後編
◇◆◇
これはどういう状況なんだろう。
イオリは夢を見ているのかと、自分の頬を抓ってみる。
(…痛い…。)
確かな痛みを感じて、気を取り直す。
目の前には、今は閉じていて見えないが、綺麗な紫水晶の瞳を持っているであろう男性が眠っていた。
イオリの記憶が正しければ、昨夜は確かに一人で寝ていたはずだ。バルコニーにいた時間が長かった為、何時もよりも眠るのは遅かったが。
(会いに来て…くれた…?)
眠っているヴィルの端正な顔には、幾分疲れの色が見える。夢ではないと確かめたはずなのに、何処か夢の様に思えて、目の前のヴィルの顔にそっと手を伸ばす。
頬に触れた手には、しっかりと熱を感じる。
「…何を…している?」
目覚めたヴィルに手を掴まれ、目が合う。掠れた声は色気を含んでいて、イオリは恥ずかしくなって離れようと身動ぎした。
ヴィルの腕がイオリを逃がさないと言う様に背中に回る。
「…あ、の…?いつ来たんですか…?」
「昨夜…其方はもう寝ていたが。寝惚けていたのか、様子を見に来た余の服を掴んで離さなかった。」
「え?!ご、ごめんなさい…」
背中に回っていたヴィルの手が離され、それを淋しく思う。イオリは思い切ってヴィルの腕に抱き付き、起き上がろうとするヴィルを止める。
「どうした?」
「…ま、まだ対価を、払ってません…!」
「その事なら、もう終わったはずだが。其方の時間を買っただろう。」
すげない態度であしらわれ、それ以上何も言えなくなり腕を離す。
自分には魅力がないのだろうか。だが、ここ数日でがりがりだった身体には多少肉も付いたし、胸や腰回りは元々それなりに肉が付いていた。
初めに子供だと言われた通り、おそらくヴィルの好みではないのだろう。だったら、どうしてヴィルはイオリを買ったのか。
(…可哀想な子供を…放って置けなかったから…?)
朝食中も、ヴィルが部屋を出る時もイオリは心ここにあらずと言った調子で、その事ばかり考えていた。
イオリはもう既に、ヴィルに心を奪われているのかもしれない。きっと、初めてあの瞳と目が合った時から。ヴィルに振り向いてもらいたい。その為ならどんな事でも、どんな苦労も厭わない。
イオリはまず女性の従業員に何かいい方法はないかと聞いてみる事にした。
いつも何かと気を使ってくれる女性の従業員が昼食を持って来てくれたので、イオリは思い切って声を掛ける。
「あのね、例えば…例えばだよ?もし好きな人がいて…その人は自分に興味がないみたいで、相手にされなかったら…どうする?」
「そうですわね…まずは告白してみるでしょうか。」
女性がイオリの質問に何か勘付いたのか、クスリと小さく笑って答えてくれる。イオリが温室にいる間に部屋の掃除やベッドメイクなどをしてくれているのは彼女なので、イオリの悩みが何なのかも知っているのだろう。
「…出会い方が人とは違って、告白も効果が薄そうな時は?」
「とにかくアタックあるのみですわ!…あ、でも…」
「でも?…他に何かあるの?」
女性が僅かに言い淀み、イオリは藁にも縋る思いで続きを促す。
女性は噂だから真偽はわからないと前置きしてから、ある噂を教えてくれた。
曰く、夜になると裏路地に人知れず、とある店が開く。その店は毛生え薬や惚れ薬、媚薬などの怪しげな魔法薬を売る店で、法外なお金と引き換えに自分の欲しい薬を調合して貰えると言う。
女性はただの噂だと笑っていたが、イオリは僅かな希望であろうと縋りたい。女性に今夜外に出たい旨を伝え、協力を取り付けた。
夜までの時間を、様々な事を考えながら過ごす。
ヴィルには配偶者、もしくは恋人はいるのだろうか。いた場合は自分はどうすればいいのだろうか。いなかった場合、薬を使用して手に入れた心で、自分は満足するのだろうか。
不安や期待が綯交ぜになり、昼食も夕食もあまり食べられなかった。
入浴を済ませ、外出用の服に着替える。女性に外は寒いと言われ、きっちりと上着まで着こんだ。なんとなく宿の主人には見つからない様にこっそり外に出て、まずはヴィルと出会った路地裏に向かって走る。
あの日の路地裏をさらに奥に向かって進むと、路地の突当りに一軒の店があった。中からは微かな光が漏れ出ていて、扉に掛かる札から開いている事を知る。
(…このお店が、噂の…お店?)
