「……ごめんね。今日は別に差し入れはないの」

 顔を左右に軽く振って断りを入れる。

 すると思い切り、がくぅっと項垂れて鈴木君は「そんなー…」と弱々しい言葉をはいた。そして泣くような素振りなのか、片腕で目元を拭いながら言葉を続ける。

「ううう…っ、南野先輩、三年生になってから差し入れくれなくなったから久々の差し入れに期待したのに……」

 鈴木君のその言葉に、少しだけ引っかかりを覚えながらもそれを敢えて気にしないようにして――もともと鈴木君が何かの深い意図を含めてそう言っているはずがない。――もう一度謝る。

「……ごめんなさい。今度時間があったら何か作って持ってくるね」

 俯いてしまった彼の顔を覗き込むように、私もフェンスに近寄りそこに手を掛けた。

 私がそう告げると、鈴木君は今までの落ち込みようはどこにいったのかというくらいに目を輝かせて体中から喜びオーラを発し、フェンスごと私の手を力強く掴んだかと思えば、満面の笑みを浮かべた。

「それじゃあ俺、バレンタインのチョコが欲しいっス!! 南野先輩の作るお菓子って美味しいし! あ、去年はトリュフとかだったんで今年はケーキ希望!! ケーキって買いに行く機会とかないからなかなか食べないんスよねー。別に女の子達みたいにケーキ大好きってわけじゃないけど美味しいことにはかわりないし」

「え……あの、鈴木君……?」

 一気に捲し立てられて、思わず一歩後ろへと下がろうとするものの手をがっしりと捕まれている為にそうすることができない。反論しようにも目の前に笑顔を見せ付けられると何も言えなくなってしまう。もともと自分は大人しい性分なので、相手に押せ押せ体勢でこられると毎回のように言いくるめられてしまうのだ。

「…あ、でも今年のバレンタインは私、寮にはいない…し………」

「大丈夫っス! 前の日でもOKなんで♪」

「いや……その…、あの…ね……」

 しどろもどろに何か言おうとしても彼の嬉しげな言葉の前に完膚なきまでに叩きのめされてしまう。

(……どうしよう…)

 どうしてこんな事になってしまうのかと後悔の渦に飲まれる。

 頭を抱えたい気分でいっぱいになり、視線を彷徨わせて俯いたその時、ガンッ、という大きな音が私の耳に聞こえた。

 何事、と思って顔を上げると同時に私の手を掴んでいた鈴木君の手の力が緩んで外される。私の頭一つ分ほど上にあった鈴木君の顔が、今はそこにはなくて。ゆっくりと視線を下に向ければ頭を抱えて蹲っていた。聞こえるか聞こえないか分からないほどの小さな声で何やらうめいていて。

 ぽかんとしながらそんな鈴木君を見つめていた私の視界に、誰かのスパイクシューズが入ってきた。

 再び顔を上げれば、スコアブックらしき物を持った城本君の姿がそこに。

 構えられている手を見て、彼が鈴木君の頭を叩いたのだと理解した。

「…鈴木、南野先輩が困ってるだろ…」

 やれやれと溜息を零しながら城本君が言う。

「何すんだよ、城本!!」

 鈴木君は蹲りながら城本君を見上げ、涙目で抗議した。

 それを見てもう一度大きな溜息をわざと零して城本君は言った。

「……だいいちお前、明日から集中合宿の続きに行くから無理だろ?」

「あ゛……」

 口を開けたまま、鈴木君は石のように固まった。その姿が憐れすぎて、何故だか私は罪悪感を覚えていた。

 その感情が顔に出ていたのか、城本君は私を見るなり首を振りながら告げる。

「…だめですよ、南野先輩。そんな事を考えると鈴木が付け上がりますから」

「……はぁ…」

 そんな事というのは可哀想だとか思った事なのだろうか、と考えながら曖昧な返事をする。

 さすがは鈴木君の親友を務めているだけはあって、城本君のそのアドバイスは的確なものだった。

 がばっと音が聞こえるくらい思い切り立ち上がるなり、鈴木君は私に迫ってきた。

「それじゃあ遠征のエールってことで、今日何か欲しいっス!!」

 すかさず、城本君の拳が繰り出されたのは言うまでもあるまい。「あほか!」という罵声はそのおまけだ。

 城本君に怒られて、鈴木君が幼稚な反抗態度をとる様子を見ながら、私は苦笑するしかなかった。

 しばらくして鈴木君が拗ねて落ち着いたところで、城本君が私に声をかける。

「…すみませんでした。受験生なのにお時間取らせてしまって」

「ううん、気にしないで」

「でも入試、そろそろですよね?」

「あー…うん、一応明後日なんだけどね…」

 口を濁しながら私がそう言うと、城本君は「え…」と少し驚いているようだった。そして申し訳なさそうに何かを言おうとして、

「えっ、南野先輩、何処か受験するんスか!?」

 横から口を挟んできた鈴木君の大きな声がそれを邪魔した。

 初耳だとばかりにいつの間にか復活した鈴木君が城本君の横へと歩み寄る。

 なんで、どうして、いつの間に、という疑問が言葉にするまでもなくその瞳が問い掛けていた。

 鈴木君のその様子に、思わず私の体がぎくりと強張った。

 私が外部受験をするということは、クラスメイトは勿論のこと、三年生の中ではほとんどの人が暗黙の了解で知っている出来事だった。しかし表立って自分から報告したわけではないので――特別授業を受けたりクラスのホームルームなどで先生が告げて皆はそれを知ったからだ――下の学年にまでは広がってはいなかったらしい。そもそも私は目立つ生徒ではないからな、と思いながらもそれではこの事を知っている下級生は、あの時あの現場にいた城本君くらいなものかもしれないと考える。

 別に黙っている必要性はない……はずだ。

 しかし鈴木君にその事実を知られるという事には妙に気がひけた。

 彼は天然で鈍いところがあり、見た目で少々ばかっぽい言動が多い。しかしさすがはサッカー部のエースだけあって天性の感は鋭く、私の事情にまで遠慮なく踏み込んできそうな危険があるからだ。

「えっと……その……、地元の高校に行こうと思ってて…」

 ゆっくりと、必要最低限の言葉を選んで口に出す。

 彼の目を見て言うことはできず、視線を横へと流した。

「…………」

 鈴木君は、じっと私を見つめているようだった。

 真っ直ぐなその瞳が、酷く私の心を揺さぶる。

「―――嘘だ」

 と。

 思わずその声の低さに、私は息を飲み込む。

 そしてだめだと思いながらも弾かれたようにして顔を上げていた。

 視線が――ぶつかる。

「嘘だ」

 と、もう一度同じ言葉を鈴木君は告げた。今度は私と視線を合わせながら。

「……………ぁ…」

 たとえ言い訳じみた言葉でも構わない。何かを言わなければいけない。

 そうしないと、私は彼の真っ直ぐな瞳に飲まれてしまうと思ったからだ。

 ……でも、それすらもできなくて。

 私は口を小さく開いただけで言葉にはならなかった。

(……真っ直ぐな視線はキライ…)

 だから私は表舞台では生きられない人間なんだと、全く関係ないことを頭の片隅で考える。

 私も、鈴木君も、何も言わない。

(……嫌な沈黙だ…)

 私は唇をそっと噛み締めた。

 そしてその時、私達の沈黙を破るようにして城本君が言葉を発した。

「少し、お話していきませんか?」

 感情を悟らせないような笑みをその顔に浮かべて。




 二人に連れられた場所はサッカー部の部室だった。強豪と言われて他の運動部に比べて良い待遇をされているだけあり、そこそこに広い部屋である。しかしただ広いというだけで、簡素な造りであることは変わりない。加えて男所帯というだけあって夏場よりはましとはいえ汗臭く、あれやこれやと奇妙な物が散らばっていて汚くもあった。それでも敏腕マネージャーの賜物か、キャプテンの指導のおかげか、机やホワイトボードなどが置かれている一角は綺麗にされていて、私達はそこにある椅子に座り、傍に置かれているストーブを囲むようにして位置した。

 ストーブはさすがに教室のように暖かい風がくるタイプの物ではなく、ガス線を引っ張って使う、熱を発して上にやかんが置けるタイプの物で、その大きさ故に無駄に場所を取り、しかも周りを暖めるだけで部屋全体を暖めることはできなくて古臭いことこの上なかったりするのだが、部室にストーブがあるというだけでもこの場合は贅沢というものだろう。