少しだけ扉を開いて中を覗く。そんなに広くないらしく、棚には薬が並べられ、その他にもよくわからないモノが入った瓶や魔物の素材などが並べられていた。
店の中には先客がいるようだ。店主であろう、口元や髪をベールで覆い隠しているにもかかわらず、美しいと思える女性が男と話している。その男を見て、イオリは目の前が真っ暗に染まったような錯覚を覚えた。
(どうして…?どうして、ヴィルさんがここに…!)
ヴィルの口元には僅かながら微笑が浮かべられている様な気がして、遠目にも女性と親しい様子が窺える。
誰が見たとしても、2人はお似合いだと答えるだろう事は解る。所詮イオリは、ただヴィルの気まぐれで拾われ、買われたに過ぎないのだ。
きっとイオリを拾った日もこの店を訪れようとしていたのだろう。でなければ、イオリに気が付きすらしなかっただろうから。
そっと扉を閉めようとしたところで、店主の女性と目が合う。イオリは慌てて扉を閉め、来た道を引き返した。
◇◆◇
「あら。可愛らしいお客さんが来たと思ったのに。きっと貴方の所為で帰ってしまったんだわ。」
「何の事だ。魔女…それより、例のモノの用意は出来ているのか?」
魔女が扉の方を見てくすくすと笑う。ヴィルフリートは怪訝な表情を浮かべて、魔女に尋ねた。
魔女はわざとらしく溜め息を吐き、カウンターの上に綺麗な紫の宝石を置く。
「守護の魔法だったかしら?ちゃんと掛けたわ。…それにしてもこのサイズの、ましてや紫の宝石なんて、無茶を言うわね。10回も失敗しちゃったわ。」
「相応の報酬は支払ったはずだ。」
「まぁそうだけどぉ…あ、これに宝石を付けてね。ミスリル銀製だから、効果増幅よ?」
ヴィルフリートは魔女から品物を受け取り、それを大事に内ポケットに入れる。その様子に、魔女がクスリと笑った。
「プレゼントなんて…それに貴方の瞳の色の…、何があったのかしら?」
「特に…いや、お前に隠しても無駄か。…子猫を拾ってな。これは、所有証代わりだ。」
「あら、随分大切な子猫なのね?貴方、自分がどういう顔をしてるか気が付いて?…そんなに大切な子猫なら、早く行ってあげた方がいいわ。きっと盛大な勘違いの真っ最中でしょうから。」
「どう言う事だ?」
魔女は意味深に笑うばかりでそれ以上は何も言わず、ヴィルフリートは眉を寄せた。早く行けとばかりに笑ったまま扉を示され、釈然としない思いを抱えながら魔女を一瞥してから店を出る。
魔女に言われた言葉がどうにも無視できずに、城に帰るのを止めて宿屋に向かった。
◇◆◇
イオリは宿屋に戻って、何かあった時にと雑貨屋から購入しておいた小さなトランクに衣服を詰めていた。
ヴィルから渡された小袋から金貨を1枚だけ取り出し、残りの小袋はテーブルの上に置き手紙と一緒に置いておく。早くしなければ、もしかするとヴィルが来てしまうかも知れない。
(…これでいいんだよ…きっと、僕は邪魔だから…)
小さなトランクを持って扉を開ける。扉から出たところで誰かにぶつかり、トランクを手離して、後ろに倒れそうになったところを抱き留められた。
「…どこへ行く。」
「…あ…。」
一番会いたくて、一番会いたくない男と鉢合わせしてしまった。
イオリの顔色がサーッと潮が引くかのようになくなり、ヴィルから離れようと必死に身動ぎするが、腕の力で敵う訳もなく、やすやすと抑えられた。
腕を掴まれて部屋に戻され、ヴィルの後ろで扉が閉まる。
「答えろ。何処に行く心算だ。」
「…貴方には、ヴィルさんには関係ない…!」
「…お前は、余が買っただろう!」
ヴィルの言葉がイオリの胸に刺さる。だからこそ出て行きたいのに、どう伝えればいいのか。こんなに苦しい思いをするくらいなら、出会わなければよかった。
「…お金は、何年掛かっても…必ずお返しします。…だから、僕の事はもう放って置いて…!」
渾身の力を込めて、ヴィルの腕を振り解く。勢い余って、そのまま後ろに尻餅をついてしまった。慌てて起き上がろうとするが、それよりも早くヴィルに押し倒された。
見上げたヴィルの表情は無表情にもかかわらず、瞳には確かな怒りが窺えた。
「何が気に入らない?」
感情を抑えた様な平坦な声で問われ、イオリの瞳に涙が浮かぶ。
「…僕を、どうして拾ったの!?こんなに…つらいなら、買われたくなんて、なかった!」
浮かんだ涙が零れ落ちて、ヴィルの顔が霞む。涙でよく見えない視界から見える顔は、何故か辛そうに歪んで見えた。