 ゆっくりと赤く染まり、同時に熱を発していくストーブを静かに見つめる。

 下校時刻を告げる放送を聞きながら、私は受け取った熱めのお茶を口に含んだ。

 下校時刻はあるものの、寮の門限に間に合えば大した問題にはならない。多少校舎に居座ったところで先生方に叱られることはないだろう。

 ふうふうと熱を冷ますように息を吹きかけながら私は黙々とお茶を飲み続ける。

 コップの半分くらいの量を飲み終えてから、私は視線をコップから彼ら二人へと移した。

 お茶を飲んでいる間も視線を逸らすことなく私を見ていたに違いない。ビシビシと彼らの視線を感じていたから、私はできるだけゆっくりとお茶を飲んでいたのだから。

 話を切り出したのは鈴木君だった。

「…二村先輩と何かあったんスか…?」

「…………秋に別れたの、私達。城本君もその現場にいたし…」

「な……ッ!?」

 鈴木君が信じられないという表情で驚愕に目を見開きながら城本君へと視線を向ける。城本君は一度だけ頷くことでそれを肯定した。

「なんで…っ!!?」

 バンッ、と横の机を力いっぱいに叩きながら鈴木君が立ち上がって私を見下ろした。

 言いたいこと、聞きたいことはたくさんあったのだろう。しかしそれでも鈴木君はその言葉の全てを飲み込み、やるせなさそうに瞳を伏せてから静かに椅子へと座りなおした。

 鈴木君の性格から考えれば、彼がこうして言葉を飲み込むなど滅多な事ではありえず、私は眉間に皺を寄せて酷く辛い表情をしている鈴木君のその表情を静かに見つめていた。

 言葉は、なかった。

 ――沈黙。

 私達のいるこの部屋の中は、とても静まり返っていて。ストーブの上にのっているやかんがかたかたと音を立てるだけ。

 そしてやはりその沈黙を破ったのは、先程と同じく城本君だった。

「……南野先輩は、逃げていると思います」

「………どうして…?」

「実家近くの高校に入りたいからって親のせいにしているだけで甘えてて、二村先輩からただ離れようとしているだけのように、俺には見えます」

「そんな……こと…は……」

 言葉が途切れる。

 城本君の私を見るその目が何かを語りたがっているようで、私は思わず目を伏せた。彼の瞳の語りかけに答えたら、私は私と言う許容量をオーバーしてしまって人形としての私までもが壊れてしまいそうだった。

「ないって言い切れますか、本当に?」

「…………」

 何も――言えなかった。

 私は堪えるようにして口を閉ざす。

「逃げてばかりだと…、いつか自分が壊れてしまいますよ」

 城本君の目が怖かった。きっと彼は今の私の心の中を全て見透かしてしまっている。壊れてしまった私の心も、勉強の縋り付くしかなかった私のことも。

 少し前に飲んだお茶が、喉に熱く痛かった。

 城本君は自分用にとコップに注いでいたお茶を一口飲み、少し渋いな、と呟いた。

「南野先輩はもっと自分に正直に生きるべきだと思う、俺は」

 今まで沈黙を守っていた鈴木君が言う。

「言いたいことがあれば素直にそれを口に出せばいいんスよ。そうしないと自分ももやもやが残るし、告げられなかった相手も悲しいと思うから。だから南野先輩も俺みたいにやりたい事、言いたい事ははっきりさせるべきっス!」

 胸を張って。

 まるで自分の言っている事は正しいのだと主張するように。

 その鈴木君の横で、城本君は苦笑していた。

 先程までの私を見据える瞳はそこにはない。

「…まあ、鈴木までいくとそれはそれで問題だと思うけど」

 城本君の隣りで、何だよそれは、と声を荒げる鈴木君を見事に押さえつけて彼は言葉を続ける。

「南野先輩はもっと二村先輩に我侭言ってもいいと思いますよ。俺達だって認めるくらいの相思相愛な恋人同士なんですから」

「…え………?」

(相思相愛? 誰と誰が……?)

 尋ねようとしたが声にならず、間の抜けた声で問い掛けてしまう。

 城本君はそんな私に向かって優しく微笑むと、私の聞こうと思っていることをその瞳だけで理解した様子だった。

「二村先輩と南野先輩のことに決まってるじゃないですか」

「う…そ………」

「嘘じゃないっスよ! 俺、二村先輩のあんな気持ち悪い表情……じゃなくて、優しげな表情他に見たことないですもん!!」

 普段からからかわれたり苛められているだけあり、鈴木君にとっての二村君の笑顔は相当不気味なものなのだろう。思わず口から滑ったようだがそれは聞かなかったことにするとして。

 私は二人が言っていることが信じられずにいた。

「……私…そんな二村君、見たことない…」

 呟きながら思い返す。

 私の知っている二村君の笑顔といえば、にやにやと人を小馬鹿にするようなものと、試合で勝った時の子供みたいな喜ぶものしかない。優しげな、だなんて一度も……。

(―――――あ)

 いや、一度だけ見た事があった。

 彼がそんな風に笑うだなんて信じられなくて見間違いだと思い込んでいたが、夏休み明けのあの日、彼は私に向かって優しげな笑顔を向けていた。

 思わず俯き、口元を手で抑える。

 零れそうになった言葉を封じ込めるように。

 城本君と鈴木君は、口々に言い始める。私はその初めて耳にする事に、頭の中で処理することができずに呆然としながらも、ただただ一言も漏らさないようにと耳を澄まし続けた。

「二村先輩、南野先輩を見る時はいつも優しい眼差しで見てるんですよ」

「そうそう。で、差し入れとかがあると俺達には食べるなーって後になって奪い取ったりしてさー」

「夏に合宿の事で悩んでいた時だって、南野先輩に叱咤されて情けないって思い知らされたってキャプテンに言ってたのを俺、聞きましたよ」

「あー、だからあん時の先輩、鬼のようだったんスかー…。なるほどなるほど…」

 知らない。

 そんな二村君は、私は知らない。

 そんな素振りは一度として見せてはくれなかったから。

 ……それともただ単に私が見ようとしていなかっただけ…?

「………っ…」

 言いたい言葉を飲み込み、見たくないものを見ないように務めた。そんな風になってしまったから、気づかなかっただけなのではないのか。

 酷く――今までの自分が滑稽に思えた。

 勝手に独りよがりな考えで心を壊し、感情を捨て去って。

「…男って女の人に比べてばかで子供だから、少しでも構ってほしくて好きな子をいじめたり、気持ちを確かめたくて浮気したりとかしちゃう生き物なんですよね」

 城本君は幼子をあやすような優しい口調で言葉を紡ぐ。

「……確かに二村先輩は何度も何度も浮気して南野先輩以外の人と付き合って、酷いと思います。同じ男として最低だって思います。でも二村先輩が浮気した気持ちも……分かるんです。きっと、二村先輩は南野先輩に言ってほしかったんですよ」

 たぶん人間の心の中には、自分でも手の届かない底なし沼のような場所があり、眠っていた感情やそういったものがある瞬間に吹きだすことがあるのだろう。壊れて、粉々になったガラスの欠片のような心は底なし沼に消えていったとしても、底に降り積もってそこに留まっていて。何かが心を揺さぶると、小さな音を立てて、その存在を知らせるのだ。

 目頭が―――熱くなる。

 目の前にいるはずの二人の姿がゆっくりとぼやけていった。

「………何も…感じなく…なってたの…」

 私はぽつりと言った。

 二人は何も言わない。

 今まで親友である唯にさえ告げられなかった私の思いを、何故かこの二人に向かって話し始める。確かにある程度の付き合いはあるとはいえ、私と彼らの関係はただの友人達を通しての先輩と後輩でしかないというのに。思いをのせた言葉は、塞き止める為の氷が徐々に溶けていくように。するりと私の口から零れていた。

「二村君が…他の女の子と付き合う度に……悲しくて…。キス…してるところ…を……見た時は……すごくショック…で……。ごちゃごちゃ…頭の中がいっぱいになって……、二村君を…好きでいる…自信がなくな…って……、心が……壊れてくのが…怖くて…」