「…好きにするといい。」
抑えられていた腕が離され、ヴィルがイオリの上から退く。
立ち上がったヴィルが胸元に手を入れて何かを取り出し、イオリの上に投げ落とす。
スカートの上に落ちたのは、大粒の紫の宝石の付いたチョーカーだった。
「それは餞別だ。それから、金も返さずとも良い。」
それだけ言って踵を返すヴィルの服を、咄嗟に起き上がって掴む。
この手を離すと、きっと二度と会う事は叶わない。そんな確信に似た予感を感じて、上着の裾をしっかりと握った。
ヴィルが視線で離す様に、言葉もなくイオリに鋭い一瞥をくれる。
「好きなんです!!…だから、ヴィルさんが他の人を想って…あの綺麗な女性と「何の事だ?」
イオリは一世一代の告白を途中で遮られ、ヴィルは怪訝そうに振り返る。
身に覚えのない様子のヴィルに、遮られてショックを受けながらも僅かな期待を覚える。
「…さっき、裏路地のお店で…」
「…魔女の事を言っているのか?冗談ではないな。」
心底嫌そうに、吐き捨てるように言ったヴィルに、イオリは目を瞬かせる。親しそうにしていたのは、イオリの勘違いなのだろうか。
部屋を出ていく様子もなくなったので、握っていた手を離して立ち上がる。
チョーカーを両手で祈るように胸の前に握り込んで、不安げな顔でヴィルを見上げた。
「あの日も…あのお店に行こうとしていたんじゃ…ないの?」
「…魔女が言っていたのは、これか…」
ヴィルが溜め息と共に何か呟き、イオリは首を傾げる。
「…何を勘違いしている。余があそこにいたのは、お前の手に持つそれを取りに行っていた。それに、あの日お前を見つけたのも偶然だ。」
「…じゃあ、僕を買ったのは…?」
もしかすると望む言葉が得られるかもしれないと、期待を込めて見詰める。ヴィルが苦虫を噛み潰したような顔で、イオリの視線から逃れるように顔を背けた。
「余が買っている間は、少なくとも他に客は作らぬだろう。」
それはどういう意味なのか。イオリは咀嚼する様に言葉の意味を考える。
(…それってつまり、僕を他の人に買われたくなかったって事…?)
自分の都合のいい答えに辿り着き、そんな訳ないとすぐさま否定する。それでも一度考えてしまった事は消えず、ヴィルの言葉の続きを待つ。
だが、いつまで待っても何も言わないヴィルに、イオリは業を煮やす。
「…それで、僕の事が好きなの!?好きじゃないの!?」
「解らぬ。…だが、この感情がそうなのかも知れぬな。」
「僕は好き!たぶん、あの日から…!」
先程遮られた告白を再びはっきりとした言葉にした。
衝動のままにヴィルに抱き付き、上目遣いに様子を窺う。吐き出された溜め息に、落ち込みそうになる気持ちを奮い立たせる。
「ならば、お前は余のモノだ。」
額への口付けと共に抱き返され、嬉しくて零れそうになる涙をそのままに満面の笑みを浮かべる。
思い切って首に腕を回してキスを強請ると、小さな溜め息の後に唇に甘い感触。
初めてのキスは、少ししょっぱい涙の味がした。
◇◆◇
「そういえば、ヴィルさんって本名じゃないよね?」
イオリが隣に座っていたヴィルフリートの顔を覗き込んで問い掛けた。
ヴィルフリートは頷いてから、僅かに逡巡する。
「良いのか?聞けば、知らなかったでは済まされぬぞ。」
「…何かあるの?…でも、知りたい。」
不安げな表情になりながらも離れる心算はないと、ヴィルフリートにイオリが抱き付いてくる。
ヴィルフリートは口元に無意識に微かな笑みを浮かべて、抱き付いて来たイオリの髪を撫でた。
「ヴィルフリートだ。」
「ヴィルフリート…?…んと、皇帝陛下と同じ名前なんだね?」
「余がその、皇帝だからな。」
「…え?」
微笑みながら無邪気に問い掛けるイオリに、ヴィルフリートは何でもない事の様にサラリと告げる。
イオリは笑顔のまま固まって、小さく声を漏らす。ヴィルフリートは固まったイオリの顎に手を添え、唇の触れそうな位置で喉で笑う。
「残念であったな。もう、逃げられぬと思え。」
甘いイオリの唇を堪能し、くたりと寄りかかってくる身体を抱き締めて耳元で囁きかけた。
__お前は、花もその身も…マッチ一本残らず、余が買ってやろう。
お月様に、後編の途中から改変されたものを置いています。
よろしければそちらもどうぞ♡
アナザーエンド的な!
前編・中編はこちらに置いているものと同じです。