 溢れるのは涙。

 そして、そこにのせられた思いの数々。

 私は―――泣いた。

 ばかみたいに、声をしゃくりあげて思い切り泣いた。

 何処にこれだけの涙があるのかと思ったが、きっとそれは今まで閉じ込めてきたという証拠なのだろう。だから溢れても溢れても留まることを知らないくらいの涙が零れるのだ。

 夏にも一度泣いたが、あれは両親の優しさに対してで。

 心を閉じ込め始めたその時から、はじめて泣いた。ぐちゃぐちゃになって、両手で顔を覆いながらうずくまるようにして声を上げて泣いた。

 今更ながらに、自分の勝手で二村君を失ってしまったという悲しみが現実のものとなって押し寄せてきた。

 彼に何も感じなく、思えなくなっていたのではない。――私が、そうしないようにしていたのだ。

「………二村…君……っ」

 ここ久しく伝えていなかった言葉を口に出す。大好きだった、本当に大好きだった。せめて別れる時だけでも告げなければならなかったのに。

 何度も何度も繰り返す。好き、好きなの、大好きなの、大好きだった。大好きだったの――と。

 私は涙が涸れるまで、ずっと言い続けた。




 試験開始の掛け声が教室に響き渡る。一斉に、シャーペンを手に持ってテスト用紙を表向けて、紙が机を擦る音がやけに騒がしく聞こえた。

 私は皆より一テンポ程遅れてテスト用紙を表に返し、問題に手を掛ける。始めに一通り問題に目を通して確認してから、私は第一問目から順番に解き始めた。

 根詰て勉強に日常を費やしたおかげか、さほど難しい問題だとは思えなかった。引っ掛け問題などに気をつけて慎重に取り掛かれば大丈夫だと私の頭が告げる。

 しかし問題を解きながらも私は先日の言葉を思い出していた。


 ――まだ今なら間に合うと思います。


 泣き止んだ私に、そう言ったのは城本君。

 前と同じように私にハンカチを差し出しながら、彼は優しく微笑んだ。


 ――好きだったって過去形にしてたけど、先輩は今でも好きなんでしょ?


 にっと笑いながら、鈴木君もそう言った。

 そんな彼の笑顔はとても眩しく見えた。でも、その真っ直ぐな瞳を嫌いだとは思わなかった。

 結局、二村君のことを好きで好きで仕方がなかったから、何があっても私から別れ話を持ち出すことはしなかったのだと今だからそう思える。二村君も私と同じ気持ちだったのだと自惚れてもいいのかな、と考えて見回っている試験官の先生に分からないように小さく笑った。

 そして今も、私は二村君のことが好き。過去形なんかじゃ……ない。

 かりかりとシャーペンを動かしていた手を止める。そして私は問題用紙の片隅に、好き、という言葉を書いて、それをじっと見つめた。

(………白紙で出せば、私は不合格かなぁ…)

 そうしたら選びようもなく、私は高校も必然的に星ヶ丘中学に通うことになる。

 私はもう一度問題用紙に今度は大きく、好き、と書いてみた。

 そして―――……。




 プシュウゥッ、と扉が閉まり五月蝿い音とともに電車が走り出す。扉が開いたすぐ後の喧騒は既になく、人気の少なくなったホームに私は佇んでいた。肩から大きな鞄をぶら下げる。中に入っているのが数日分の着替えとはいえ少々重い。だがそれ以上に背中に背負っている小型のリュックが重いような気がするのは、その中に入っている教科書類一式のせいだろう。

 ホームを降りて改札口を通り抜けて出入り口へと向かう。駅から出た途端に肌に突き刺さる風の冷たさに、私は鞄からマフラーを取り出して首に巻いた。

 向こうに長居をしてしまったせいで、戻ってくるのが少々遅くなってしまったことが少しだけ悔やまれた。昼間のうちに戻って来ていればもう少し暖かかったかもしれないからだ。辺りは既に所々の電灯がつきはじめていてゆっくりと夜の闇が迫り始めている。駅前を通り過ぎる人々を見て、足早に歩き去る中年の男性の姿が少ないことで今日が日曜日だったことに気づく。同時に仲睦まじげなカップルが多いことに、さすがはバレンタインデーだと思った。街の飾りもクリスマスやお正月ほどではないものの、その色に染まっている。

 私の目の前で、同じ年頃のカップルが腕を組んで歩いて行くのを見て、一度だけ白い息を吐き出すと止まっていた足を動かして歩き始めようとし――真正面の電灯に凭れかかるようにして立っている人の存在にようやく気づいた。

 ―――二村君だ。

 私は彼を一瞥し、正面に向かって歩みを進める。そして彼の目の前まで歩いたところで、

「こんばんは」

 と声を掛けた。

 彼は、ああ、と短く言葉を返した。

 お互いがお互いを、じっと見つめ合う。

 そして二村君は私の手から大きな鞄を奪うと、マフラーを巻きなおした後に自分がはめていた手袋を私へと渡して無言で歩き始めた。

 私は少々ためらいがあったものの、その問答無用な態度に何も言おうとはせずにありがたく手袋に手をとおした。自分では冷えているとは思わなかった私の手は、どうやら私が冷えてきたと思わなかっただけでかなり冷たかったようで、手を包み込む手袋がとても暖かく感じた。そして私も彼の後を追うように歩き出す。

 私の歩くペースに合わせてくれているのか、二村君に置き去りにされるという事はなかった。私は彼の斜め後ろの位置を保つようにして歩き続けた。

 雑踏している駅前を抜けて街並みを二人で歩く。

 周りの連れて歩く人たちが賑やかなのに比べて私達はずっと無言で歩き続けた。

 街並みを抜けて少し団地めいた場所に差し掛かった時には人々のざわめきは聞こえなくなっていた。私と二村君の足音だけが響き、時々遠くで鳥の鳴き声が聞こえてくるくらい静かだった。

 ぽうっと小さな音を立てて、また一つ、また一つと電灯が灯り始める。

 二人の影が、長く並んで私達の後ろへと伸びていた。

「………試験、結構楽勝だったの」

 ぽつりと私が話し始める。

 二村君は「そうか」と答えるだけで他に何も言わなかった。

 私はそれに構わずに言葉を続ける。

「……自分でもいいできだったと思う。一応全部の問題解けたから、ミスさえしてなかったら最高の出来」

「………ああ」

「……面接でも在り来たりだけど無難なこと答えておいたからダメな印象は与えてないと思うし」

「………ああ」

「……内申書は先生の折紙つき」

「………ああ」

「……自分で言うのも何だけど、合格は確実だと思うの」

「…………そうか」

 二村君の声はかすれていた。

 私はそこで一息つくと、その場に立ち止まり、彼を見つめた。

 横目で私が止まったのを見て、二村君も足を止める。そして彼もまた私を見つめた。

「………ねぇ、二村君は私にどうしてほしい?」

「……どうして俺に聞く?」

「なんとなく」

「…………卑怯だな」

「……そうかもね」

 苦しそうな顔をしていた。答えるのが辛いというような、そんな顔。

 でも、秋に私ともめた時に比べたらまだ幾分かは苦しそうではなかった。……あの時の彼は、怒っていたはずなのに、今私が振り返って思い出す表情は苦しげな表情でしかないから。

「………俺は…穂香と同じ高校に行きたい」

「……どうして?」

「お前を好きだから」

「…………どうして?」

「好きだと思うのに理由なんていらねェよ」

 二村君は、真っ直ぐだった。

 その真っ直ぐな気持ちのまま、真っ直ぐな視線を私へとぶつける。苦しげな表情はそこにはもう……ない。

「……お前は…?」

「………私も…」

「………」

「………二村君が好き」

 嘘は――つかない。

 見て見ぬ振りや聞かない振りはしないと決めたから。

 私もただただ、まっすぐに彼の瞳を見つめ返した。

「…どうして俺が好きなんだ?」

「……理由なんてない。二村君が二村君だから……、だから私は貴方が…好きなの」

「………そうか」

 会話が終る。

 出会った頃、私達が話していたことはどんな話だっただろう。一緒に勉強をして、部活に差し入れをして彼の勇士に感動しながら見学して、サッカーの練習でなかなか都合がつかなくてまともなデートの数は数回だったような気がする。それでも、たとえ時間が短くても、私達はたわいもない事を話しては笑い合い、そしてそこには子供の頃に嬉しい事があって夜眠れなくなるような、そんなドキドキが存在していた。

 それではそのドキドキは過去だけのものなのだろうか。

 ――否。

 私が貴方を好きでいる限り、それは永遠の気持ちだと思いたい。

 二村君が、尋ねる。

「……穂香は俺に何を望む?」

「………どんな言葉を返せばいい?」

「穂香の思った通りに」

「…………いじわるだわ」

「そうだな。でもそれが俺だし?」

 私達は久しぶりにちょっと笑った。

 頭の中で、後輩二人の言葉がよみがえる。


 ――南野先輩はもっと二村先輩に我侭言ってもいいと思いますよ。


 口を開き、少し躊躇ってそのまま何も言わずに口を閉ざす。

 ゆっくりと、自分を落ち着かせるように深呼吸をして、私は再び口を開いた。今度はしっかりと音が紡がれた。

「…私以外の女の子と付き合わないで……」

 声が――震える。

(ああ、まただ……)

 と思いながらも私は目頭が熱くなるのを抑えられなかった。何だかここのところ泣いてばかりのような気がする。

「……私以外の女の子とキスしないで………。触れるのもいや…」

「…ああ、分かった」

「……もっともっと、二村君と一緒にいたいの。…もっともっと二村君のことを知りたい…から…」

「…ああ、分かった」

「……いじわる…しないで、優しくしてほしいの…。二村君の……笑顔が…見たい…」

「………ああ、分かった」

「…………私の傍にいて…」

 気がつけば、私の体は二村君に抱き締められていて。

 久しく感じていなかったその体温と匂いに、私は涙が溢れるのを止めることができなかった。

 触れ合うほどの距離に、二村君がいてくれる。

 トクンッ、トクンッ、と二人分の心音が心地よく合わさる。

 私を抱き締めていた腕の力が緩み、私はそっと上を見上げた。

 涙のせいで、そこにあるはずの二村君の表情がはっきりと見えない。だから手で涙を拭おうとし、その前に二村君の大きな手によって私の涙は拭われていた。

 はっきりと広がった視界に映る彼の表情を見て、私も自然に微笑んだ。

 ――二村君は、優しげに、愛おしげに、綺麗な微笑を浮かべていた。

 前に一度見た微笑とは比べ物にならないくらいの、その綺麗な微笑みは私の胸を高鳴らせる。

 私はゆっくりと瞳を閉じる。

 そして、私達は約束のようにくちびるを重ねた。

「………何か恥かしいね…」

「………バカなこと言ってんじゃねェよ…」

 素っ気無く言うものの、私と同じくらいに二村君の顔も赤くなっていて。

 それが嬉しくて。

 私達は顔を合わせて小さく笑い合った。

「行くか」

「……そうだね」

 私は手袋を片方はずし、二村君にそれを返した。

 二村君は、きょとんっとして見せたものの、すぐにその意味を理解するとそれを片手にはめる。

 そして私達は手袋を繋いでいない方の手を繋ぎ合い、歩き始めた。

「………べただな…」

「……べたでもいいじゃない、私は嬉しいよ?」

「…………あほ」

 ぎゅっと二村君の手を握りしめて。

 二村君は私の手ごと自分の着ているコートのポケットの中へと突っ込んだ。

「…今年はチョコねェの?」

「………用意してない…から……明日…ね」

「……ほー…」

「あ、鈴木君にチョコレートケーキ作らなきゃ」

「……なんであのバカにあげんだよ…?」

「約束したから。……城本君にもあげないと」

「………ほー…、それはそれは…」

「あと唯にも謝りついでにあげよっかな…。む? だとしたら澤田君も…?」

「……なんでそーなんだよ、おい…」

「いいじゃない。二村君だけが本命なんだから」

「………それでも俺は嫌なんだよ、悪かったな」

 照れ隠しか、焼きもちからか、二村君は少しだけ歩みを速めた。

 私もまた、二村君の歩く速さに合わせる。

 どんどんと暗くなっていく世界の中、遠くに学校の門が見えた。門の所に灯があるのか、その場所だけが切り離されたようにして明るい。

 私達は門をくぐった。

 その先に広がっていたのは、見慣れた校舎と寮で。

「おかえり」

 と、二村君が言った。

 その表情は、見慣れたいつものにやにやした笑い方だったのだけど。――その瞳はとても優しい色を浮かべていて。

「ただいま」

 と、私は二村君に答えた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